非営利ではなく反営利を,協同ではなく統一を

富沢賢治「非営利・協同入門」批判

 

 

はじめに

 「非営利・協同」の問題について,これまで前田論文,有田論文についてみてきましたが,このたび富沢さんの書いた「非営利・協同入門」という本を手に入れることが出来ました.

 さっと読んでみて,予想以上の内容に驚くとともに,その内容が全日本民医連の幹部研修会で講演されたものだということにもビックリしました.

 どうして,このような講演に対して「幹部」の批判や意見が出なかったのか,私には不思議です.しかもそれが同時代社から出版され,あたかも民医連の公式文書に準じるものであるかのように扱われるということも,不思議です.(参考までに拙著「療養権の考察」も同時代社の出版です)

 いやしくも民医連の幹部を自認する以上,参加者のみなさんから演者に一言あってしかるべきだと思うのですが…

 敢えて烈しい言葉を使わせてもらえば,この文章は

第一に,NPO論や第三セクター論や協同組合論の無思想的ゴッタ煮であり,
第二に,政治の革新と国民的統一の実現によって,国民の基本的諸権利を確立し,生活や福祉の改善を図る路線への,あからさまな挑戦であり,
第三に,市場経済を無条件に容認し,政府や資本家の横暴と正面から闘おうとしない,事実上の資本主義美化論です.

 以下,この三点を私なりに論証してみたいと思います.


A.「非営利・協同」はさまざまな社会運動論のつまみ食いでしかなく,
そこには理念がない

 

(1)「非営利」理念の無内容さ

 そもそも,「非営利」というのは法律上・政策上のカテゴリーです.たとえばNPO法などを制定する際に,「こういう法人・組織を非営利団体と規定する」と表記されれば,それがその国における「非営利」団体となるのです.

 いくら「我こそは非営利団体なるぞ!」と主張してみても,法律がそう認定しなければしょうがありません.

 だから,もし「非営利」を運動のスローガンとして掲げるのなら,「民医連を非営利団体として認定せよ」ということになります.それなら国民的闘争の重要な課題となるかもしれません.しかし富沢さんが主張しているのは,どうもそういうことではなさそうです.

 富沢さんは,非営利団体として認定されようとされまいと,「非営利」の理念そのものに意味があると主張しています.そして「非営利」の理念を「営利目的ではなく,社会的目的を実現する」ことにあるとしています.しかしこの定義はまことに奇妙なものです.

 まず,非営利というのが「営利を目的としない」というのは同義反復です.それに,社会的目的を実現することを目標とする団体なら,論理的な二律背反を犯さない限り,それが営利を目的としないのは明らかです.つまりこの「定義」は何も言っていないに等しいのです.

 この規定を具体的に適用してみれば,その無意味さは誰にでも分かります.

 富沢さんは生協,農協などいわゆる協同組合の他,労働組合まで,非営利組織に含めてしまいます.これだけでも,まともな常識を持った人なら「あれっ?おかしいぞ」と思うはずです.たしかに労働組合も「非営利」ではありますが,そんなことに労働組合や労働運動の理念や本質があるわけではありません.

 労働組合は何よりも,労働者の権利を守り闘うことに存在意義があるのであり,「非営利」であるかどうかにあるのではありません.

 もし労働組合も非営利組織に加えるなら,私ならこれに政党や宗教団体,警察や軍隊さえも加えることが出来ます.現にアメリカでは,亡命キューバ人テロリストの元締め団体(CANF)もNPOとして登録されています.それでもいいのです.定義上から言えば,「営利でなく社会的目的の実現」を図る組織であればなんでも良いのです.

 法律的,行政的な観点からすれば,たしかに組織はその形態において規定されなければなりません.しかし運動論や組織論のレベルでは,まずもって,その組織の「社会的目的」が何であるかにより性格規定をしないと,無意味なのではないでしょうか.

 

(2)「非営利」でない「協同」はあり得ない(集合論の初歩)

 さすがにこれでは困ると考えたか,富沢さんはその下に「・協同組織」とつけ加えます.そして「人々が協同して活動する組織」という定義をつけ加えます.

 この組織は,非営利であるという特徴と協同的であるという特徴の二つを持つことになり,非常に鮮明化されたように,一見思えます.

 しかし考えてみれば,非営利という理念がほとんど無限定な言葉ですから,「非営利・協同」などと言わずに,ただ「協同組織」といってもなんの差し支えもなさそうです.何故なら協同組織という概念は,そのままズッポリ非営利という枠の中に収まっていると考えられるからです.例えて言えば「非営利県協同市」という表現です.札幌というのにわざわざ北海道をつける必要はありません.

 逆説的に表現すれば,「営利を目的とする協同組織」という表現は,「東京都札幌」と同じで,形容矛盾そのものです.

