乾はひとつため息をついた。

先日騒がしいイベントがようやく過ぎたと思ったのに、今度はそのお返しのイベントが待ち構えている。
それも――自分たちを、だ。
ノートに書きとめる為に忙しなく動かしていた手を、しばし止める。
まだ1ヶ月弱…という猶予があるとは言え、その日が訪れるのはそんなに遠い日ではない。



―――3月14日。




靴箱にひっそりと仕舞いこまれた送り主の分からぬものは放置するより無かったにせよ、
乾はただひとつの返事を思い悩み、受け取った包み紙と箱を机の上に置くともう一度盛大にため息をついた。
まさかあいつからチョコを受け取る事になるとは。
思いもしなかったと沈鬱な心情が部屋中の空気に広がり、乾は何度もため息を吐いていた。
正直に言えば、本当に意外だと思った。
あいつが俺の事をそう言う対象で見ていた…なんて露程にも思えなかったし、あいつもそう言った意思表示を全くしてこなかった。
―――けれど、突然。
まわりが卒業ムードの中、焦りを感じていたのかもしれない。

 「先輩…受け取ってください」
表情はいつもと変わらないのに、小さな箱を持つその手が少し震えていて。
それが、いつもの冗談とは違うものだと見て取れた。
嫌悪感はない。
ただ、吃驚してしまってその小箱に手が伸ばせずにいると、桃城が困ったように笑った。
「受け取って下さいよ、乾先輩」
乾は、反射的にそれを受け取ってしまった事を少し後悔している。
桃城に対して恋愛感情など抱いてはいないのだ。
嫌いなのではなく、ただの後輩としてしか桃城を認識したことが無い。
しかしあの潤んだ瞳、震える口唇はどうだったか。
勇ましくダンクスマッシュを繰り広げる逞しい腕も何もかもが、…可憐だった。
その時初めて、乾は桃城を後輩としてだけではなく意識するようになった。
(部活が無い今、考える時間が多すぎて困るな。)
思い出してしまうのは、あの時の桃城の言葉だ。
「俺、その…乾先輩のこと、貞治って呼びたい…」
「も、桃城?」
いつもとは、違う雰囲気をまとって桃城は乾と対峙する。
どう反応して良いのかわからず乾は、言葉を失った。
その時、補完されるべきデータは一気に飛び、復旧に数日掛かったことは今でも痛手になっていた。
しかしそれで恋に落ちたかといえばそうでもなかった。
ひどい衝撃は受けたものの、やはり恋愛感情にはなり得なかった。
――なぜなら、交際中の人間がいたからだった。

 再び机の上の包み紙と箱を見つめて、乾はため息をつく。
返答を、まっているのだろう桃城は、あの日以来何も言ってこない。
何かアクションを起こしてくれれば、何らかの行動が取れるのかもしれないが。
(―――きっかけが…きっかけさえあれば…。)
こんなことをあいつが知ったらどう思うだろう、まだ何も知らない手塚は。
もし、知ってしまったら。知ってしまっても。
―――いつものように眉間に皺を寄せて、何も言わないのかも知れない。
(それはそれで結構辛いものがある)
自惚れるわけじゃ無いが、心穏やかじゃ無いことは確かだ。
無駄に、不快に思わせたくない。
俺は、この事をこれからも手塚には言わないでおこうと心に決める。
腕を組んで項垂れていると、突然携帯が震えだした。
ヴー、ヴー、とバイブ音を唸らせて光っている。
サブディスプレイに浮かぶのは、「着信・手塚国光」という文字だった。
考えるより先に乾は二つ折りの携帯を開き、一度咳払いをすると。
――なんだ、手塚か。
と冷静を装った不利をして電話に出た。
「乾?」
何故か疑問系からはじまる、手塚の言葉に身体が硬直する。
「…何かあったのか?」
「―――いや?なにもないよ。どうしたの?」
「―――なら、いいんだが。いつもと声が違うような気がしてな…。」
「………気のせいだよ。」
――そっちこそ一体どうしたんだ。
手塚から電話なんて珍しいこともあるものだな。
そう言うと、受話器の向こうの手塚はあ、と小さな声を上げてうむ、と困ったような声を上げた。
「手塚?」
「お前、最近どこか調子が悪いだろう、…心配だったんだ」
電話では声を出さないと伝わらないと言うのに、咄嗟に言葉が出ない。
調子が悪いのは、明らかに桃城の事を考えているからだとわかる。
手塚にだけは悟られたくなかったなのに…いつもは人の感情に疎いのに、こういう時ばかり鋭いのは何故なのか。
「おい、聞いているのか」
「聞こえている。大丈夫だ、先日まで風邪をこじらせていて気管支が少々難を抱えていたものだから…、
手塚に心配されるとは、俺もまだまだ大丈夫だ」
「そうか…もう直ったのならいいが…用心にこしたことはない、ぶり返さないうちに早めに寝ろよ。」
「あぁ、わかったよ。」
最後に「――愛してるよ手塚」というと電話はガチャン!とものすごい音を立てて一方的に切られてしまった。
そんなうぶな手塚がたまらなくいとおしくなって、乾はその日も桃城への想いを決断することができずに就寝した。



