「民医連医療」誌への投稿原稿
「民医連医療」編集部殿
min-iren@min-irenn.gr.jp「非営利・協同」についての意見を募集するとのことなので,投稿しようと思います.といっても大変忙しくしておりまして,あまりまとまった形で述べることは出来ません.舌足らずの場面,誤解などありましたらご指導願います.
1999.8.20
鈴木 頌
1.「非営利・協同」という言葉の意味
この言葉はかなり唐突に出され,その意味の説明も不足しているように思えます.私など最初は非営利・共同の間違いかと思っていました.
たしか今年の春頃から,「人権か営利か」という標語が出てきていたのは憶えていますが,いつのまにかそれが「非営利・協同」ということになり,しかもそれがこれからの民医連を方向付ける言葉のような扱いを受け始めたことにビックリしました.
前田事務局長論文にはこう述べられています.
それは「医療戦線の統一」というスローガンを発展させ,それに代わるものとなります.それは平和・人権・福祉の新たな日本を作り上げる壮大な提起です.
議論をする前に,以下の点ははっきり確認する必要があります.「非営利」という言葉だけを先入観なしに考えれば,それは当たり前のことです.ただし医療は少なくとも法律上の建て前としては非営利なのです.ことさらに民医連が「非営利」を打ち出せば,ほかの医療機関がどう思うか,若干の不安を覚えます.
「協同」についてはもう少し複雑です.「共同の営み」については,各界の合意がすでに形成されていると考えて良いと思いますが,「共同」と「協同」ではかなり意味が違ってきます.
ところで私は,「非営利・協同」というのは「非営利」と「協同」という二つのスローガンかと思っていましたが,その筋では以前から「非営利・協同」という一つの概念として用いられていることを,最近知ることが出来ました.
もしそのように使っているとすれば,「人権と非営利」という標語と「非営利・協同」という考えは,非営利という言葉が同じだというだけで,まったく異なったものということになります.
提案者としては「非営利」と「協同」ではなく,「非営利・協同」という一つの路線を提示しているのだということを明示する必要があるのではないでしょうか.
2.「非営利・協同」の多義性について
非営利・協同の基礎となっている考え方にはかなりの幅があります.ほとんど呉越同舟の世界です.
たとえば,イタリアの「構造改革」に近い考え方,70年代のフランスで華々しく打ち上げられた「自主管理」の路線,さらにさかのぼれば,イギリスの消費者生協運動,プルードンからルイブランに至る労働者生産協同組合,ネップ期のトロツキーらによる労働者管理論,それに対するレーニンの批判など,さまざまな理論との関連で語ることが出来ます.
いずれの場合もサンジカリズムのニュアンスに近く,政治権力の獲得を最大課題とする科学的社会主義の見地と対抗する形で語られる場合が多かったように思えます.
関連して語られる言葉も「参加」,「直接民主主義」,「分権」,「共同決定」など,いかにもそれらしい香りが漂っています.
いくつかの論文を読んで感じたのですが,「非営利・協同」には,その言葉をそれぞれの思いで語る,三つの傾向があるようです.一つは社会変革の路線としての,ひとつは経営・運営形態としての,そしてもうひとつは組織論としての「非営利・協同」です.
3.「非営利・協同」路線に対する疑問
勉強不足で,今回初めて知ったのですが,「非営利・協同」論の背景にはイタリアの協同組合が提唱した第三セクター論というのがあるようです(論文5参照).
日本で第三セクターといえば官僚の天下りとか,自治体破産の犯人として有名ですが,イタリアでは民間部門でも,公的部門でもない第三の経済部門という意味で使われているようです.具体的には協同組合のほか,いわゆるNPO組織が該当するようです.
イタリアの民主勢力としては,この経済分野を「非営利・協同」の精神で拡大し,やがては第一,第二の経済部門を圧倒するような勢力としたい考えのようです.
こういう考え方は昔からイタリアの伝統で,60年代には「構造改革論」として日本でももてはやされたことがあります.
私が考えるには,おそらくイタリアの人たちは,革新自治体の下でそれが実現していることをあまりにも当然のこととして度外視しているのだと思います.フィレンツェからボローニャに至る赤いベルト地帯と,協同組合運動は符合しているように思えるのですが,いかがでしょうか.
日本で「非営利・協同」を唱導している人の中には,角瀬先生のような立派な方もいますが,そうでない方もいらっしゃるようで,注意深く見ていかなければなりません.とくにいわゆる公的セクターをジュッパひとからげにして,事実上民間経済と同列視し,その民主的変革を放棄するような議論は避けなければなりません.
4.真の「共同性」の復権を
憲法13条が「自由な個人」の権利であるのに対し,25〜27条は,人間が共同的な生き物であり,共同体を媒介として生きている存在であることを前提として初めて成り立つ権利です.生存権や教育権・勤労権を主張する私たちは,そのことを通じて諸個人のヒューマンな共同性を主張しているのです.共同性の主張は,各人が個性を主張し,実現するのと矛盾しません.両者は相補的な関係にあります.
民医連における職員と患者さん,共同組織のみなさんとの「共同のいとなみ」も,国民としての権利を擁護するこの共同性に由来しています.そのいとなみは医療の「公共性」を守り発展させる運動の中に統一されています.
「共同性」は「自由な諸個人の協同」として発揮されることもあります.しかしその原理的性格からいえば,各々が自らの階級的・階層的集団に帰属し,それらの諸集団が「統一」戦線の一翼を担う組織として結集し,そのことを前提として,諸集団の運動が,医療という共通の課題をめぐって相互に連帯していると考えるべきでしょう.