 そこで「協同」ですが,これも困った定義で,組織というのは,特に営利を目的としない組織というのは,ほとんどが「人々が協同して活動する」ことが当然の前提です.人々が協同して活動しなければ,そもそも組織などというものは存在し得ません.

 「協同」のあり方に目をつむれば,野球部も,応援団も,不良グループも,暴走族も「人々が協同して活動」する組織に違いありません.

 これも,もともと行政的・法律的範疇としての協同組合を,ムリヤリ理念化したための矛盾ではないでしょうか.

 

(3)「四つの特徴」は定義の放棄でしかない(ただし第二項は重大な提起をふくむ)

 そこで富沢さんは,今度は四つの特徴というサブ規定を持ち出します.病気でいえば四つの診断基準を持つ症候群として定義しようというやり方です.ただしこれは「第三セクター」の規定のようで,「非営利・協同」の規定とは違うのですが,その辺は富沢さんは極めておおらかにやっています.

 さてその特徴ですが,開放性,自律性,民主制,非営利性の四つです.

 「非営利性」は先程も述べたように,理念としてはほとんど無意味です.民主制は分かります.ただこれは目的における民主性ではなく,運営システムの民主制という意味です.私たちがふだん使っている「民主団体」というものとは違います.

 それから開放性ですが,その説明として「開かれた組織,自発性に基づく加入脱退の自由」とあります.この特徴づけで排除されるのは「閉ざされた組織,加入脱退の自由のない組織」ということになります.どんな組織でしょうか? ヤクザ,オーム,それとも連合赤軍? 何やらあやしげな規定です.

 最後に自律性です.説明には「政府その他の権力の直接的な統制下にない自治組織」とあります.これは重要な内容です.これだけあれば,他の定義や特徴はまったく不要となります.しかし今までの富沢さんの説明からすると,これは過剰規定ではないでしょうか?

 この重大な特徴づけは,その後まったく理論展開されません.また元に戻って,無意味な非営利性の説明をくり返すのみです.どうもただ筆が走っただけのようです.(この点については,あとで私の方から積極的に触れたい)

 ということで,四つの特徴づけを経た後も,相変わらず「非営利・協同」の理念は曖昧模糊としたままに止まっています.

 

(付)民医連は非営利ではなく,独立・反営利・民主主義擁護の団体

 富沢さんのあげたNPOの四つの特徴のなかに自律性という規定がありました.説明には「政府その他の権力の直接的な統制下にない自治組織」とあります.それはたんなる特徴づけの水準を大きく超えて,ほとんど本質規定といって良いほどの具体的かつ厳密な規定です.軍隊はもちろん,野球部も,仲良しグループもすべて,この一項ではじき跳ばされます.彼らは「権力からの独立」など夢にも考えたことなどないでしょう.「権力の統制を排し,自治を貫く組織」となれば,その範囲は自ずから限定されてきます.

 しかしこれはどちらかといえば,NPO(非営利組織)ではなくNGO(非政府組織)の規定だと思います.

 私が考えるのに,もし非営利という言葉を積極的に生かそうとするなら,最も大事なのが「資本からの独立」という原則でしょう.資本というのは企業と言いなおしても良いし,企業の論理といっても良いでしょう.正確に言えば独占資本ということです.

 NPOやボランティア団体なども,確かに大企業とは別個に動いています.しかし表面的に資本から独立しているかどうかが問題ではありません.資本からの独立を意識的に追求するかどうか,資本からの独立をその団体の存在意義にかかわることとして認識しているかどうかの問題です.

 民医連の経営目標には「営利」(必要な利益を上げる)も含まれます.しかしそこに問題があるのではありません.はっきりしているのは,民医連が資本主義の究極の論理=営利主義に反対する組織だということです.

 端的に言えば,私たちの組織は「非営利」ではなく,「反営利」なのです.その目的は「非営利」の第三世界をシコシコと作り上げることにはありません.国民の生きる権利が蹂躙され,商業主義と営利主義がのさばる世の中を,人倫に基づくルールが支配する社会に変えていくことです.それが私たち民医連・民主団体の目標でもあり,存在理由でもあるのです.

 私たちの経営には,このような未来志向型,変革志向型の観点が必要です.端的に言えば,民医連は営利主義の社会の根本的変革を視座に置く組織なのです.

 

(4)「非営利・協同」論と第三セクター論とのすり替え

 そこで富沢さんは,今度は「非営利・協同セクター」という言葉を持ち出します.「非営利・協同」組織の集合体を,「国際的には」そう呼ぶのだそうです.しかしほんとうに「国際的」概念として「非営利・協同セクター」というものが存在するのでしょうか.

 富沢さんは,「非営利・協同」は,ヨーロッパの第三セクターよりもっと広い概念だと,自ら述べています.とすると,国際的に通用しているのは「第三セクター」概念であって,「非営利・協同セクター」概念ではないということになってしまいます.この辺のすり替えが,富沢さんの怪しいところです.