 結局ホワイトデー当日になっても、乾は感情をコントロールすることができずに
とぼとぼとのこりわずかな通学路を踏みしめ登校していた。
卒業式の練習がところどころ授業に組み込まれるようになってから、心のどこかが空っぽで
桃城の言葉を反芻する度に、不思議な気持ちを抱く。
卒業してしまったら会えない相手に対して、思うのはもしかしたら「中等部」への、未練なのかも知れない。
しかし沈鬱だ。
 今日一日のことを考えると脳内にきちんと整理されているデータが入り乱れ踊り狂うようだった。
――と、前方に三年六組の二人を見つけ、乾はやあ、と声を掛けた。
菊丸は振り返るなりぷっ、と笑い、その隣にいた不二も にや、と一瞬嫌な笑みを浮かべてやあ乾、と声を掛けた。
朝の挨拶にしては随分と失礼なその態度は、菊丸はいつものことだったが不二には随分につかわしくなかった。
そのにやりとする笑みも。
いつもこいつは優雅ににこ、と微笑んでいたはずなのにどうしてだろう。
「いーぬいっ、今日はホワイトデーだよん!」
嬉しそうに菊丸はそう言い、不二との間に乾を招き入れるとにやっ、と笑って「大変だにゃー」と背中をばんばん、と思い切り叩いた。
「やめなよ英二」と止める不二も全く目は笑ってはいない。
「おっ、おっちびーーーぃ!」と菊丸はさらに前方にいた越前に声を掛け、ひらひらと手を振る。
「…先輩たち…っていうか乾先輩…」というと、慌てたように菊丸は越前の口元を隠し、なんでもないにゃーーと誤魔化した。
不二もまたそれをフォローするように、今日の乾はなんだかオトコマエだねと無意味な言葉を繋げる。
…おかしい、何もかもが今までのデータとは不一致だ。
(俺に何かを、隠してるのか?)
乾は考えたが、菊丸や不二、ましてや1年の越前に思い当たる共通項が無い。
部活の送別会の事ならば、俺だけでなく不二や菊丸に対しても内密に行われるはず。
俺だけが仲間はずれになっているようで、気分が宜しくない…が、教えてくれと言ったとしても、
ここにいる人間達は簡単に教えてくれる程単純な人員でもなかった。
「あ。手塚部長」と越前は口唇を塞ぐ拘束から抜け出すと小さくぼそっと呟いた。
珍しく遅い登校だ。
一体どうしたんだろうと遠目で心配しながら皆が囲む輪の中に手塚を招きいれた。
――朝から一番会いたくて会いたくなかった人物だった。
そして。
「あっ桃ぉー!!」と菊丸が大きな声を上げる。
この猫型人間の馬鹿野郎!!と瞬時に乾は菊丸を内心怒鳴りつけていた。
「あれー、皆さんおそろいで…何やってんスか」
「ぷぷっ…も、桃こそっ…朝からお前タイミングぃ」
何かを言いかけた菊丸を、「エ・イ・ジ!」とにこりと一瞥を食らわせて不二は黙らせた。
「…朝からそんなに騒ぐな」と手塚は一歩先を歩くと、その後を気付かれずに乾はそっと寄り添って歩いた。
(桃城に、しっかりと言えるだろうか。)
不安に思いながらも、乾は手塚への想いを何故か再確認していた。
バレンタインには、手塚とのやりとりはなかったから(俺があげるべきだだったんだろうか)
今日も取り立てて何かをするつもりもないが、手塚と話がしたい…と強く想う。
話題は何でもいい。
桃城のこと以外なら、とても気分良く話が出来そうだと思った。
その背に「おはよう手塚」と言いかけた瞬間――。
「乾先輩、今日の返事、別にいいっすから」と己の背に桃城の声が響いた。
「…返事?」と手塚も立ち止まり、乾を振り返る。
「いや、あの手塚…」
瞬時に混乱の渦中に投げ込まれた乾は桃城と手塚を交互に見つめながら「いや、あの、その、」とどもってその場に立ち尽くしていた。
「バレンタインのあれ、実は罰ゲームだったんすよねー」
「――バレンタイン?」
地を這うような手塚の美声が響いた。
はっ、として手塚を見やる頃にはもう遅く、ぶるぶると拳を震わせて乾の四角いメガネをぎっ、と睨み上げていた。
「越前とエージ先輩と不二先輩にゲームで負けちゃって、俺あのチョコ自腹切ったんっすから!」
爽快な顔をして桃城は言う。
桃城が気分を良くしていくごとに、手塚の眉間には幾つもの皺が刻まれ、負のエネルギーを身に纏っているようにさえ見えた。
これまさしく新たな手塚ゾーンか。
いや、そんな新発見に感動している場合ではないのだった。
乾は右手を上げて「違うんだ、手塚」と声を掛けると、ふんっ!と手塚は再び歩き始め、彼方の人ごみにまみれて消えていってしまった。

「あのチョコ美味かったっすかぁ?」







――背後の桃城の声など、乾には既に聞こえなくなっていた。









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ムギさんとメッセでお題リレー小説…。
書いた文章は、黒がムギ千代さんで暗い赤が藍樹です。
最後の方はずっとムギさん頑張ってくれてました…。
書いてる途中で二人で「これってお題にそってねーよー!」とか、言っていたのですが
最終的にムギさんが手塚ゾーンで「人ごみ」を引き寄せて文章に入れてくださいました。
すげぇよ、手塚ゾーン。(←用法を間違えてますよ…。)
手塚受けはもう、アップできないよ…!と言いつつ、がんばってくれたムギ千代さんに感謝!
と言うか、乾塚にしてくれてありがとう!最敬礼!!
そして、話し合った結果…お題期間延長です…。む、無理です…すみませ…。




<モドル