大事なことは,それらの活動を通じて,日本国民としての「あるべき共同性」を実現することです.共同性の発露たるべき公共サービスを充実させ,真の共同性にふさわしいものに変えていくことです.少なくともその切り捨てや変質,「営利化」を阻止していくことです.つまり国民の療養権を真実の権利とすることです.
その大枠の中でこそ,「非営利・協同」の事業も生彩を放つことになるでしょう.
5.経営論としての「非営利・協同」
かつて一時期,有田光雄氏の「民主経営論」が話題になりました(論文3参照).今回「非営利・協同」論を学ぶうち,有田論文のルーツはここにあったのか,と思いあたりました.
「大衆的所有」の観点は,民医連の歴史的な苦闘の痛切な教訓として導き出されたものであり,民医連の経営を評価する上での決定的なポイントになっています.
しかしそのことを以て「大衆的所有こそ民主医療の原点」とするのは,本末転倒と言わざるを得ません.「大衆的所有」は大衆的闘争の一つの形態でしかありません.人々は闘いのなかで,闘いにもっともふさわしい形態を見いだし,創造的に適用していくのです.
なお有田氏は資本論を引用して「協同組合所有こそが社会主義につながる経営である」と主張しています.しかしその引用は正確さを欠いています.
この一節で省略した引用部分で,マルクスが言っているのは,株式会社制度は信用制度というあたらしいシステムが出現しなければ存在し得ない経営形態であること,したがってそれは社会主義への過渡形態だということです.
マルクスはことのついでに協同組合工場にも論及しています.生産の社会化という物指しから見れば,協同組合工場はおよそ進歩的とは言えないが,信用制度を成立の基礎としているという意味では,株式会社と同様に資本主義の一定の段階に照応した新しい流れ=過渡形態と考えられるというのです.
過渡期にあるのは,信用制度が広範に広がった資本主義の一段階であり,協同組合工場は,その過渡期を表現する一つの形態(株式会社に比べれば主要な形態ではないが)なのです.
6.組織論としての「非営利・協同」路線
「非営利・協同」路線は,運動主体の組織論としての側面も持っています.今度の文章では民医連も非営利・協同組織の一つだとされています.おそらく民医連も他のNPOと同じなんだから仲良くやっていきましょう,ということだろうと思います.それはそれでいいのですが,民医連という組織の本質を「非営利・協同」と規定してしまうのはちょっと困ります.
そもそも論でいえば,「組織」は外的環境との代謝過程としてとらえられなければなりません.平たくいえば「組織は生き物」です.あらゆる組織上の原則は条件的・可変的なものであり,階級間の力関係を反映して絶えず創造的発展を余儀なくされます.
民医連の組織としての本質は,その目的意識性にあります.科学的な見通しに基づいて民主的医療の実現を目指す組織,というのが民医連の売り物です.
組織の民主性は,基本的には,その目的の合法則性によって規定されます.組織の運営スタイルが民主的かどうかを決して等閑視することは出来ませんが,逆にその組織がいかに民主的かつ「協同組合」的に運営されようと,「最小抵抗線」上を走るだけで民主主義のために闘わない,というのでは意味がありません.
これまでの組織論は,社会学的解釈と形態学的分類が先走ってしまい,変革の視点が不足しているように思えます.油断していると,科学的社会主義に基づく組織もファッショ的組織も,あやしげな新興宗教も,公認の民主主義から外れた異端のグループとして一括されてしまいます.
7.「民主」はダテではない
民主と営利は絶対的矛盾の関係にはありません.民医連といえども適正な利潤を追求することが必要です.
「非営利たらざれば,民医連にあらず」という主張は機械的です.どこまでが適正か,どこまでが「非営利」かという議論に,民医連の本質がワイ小化されてはなりません.
山梨事件以来このかた,組織原則としての「民主」の内容もすでに十分議論され,まさに原則として確立しています.すなわち,組織の民主主義を支えるのは「リアルで正確な方針,患者・住民との強固な結びつき,内部における高い水準の団結」だということです.
「民主」を隠語だと決めつける向きもあるようですが,(確かに乱用のキライはありますが),「民主」はたんなる組織のシステムの問題ではなく,私たちの目標でもあるということを考えるべきだと思います.
「民主」は何よりも,反民主的なものごとを許さず,それと闘うことを明確に示す旗印です.人権の抑圧,社会・環境の破壊,営利主義の横行と明確に対決する立場を,私たちは「民主」と呼ぶのではないでしょうか.
わたしたちは日本の医療集団のなかで「民主派」を形成しています.この「民主派」は,国民の立場に立ち,現行の医療体制の根本的変更を要求するだけにとどまりません.この「民主派」の最大の特徴は,そのことを自らの組織論理として公然と宣言している集団であるところにあります.私たちはそのことを「民主」と表現しているのです.
第三に,「民主」は医療分野での共同,地域における民主勢力の結集,広範な国民の民主的統一を志向しています.「民主」は共同,統一と堅く結びついたスローガンなのです.
【参考文献】
北田寛二:かれらの越えようとするものはなにか、「葦牙」第八号の本質:文化評論、1987
野沢正徳ほか「自立と協同の経済システム」大月書店 1990
上田・不破「マルクス主義と現代イデオロギー」大月書店 1963
「現代と思想 26号:現代の社会変革と組織論」: 津島陽子「現代自主管理論の組織論的諸問題」
および真田是「住民運動の組織論」 青木書店 1976
角瀬保雄「非営利・共同組織と民主的管理」 民医連医療 304号 1997
鈴木彰「『民主経営』における労働組合」石川民医労 1996
阿部昭一「ともにあゆむパートナー」保健医療研究所 1996