 ということで,「非営利・協同」を第三セクターと同一視するのは問題がありますが,それについてはとりあえずおいておきましょう.でも「セクター」がつくと何か分かってくるかな?

 この後富沢さんの文章では,突然,第三セクターに関してご大層なご託が並べられます.そして「今後第三セクターの問題は,社会を変革していくには何が必要であり,私たちに課せられたものは何か,といった変革論にもつながっていく問題なのです」と断言されます.こうなると「へえ,へえ」と頷くほかありません.しかし第三セクターの重要性が分かったとしても,「非営利・協同」の理念が一体どういうものなのかという肝心の点では,まだ一歩も前進していません.(第三セクターについての私の見解は別論文を参照してください)

 

(5)第三セクター論とNPO規定のすり替え

 富沢さんは,日本における第三セクターの間違った理解,米国における特異な位置づけを紹介したあと,ヨーロッパ諸国の見解を紹介し,「これがいいよ」とお勧めしています.

 これが結構噴飯ものです.その見解というのは「営利目的ではなく社会的目的の実現を第一義とする組織」をNPOと定義しましょう,というだけのものなのです.そこには協同組合,共済組織も含まれますよ,ということです.

 それはNPOの定義であって,第三セクターそのものの規定とは,まったく無関係です.そしてNPOと認定された団体に税制その他の優遇措置を執るためのものです.日本のいわゆるNPO法案も同じ趣旨でしょう.

 これだけだったら,NPO法の適用対象をどう決めるかというだけの話しで,社会政策や法システムの問題です.結局話しは,この論文の振り出しに戻ります.

 そもそも,「非営利」というのは法律上・政策上のカテゴリーです.たとえばNPO法などを制定する際に,「こういう法人・組織を非営利団体と規定する」と表記されれば,それがその国における「非営利」団体となるのです.

 従っていかなる団体をNPOと認定するかは,その場,その時点での国民のあいだの力関係次第です.国際経験豊かな富沢さんが「ヨーロッパ型がいいよ」といってみたところで,どうなるものでもないでしょう.

 富沢さんは「第三セクターの定義としては(ヨーロッパ型が)一番実情にあっている」と書いていますが,前段の話しはNPOの範疇についてであり,第三セクターについて述べたものではありません.どうも「非営利・協同」とNPOと第三セクターの議論がごた混ぜになっていて,議論の透明感を著しく損ねています.

 ここまで富沢さんに随いて,「非営利・協同」の理念探しに出かけたのですが,悪戦苦闘の末,ついに「青い鳥」を見つけることは出来ませんでした.

 

(6)恣意性極まれり,富沢流第三セクター

 一連の展開の最後に,富沢さんは「非営利・協同」の無思想ぶりを告白します.まず「非営利・協同セクター」を,ヨーロッパ型の「第三セクター」よりさらに大胆に広げます.すなわち労働組合を「非営利・協同」の枠内に取り込むのです.先程も述べたとおり「非営利・協同」の定義は驚くほど融通無碍なものですから,その気になれば何だって「非営利・協同」です.

 第三セクターの本家イタリアでさえ,労働組合を第三セクターに組み込む話しなど聞いたことがありません.労働組合は公的部門,民間部門のただ中にあって階級闘争をおこなう主体です.第三の道を歩んでいる余裕などありません.

 それでも労働組合を「非営利・協同セクター」に組み込みたいというなら仕方がありません.ただ労働組合を「非営利・協同」に組み込んで,政党や宗教団体など他の組織は入れないというのは,恣意的というほかありません.

 恣意的といえば,良い労働組合は「非営利・協同」だが,悪い組合は「落第」などとのたまうに至っては開いた口がふさがりません.そのうえでまあ,そういう組合も大目に見て置こうなどということになると,「勝手にせえ」といいたくなります.

 

(7)もう一つの「協同」,「非営利・協同」同士の協同

 富沢さんは議論を,理念問題から突然転換します.「私が主張したいのは,非営利・協同セクターを一つの独立したセクターとして認識することが非常に重要だということです」と,彼は叫びます.認識できないからこそ,これまで困ってきたのですが…

 彼は追い討ちをかけるようにこう叫びます.「これは,運動を始める場合の基本になる考え方です.こういう(どういう?)セクターで,そこに所属する非営利・協同組織が可能な限り協同することが大事だと思うのです

 わたしが依然として「非営利・協同」とは何だろうと思案している内に,「協同組織の協同こそが大事だ」と論理が展開されていきます.こうなると「協同組織とは何か」という議論は脇に置いて,とにかくいろんな組織が「協同」することが当面する問題になります.

 しかし,ここで一回テープを止めてみましょう.

 異なる組織が協同することと,さまざまな人間が協同して一つの組織を作ることとはまったく違う作業です.そこで使われる「協同」という言葉も具体的実践内容としてはまったく違うものです.

 例えばある会社で労働者がさまざまな仕事をしています.これは分業ですが,この分業はお互いに協同しておこなう分業で,協業とも呼ばれます.これに対して社会的分業は八百屋さんもあり,肉屋さんもあり,自動車工場もありという具合で,直接的なつながりは何もありません.これらの人々が力を合わせることの意味は,自分の仕事場のなかでの協同とはまったく意味が違います.

 少なくとも富沢さんが「協同」という言葉を使うとき,安易な混用なのか,意識的な混用なのかを吟味しなくてはなりません.その危うさについては十分注意を払うべきでしょう.

 富沢さんは,息継ぐ間も与えず,さらに進みます.「さらにそうした協同によって,第一セクター…を動かし,第二セクターにも影響をえることが出来る

 ここで富沢さんのドンキホーテ的展望は一気に広がります.

 「そのためにはセクター内での協同を拡大強化することが重要な戦略になるだろう」

 つまり「協同」こそが,組織作りを促し,組織の統一を促し,権力を動かし,よりよい日本を作るための戦略だということです.

 大変おかしなことになってきました.どういうものが協同なのか分からない内に,今度は何のために,どういう目標で,どういう相手と協同するかも規定されないまま,「協同」という言葉が「戦略」にまで持ち上げられ,一人歩きを始めてしまったのです.

 

(8)「非営利・協同」セクターの富沢風三角形モデル

 少し後ろのページに,スエーデンの学者の作った概念図というものが紹介されています.福祉活動における協同関係をモデル化したものとして,いろいろな文献で引用されている,私たちにもお馴染みのものです.そしてその三角形と並んで,富沢さんがモディファイしたというもう一つの三角形があります.

 この二つの三角形モデルが,富沢さんの「非営利・協同」理論のいい加減さのもう一つの証明となっています.

 福祉三角形は,民間企業,公的サービス,家庭での福祉・介護のどれによっても単独では見ることが出来ないケースを,どうやって支えていくかということに発想の基本があります.だからこの三角形の三つの頂点は,お互いを排除し分離するのではなく,なんとかあい調和して,三者間の間隙を埋めていこうという趣旨のものです.真中の黒丸が,三つのセクターに対して少しづつはみ出して,重なっているのはそういう意味です.

 それに対して,富沢さんの三角形は,三つのセクターを截然と分けることに最大の主眼があります.要はこの三角形で社会そのものを分類してしまおうというのが狙いです.形は似ていても両者の意味あいはまったく違います.

 第二に,富沢さんの三角形を見ると分かるのは,要するに第三セクターというのは「くずかご分類」だということです.正三角形のそれぞれの頂点を国家,市場,コミュニティーが占め,固有のベクトルを持っています.そういう固有ベクトルを持たず,どの範疇にも括れない集団,組織をとりあえず「第三セクター」と呼びましょう,ということです.少なくともこの図から,第三セクターの積極的な意味あいを引き出すのには無理があります.

 第三に,あまり主要ではありませんが,この図を素直に見れば,どうしても「非営利・協同」は第三ではなく第四分類です.もしインフォーマル・セクターを数えないのなら,もう少し別のモデルを捜してきた方がよいでしょう.

 

B. 「非営利・協同」は生産協同組合路線への流し込みである

 

 ここまでは,「非営利・協同」路線がナンセンスであるというだけで,あまり実害はありません.ムキになって否定するほどの価値もありません.実際私も烈しい徒労感に襲われています.

 しかし富沢さんの議論は,これまでの私たちの民主主義的改革路線,すなわち国民的合意の形成のなかで自民党政府を包囲し,大企業の利潤第一主義に規制を加え,民主連合政府の実現によって政治・経済・社会の根本的転換をはかっていく路線とは,明らかにおもむきを異にしています.ここがはっきりさせなければならないポイントです.

 それは非営利組織(NP0)論を出発点にしながら,それを第三セクター論に流し込み,さらにそれを「非営利・協同」セクターと言い直し,最終的には「非営利・協同セクター」による社会的ヘゲモニーの獲得という一種の社会改革路線へと誘導する狙いを持っています.

 おそらく,この「非営利・協同」理論は,既存の民主主義的変革の路線の批判のなかから,それを否定する形で生まれてきたのではないでしょうか.そして,それ故にこそ,私たちは「非営利・協同」論と真剣に向き合わなくてはならないのでしょう.

 

(1)「非営利・協同」は富沢風民活路線?

 富沢さんは,「協同の協同」戦略を「下からの協同性づくり」として,より具体的に述べています.

非営利・協同組織の増加という現実を背景にしますと,これらの組織の集まりを一つの独立したセクターとして認識して,セクターでの組織間の協同を図るという戦略が,運動方針として重要な意味を持ってきます

 そして「方針」の柱として集団的な助け合い,公共組織に対する要求実現,社会問題の解決を図る法制度作りなどをあげています.そして企業に対しては情報公開を求め,民主的規制をしていこうと呼びかけます.

 内容そのものは,細かいことをいわなければ,別にそれほどの問題はありません.ただ取り組む主体の問題では,看過できない主張を秘めています.

 富沢さんはこう述べています.「公共的利益は公共セクターの独占の問題ではありません.本来であれば民間から作り出して行くべきものだという考え方です

 おそらくは,富沢風第三セクター論の最大の問題は,この点にあると思います.富沢さん流の言い方を真似れば,そもそも世の中に公共的利益というものが存在するからこそ,公共セクターというものが存在意義を持つのではないでしょうか?

 具体的に,民間の創意が大いに発揮されるのは大変結構ですし,それが協同の取り組みとして発展するのも意義があります.しかしそのことによって,「本来であれば」政府・自治体が負わなければならない責務が免罪されてはなりません.そして現在の日本の状況はまさに,公的部門が,反公的な存在となり,国民いじめをますます強化し,果たすべき任務をサボりまくっていることに最大の病理があるのです.

 

(2)「三つのセクターの最適ミックス」が「非営利・協同」の戦略目標

 本文ではあまり露骨に展開はしていませんが,質疑応答のところでは,まさに富沢流社会変革の総路線が提起されています.

 この文章は「社会の構造について今まで述べてきたことからすると(これについては後に触れる),社会を変革していくためには,以下の三つのことが大事だと思います」と始められています.

 それは第一に,「非営利・協同」セクターの拡大強化です.第二に,市場と国家の民主的規制です.そして第三が「三つのセクターの最適ミックス」の実現です.

 第一と第二は,方法論であり,第三の内容は変革の目標です.

 「三つのセクターの最適ミックス」とは「平等・自由・友愛の原理によって,各セクターがバランスを保つようにすること」なのだそうです.そこには階級的視点のカの字もありません.

 私たちと独占大企業とのあいだに「友愛」の念が発生しうると考えること自体,大変な楽天主義ですが,一番の問題はこれが一種の政治形態を表現するモデルとして提示されていることです.

 

(3)「市場機能」は営利主義容認のいいわけにはならない

 さすがに自らのノーテンキさに気が引けたのか,富沢さんは「市場セクター」なる言葉を持ち出して,「最適ミックス」論の合理化を図ります.

 しかしこの「市場セクター」の説明はまったく成されず,そこに書かれているのは市場の一般的必要性だけです.第三セクターといえども市場=交換過程なしには成り立ちません.市場セクターが,先の三角形で示したように民間セクター(第二セクター)の言い替えなのか,第三セクターまでもふくんだものなのか(だとすれば世の中すべてということになる)も分かりません.

 おそらく富沢さんは「社会主義においても市場機能は残る」という,最近の経済制度論を念頭に置いて,このように発言しているのでしょう.現時点において社会主義と定義しうるかどうかは別にして,中国もベトナムも市場機能を不可欠な経済機能として採用しています.それは混合経済政策と呼ばれています.

 また,私たちが今住んでいるこの日本でNPOが活動しようとすれば,大企業以上に自由なマーケットの存在は不可欠です.しかし「市場機能」を承認することによって,独占資本や大企業の営利主義を免罪することは出来ません.それは余りにも当然のことです.

 問題は,いまや自由競争の対立物に転化し,国家と癒着し,正常な市場機能を損ね,民間セクターの活力を失わせている大企業にあります.サンシモンやオーウェンですら,資本家に対してこれほど空想的,友愛的ではありませんでした.私には資本家の代表と肩を組んで「人類みな兄弟」と謳う富沢さんの姿が目に浮かんできて仕方がありません.

 

(4)「協同」の思想は「統一」の思想に従属する

 これまでも私たちは,無党派の市民運動の発展に大きな関心を注いできました.いま日本でも世界でも大きなうねりとなっている,無党派市民の運動は,本質的に進歩の方向を向いており,大きな可能性を秘めています.これらの運動が主体的にも進歩と革新の立場に立つか,支配階級の立場に収斂されてしまうかは,21世紀の未来を占う重大な試金石の一つといえます.

 私たちが先輩から受け継いできた統一戦線の思想を,現在の状況に合わせて創造的に発展させることが,いまほど求められているときはありません.

 その際注意すべきは,無党派市民のさまざまな運動を支持し,連帯することと,無党派市民の主義・主張をそのまま受け入れることは,まったく異なる問題だということです.

 無党派の運動は,一般にいかなる形でも統制を嫌い,政府や行政当局からの独立を徹底的に貫きます.従って,政治の在り方や権力構造を変革するという展望や視点には乏しいものがあります.ある意味で無政府主義的傾向が常につきまといます.

 もう一つの特徴として,無党派運動はあくまで実践優位です.その成り立ちからして当然のことでしょう.実践優位なのはよいのですが,広く情勢を分析し,過去の総括をふくむ歴史的評価をおこない,「何をなすべきか」という課題を設定する視点が欠落しがちです.下手をすると目前の実践とその課題にすべてが流し込まれ,「政治改革に向けてのプログラムなど関係ない」などということになりかねません.

 たとえば「第三セクターの問題は,社会を変革していくには何が必要であり,私たちに課せられたものは何か,といった変革論にもつながっていく問題なのです」という具合です.これではまるで「第三セクターがすべて」であって,何のための第三セクターかは,まったく無関係になってしまいます.

 無党派市民運動のなかから自然発生的に出てくる,これらの思想的傾向については,私たちの考えの違いをはっきり示しながら,その違いを保留してでも実践的「協同」を積み重ねていくことが大事です.

 統一への志向がない「協同」は,たかだか第三セクターの強化と「友愛ニッポン」止まりですが,協同の実践のなかで,実践主体そのものが意識的にも大きく変化していく可能性は無限にあります.この点こそ,私たちが大事にしなければならないポイントでしょう.

 そして最終的には,日本の政治を変えていく上での重要な目標でしっかりと団結し,広範な力強い国民的合意を形成していくのです.これが「統一」の思想です.よりそのベクトルを明確にするなら,「革新統一」の思想です.統一の思想に裏付けられてこそ,具体的な「協同」の実践も豊かで幅広いものになっていきます.

 

(5)国民は行政に対して決して第三者ではない

 もう一つ,富沢さんの言う公的セクターと第三セクターの関係,つまり行政と国民との関係は,決して三角形の図で示されるような固定的なものではないということも強調しておきたいと思います.

 資本主義社会にあっては,政府権力(第一セクター)は資本家階級(第二セクター)の代弁者という性格を基本的に持っています.自民党の支配する政府が財界と一体化して「支配セクター」を形成し,第三身分である国民を抑圧し,収奪していることは,あまりにも自明の事実です.政府・独占資本と国民とのあいだに第三の道はありません.

 しかし行政は同時に,憲法や法体系に規制されて,国民の共同体的機能を執行する責任も持っています.

 従って,たとえば森内閣のように,断固打倒のために闘わなければならない相手もいるし,革新自治体のように守り育てていかなければならない行政もあります.チリの人民連合政府のときは,人々がCIAやその手先たちの攻撃に対し,文字どおり命を懸けて闘いました.政府・行政は国民にとって「そちらはそちら,私は私の道を行く」というような「第三者」的なものではありません.

 「そんなことは当たり前で分かり切ったことだ」といわれるかも知れませんが,少なくとも公的,民間,第三セクターという「三角方程式」で,なにか世の中が分かったような気分になることだけは避けるべきだと思います.

 

(付)国際的NPOをひとからげにはできない

 富沢さんは「結社革命」というアメリカの言葉を紹介しています.60年代以降アメリカで,80年代以降フランスでNPOが急速に増えている.日本でも神戸大震災以降NPOが社会的に認知されつつある.これは世界的現象である,というものです.

 私たちも,アメリカの草の根組織の活発な活動ぶりはよく知っていますし,例えばイギリスのオクスファム,アムネスティ,フランスの「国境なき医師団」などとは,ときに日本AALA連帯委員会とも連帯しながら活動しています.「反核医師の会」は世界に誇るべき日本の「結社」です.これらは一般的にはNGO(非政府機関)として括られており,より政治的意味あいの強い団体です.もちろん,これらは,財政基盤からいえばNPOです.

 一方,中南米ではカトリック教会に基礎を置く地域共同体づくりが盛んです.この組織はあるときには労働運動を肩代わりしたり,革新的な動きを示したりしますが,基本的には生活共同体の再生を目指しています.

 いずれにせよ,「雨後の竹の子」のように世界中に「結社」作りが進んでいることは明らかな事実です.そしてこの動きをどう評価し,どのようにアプローチしていくかは,間違いなく21世紀を左右するような重要課題です.この認識においては,富沢さんもふくめ多くの人が一致するところでしょう.

 ただし,「結社」のありようは実に千差万別で,ひとくるみに「NPO論」として論ずるのはほとんど不可能です.国際連帯運動に携わっているものの一人として,このことは痛感せざるを得ません.


C あまりに没階級的な歴史認識

(1)科学的社会主義とはまったく異なる歴史観

 富沢さんは質問に答える形で,独特な歴史認識をとうとうと述べています.それによると,「近代化」が個人の自由を生み出して,自由な個人がフォーマルな社会を生み出した.自由な個人が増えると人間関係が希薄になる,そこで協同の運動を進めれば,個人の孤立化は解消できる.そして,これからは自由な個人とフォーマルな社会が共存する「友愛」の世界が広がっていく,のだそうです.見事な「近代化論」です.

 もちろん富沢さんが,血にまみれた根源的蓄積の時代や,「自由な個人」が貧困者にとっては究極の貧困と人間疎外を意味するものでしかないこと,それは資本の論理によって強制されたものであること.営利主義の世界を変革することなしに,真の「自由な個人」は実現不可能であることを,知らないはずがありません.知っていて敢えて歴史の進歩の負の側面を捨象するには,それなりの理由があるのでしょう.

 それにしても,私のような,第三世界の歴史を研究するアマチュア歴史家にとって,富沢さんの歴史を単純化する能力には空恐ろしいものがあります.

 

(2)マルクスの「協同社会」論との意識的混同

 マルクスは,資本主義社会の次に来る真の人類社会を協同社会と名づけていました.これも英語でいえばアソシエーションです.ここでは資本主義的生産システムをまるごと放棄するのではなく,それを引き継ぎながら改良し,一人ひとりの人間が自由に生きながら,おたがいに友愛の精神で共存していくことになります.

 その協同社会は,民間セクターをそのままにおいて別の世界を作るのではなく,営利企業を国民による,国民のための生産システムに改編することによって初めて実現する世界です.そこでは営利主義のセクターは基本的に消失しています.ここが富沢さんとマルクスの協同社会に対するイメージの最大の違いです.

 それにもかかわらず,富沢さんはマルクスの言葉を盛んに引用して,あたかもマルクスのいった協同社会論と自分の「非営利・協同」セクターが同一のものであるかのように描き出そうとします.これまで見てきたとおり,富沢さんのこのやり方は,結社革命からはじまって,非営利組織論,第三セクター論,福祉の三角形モデルなど,どんな理論の応用にも共通した手口です.

 

(3)労働の社会化に関する独特の見解

 第一章の最後に「非営利・協同」の重要性を考えるに至った経緯,という節がおかれています.最後だから内容を端折ったのでしょうか,非常に短い文章で,大変論旨が分かりにくくなっています.

 提起は疑問形で出されていますが,要するに社会主義を達成するためには生産手段が社会化されるだけではダメで,労働も社会化されなければならないというのです.

 この「労働の社会化」という言葉が曲者で,私たちが生産力論との関係で普通に用いる労働過程の社会化とはまったく違うのです.富沢さんのいう「労働の社会化」は,「労働現場における労働者が個々に,これは自分のものである.所有者であるというレベルでの社会化」なのです.この独特の「社会化」論は富沢さんの持論で,20年前の共著「講座:史的唯物論と現代2」でも,生産手段,労働,生産の社会化が力説されています.ただし今ほど露骨ではなく,その分,何を言っているのか分からないところがありました.

 この「社会化論」そのものにも問題がありますが,その前に富沢さんが労働の「社会化」を主張すればするほど,自家撞着に陥らざるを得ないことを述べておきます.

 先ほども紹介したように,富沢さんの社会変革の目標は三つのセクターの「友愛」にもとづく共存です.大企業への民主的規制はおこなうが,生産手段の社会化は考えてもいません.

 たしかに民主主義日本の到達目標としては,その段階に止まることになりますが,少なくとも科学的社会主義の考えでは,さらにそこから進んで生産手段の社会化を展望しています.そのために社会主義を達成するための基本的条件を検討しているわけです.

 まさにその社会主義をめぐる議論の線上で,富沢さんは生産手段の社会化だけではダメで,それと並行して「労働の社会化」が達成されなければならないと言っています.

 つまり富沢さんは,生産手段の社会化などする気もないくせに,「生産手段の社会化だけではダメで,労働の社会化も同時に達成しなければならない」と主張していることになります.

 それとも「労働の社会化」は,生産手段の社会化抜きで,単独で達成できると考えているのでしょうか? そしてそれは社会主義の実現を意味するのでしょうか?

 これまでの議論をおさらいすれば,当然そういう疑問がわいてきます.

 

(附)科学的社会主義における所有の理論

 私たちは普通,「生産の社会的性格が強まるにもかかわらず,取得は依然私的なものに止まる」という言い方で,生産手段の私的所有の矛盾を表現し,資本主義的生産システムの基本矛盾の一つとして,この問題を扱っています.

 所有の問題が難しいのは,生産手段の私的所有が基本矛盾だからと言って,単純にこれを国有化すれば済むという問題ではないからです.実践的にはたいへん複雑な過程をとることになります.原則性と柔軟性,それに何よりも創意が求められる分野です.

 しかしここで富沢さんが言っているのは,所有といっても正確には取得(領有)の問題です.それと,ここまでまったく科学的社会主義とは無関係の議論を展開してきた富沢さんが,突然,マルクスの学説に忠実な徒でもあるかのように「変身」するのも,混乱の元です.

 原論としての所有論は,「私的所有」と「個人的所有」の概念がすっきり整理されて来なかったことから一定の混乱がありました.それは生産過程論に比較して交換過程論の展開が遅れてきたことに主要な原因があります.

 異なる形態での富の所有者が,市場において所有者として互いに向き合うことが交換の前提です.そこで初めて所有の概念が剥き出しになります.

 当時のソ連は所有問題を歪めて定式化していました.それは交換過程と市場の機能を過小評価していたからです.ほとんど無視していたといって良いかも知れません.

 しかし所有問題については,マルクス自身がプルードン批判のなかで,すでにすっきりした結論を出しています.富沢さんの意見とはかなり違う結論ですが.

 生産過程から見れば交換過程は生産物の貨幣への転化の過程です.生産されたものは商品として市場に出され,販売され,貨幣と交換されることによって初めてその商品としての価値を実現します.その時初めて生産は商品生産,すなわち資本主義的生産としての意味を持つことになります.

 個人的所有=取得の問題は,少なくとも,この交換過程の終了まで実現されません.それまでは生産された物的富は資本の変容したものであり,交換を終えた後に資本としての役割を終え,分配可能な貨幣的富となるのです.これが第一のポイントです.

 第二のポイントとして,労働の生産物は,個人的所有の復活という運動の原理からすれば,生産に携わった人々すべてのものです.(これも共同体的所有の原理からいえば,議論の残るところですが)

 資本主義的生産に先行する社会では,これらの富はいったん生産者のものとなった後に,税として,年貢として,小作料として収奪されていました.資本主義生産システムにおいては,労働の生産物はすべて資本家のものとなります(個人的所有の第一の否定).労働者に支払われる賃金は,労働力商品に対する代価として前払いされています.その出所は,資本家が生産に投下する資本の一部です.

 つまり,その時代における支配的な生産のシステムが,分配と取得のスタイルを決定しており,生産システムが変われば,それによって直接労働者の取得=個人的所有の形態も変わってくるのです.

 マルクスは資本主義生産システムを壊すことによって協同社会を作ろうと考えたのではありません.逆に資本主義が発達を遂げるとともに,その反対物に転化することを洞察したのです(資本主義の墓堀人たる労働者階級の成長という主体的要因もふくめ).

 その結果としての第二の否定は,生産諸要素の社会的所有,全人民的所有という形態でしかあり得ません.ここでは賃金の前渡しを受けて働くという労働者の取得の形態は変わりません.そして,それが協同社会と真の個人的所有の実現に至る過程は(特に先進資本主義からの移行過程は),未知のものであります.

 生産過程と交換過程の相互関係を無視して,労働の生産物に対して直接の分け前を要求するのは,二つの所有の概念を混同し,資本主義的生産様式を無視したものです.

 何故このことが重要かというと,マルクスが社会思想家として出発した頃,まさに富沢さんがいうような生産手段の共有化(「協同化」と言い換えても良いが)を主張するプルードンらの組合主義が花盛りだったからです(近い過去にも私たちは全共闘一派の「自主管理論」とのあいだに似たような論争を経験しています).

 

(4)弁証法=二分法という言いがかり

 極めて雑ぱくな説明ですが,ここでは,富沢さんの所論の当否というより,それがマルクスの考えとは縁もゆかりもない議論であるということだけ示しておけば十分でしょう.

 他にも富沢さんの科学的社会主義に対する独特の理解の現れはたくさんあります.例えば富沢さんの経済社会構成体についての見解は次のごとくです.

 「(経済社会構成体の概念は)国家と市場を社会の構成領域(セクター)としてみる二分法的社会観」であり,単純すぎる.この二つの他に「非営利・協同セクター」をもう一つの構成領域として認めるべきだ,というのです.つまり二分法は単純だから,三分法にしようという提起です.弁証法=二分法=単純という驚くべき論法が富沢さんの基礎にはあるようです.

(富沢さんは「生活過程論」についても述べていますが,これも弁証法的「過程」とはまったく無縁のものです.拙著「療養権の考察」第二部「療養過程論」をご参照ください)

 

(5)どうでもいいことですが

 富沢さんは共同より協同の方がよい,と言っています.異質なものが力を合わせるという感じが良く出ているからだそうです.力が三つもあってかっこよいなどとも言っています,これは冗談でしょうけれども.

 私は協同というと,むしろ「五族協和」などという言葉が浮かんでしまいます.たしかに異質なものが力を合わせるという感じが良く出ます.それだけにイヤな感じです.「協」という字は力が多くてかっこいいと言われると,日章旗に満足できなくて赤い光線を足して軍艦旗にした子供の頃を思い出します.

 韓国の独裁者朴正煕が始めたセマウル(村づくり)運動のスローガンも「自助・自立・協同」でした。かつて南米の小国スリナムの独裁者ブテルスも、国家の名前を協同共和国と改称しました。大体、国家の指導者が「協同」とか「協和」などと言い出す場合は、相当注意が必要だというのが歴史の教訓です。