久しぶりに訪れた学校は、まだ冬期休暇ということもあって人影すら無く、ただ冷たい印象を受けた。
早く着すぎたこともあって、部室にはまだ自分と彼だけしかいない。
今年初めて会うというのに挨拶も間には無く、ただ部屋はしんと静まり返るばかりだった。
今日は今冬一番の寒さだという。
まるで部室内はその凍てついた外気にも似て、寒寒とした空気に満ちていた。
無理もない、昨年最悪の別れをした彼にどういった顔を向けていいものか分からなかったのだ。
――手塚、と声を呼べども相手は背を向けて黙々とジャージに着替え返答は無かった。
自嘲にも似た表情をしたのが自分でも分かるほどに、妙に冷静だった。
既に用意を整えた手塚は、こちらを見ることも無く部室を出て行ってしまった。
パタン、と響く音はまるで彼の心の扉の内には入れないことを示している様で、
そのままその場にしゃがみ込んで彼のロッカーをじぃと見上げた。
「にゃんだよ…」
確かに手塚から比べれば自分は幼く、考えも無く動いているのかもしれない。
けれど、手塚の考え方や行動は時々見ているこちらが危ぶんでしまうほどに妥協という言葉を知らない。
何も言ってくれないし話を聞こうともしない手塚にいらだちを隠せず、立ち上がりロッカーに向けて菊丸は、
てづかのばーかっ!、と叫んで足を一度だん、と床にたたきつけた。
「おいおい新年早々穏やかじゃないな、英二」
――突然声がして素早く振り返ると、そこには大石がいた。
新春の挨拶を終えて、差し障りの無い会話をして部室を出る。
大石は何か釈然としないような顔をしていたけれど、この…手塚の件は何となく、世間話のように喋る内容じゃないと思った。
外に出ると、手塚の他にも設備や道具を用意している当番の1年生が見える。
遠目にそれを確認して、もう一度だけ手塚に声をかけた。
「手塚ぁ」
ラケットを後ろ手に恐る恐る近づいてみる。
一度一瞥をくれたものの、ぷい、と顔を横にして視線はすぐに逸らされた。
「手塚ってば!」
コート中に響くような大きな声で、声をかけた。
それでもはあと溜め息をついて視線を斜めに逸らすだけだ。
コートにいる人間が皆振り返るほどの大きな声で今度こそ。
「コラァ! てづかくにみつーー!」
苛立ちは度を越し、すでに菊丸は駄々を捏ねて始めていた。
地団駄を繰り返し、8センチ上の顔を見上げて訴えかける。
「何だ、もめごとか珍しいな」
と背後で乾が眼鏡に手を当ててニヤリと微笑んでいる。
「乾には、関係の無い事だ。」
いつものように表情は見えなかったが、手塚のその口調に少し子供じみた表現を感じて乾は苦笑いした。
こういった行動の説明を手塚本人に求めるのは困難であると、ある程度付き合いのある乾は知っている。
その矛先は自然と菊丸のほうに向かう。
しかし、その菊丸も機嫌を損ねていて口を尖らせて手塚の方を睨んでいた。
「…参ったな、」
「いいの! 乾は黙ってろ!」
介入しようとする乾にキッ! と菊丸は睨みつけるとそのまま手塚の手を菊丸は掴んで部室の裏へと走った。
繋いだ手を振り解こうとしない相手に、安堵しながら菊丸はゆっくり歩調を緩めた。
**************
手を繋いだまま菊丸は、身を翻して手塚を見た。
まっすぐに手塚の視線を捕らえたのだが、手塚が叱られた子供のようにわざとらしく視線をそらしたので
直情的な菊丸は、既に爆発寸前だった感情を留める事など出来なかった。
繋がった手と反対の菊丸の手には変わらずラケットが握られており、苛立ちの所為か強く握りすぎて
掌全体は青白いのに指先だけは朱が差していた。
「手塚ッ!」
繋がっている掌を、さらにぎゅうと強く―――離さない様にと、握り締めて。
声を荒げて、手塚の名を呼ぶ。
「菊ま……」
「手塚の…バカッ!」
「―――…。」
果たしてこの世界に、手塚に対して面と向って『馬鹿』と罵れる人間が一体何人いるだろうか。
あまり言われる事の無い言葉に対して、どう応えていいのかわからず手塚は身体を硬直させた。
吐き出された言葉と共に、白い息が二人の間を流れて、消えた。
まだ準備運動すらしていないので、片方の手は指先から冷たくなってきている。
もう片方は、お互いの手の内に。
じわりじわりとその熱が伝わって、手塚はなんだか泣きたくなった。
誰に何を罵られても、こんなに弱気になる事なんて無い。
相手が菊丸だからだ、と手塚は思う。
一方の菊丸も感情を昂ぶらせていて、目は少し潤み大粒の涙をこぼしても何の不思議も無かった。
「確かに、手塚の言い分の方が正しいのかもしんないけどッ!
俺なんかに比べたら…何もかも、立場とか!全然違ってっけど!
それでも、手塚が苦しそうなのくらいわかるし…手伝えたら手伝いたいって…思うよ…!」
相手を傷つけることになったのは、
はじめは相手を思いやっての言葉だったから。
(―――なんて不毛な、喧嘩なのだろうか。)
そう、思った。
菊丸と手塚の身長差は、8センチ。
菊丸が背伸びをすれば、すぐに一緒の目線になる。
手を、離すのは勿体無いように思えたので、仕方なくラケットを持っている手の方で手塚の首に腕を回した。
手塚の頭部に、ラケットがあたらないように慎重に手塚の髪の毛に触れる。
手塚が静かに目を閉じたので、菊丸はしばし相手の睫毛の長く綺麗な造形の顔に見惚れる事となった。
確かめるように、もう一度手を握り直して菊丸は手塚の頬に口付けた。
音を立てて、キスをすると手塚が恥ずかしがるのを承知の上で。
「…き、菊丸…!」
「…………ゴメン…ネ?」
頬を染めて抗議する手塚に、可愛らしく首を傾げて菊丸が謝罪する。
―――こうする事で、手塚は自分のある程度の行動を許してしまう事を知っているから。
菊丸がにこりと笑って、ぎゅうと手塚に抱きつく。
「ごめんね、手塚。オレも傷付いてたけど…手塚もいっぱい傷つけたね…。」
「……菊丸…。」
触れている場所が、その温もりが、暖かい。
手塚は、だらりと垂れ下がるようにあった自分の片手を菊丸の背中に回した。
「てづかぁー!」
「……な、何だ!?」
「……今年もよろしくしてねん。」
「―――……。」
「……ホラ、まだ言ってなかったジャン。」
「―――……。」
「………手塚?」
「あぁ、そうだな。」
ふ、と小さく笑って
今年初めての、キスをした。
「仲直り、すると思うか?」
一定のボールのインパクト音を聞きながらフェンス越しにメンバーの調子をノートに書きとめる乾が
着替えを終えてコートの方へ来た大石に声をかけた。
主語の抜けた言葉ではあったが、何となく菊丸の様子と今の乾の言葉から事情を察した大石は乾の言葉に苦笑いをした。
「英二は、いい意味でも悪い意味でも……まっすぐすぎるんだ…。
でも―――結局は似た者どうし…じゃないかな。大丈夫だと思うよ。」
「まるで母親の境地だな、大石。感服するよ。」
「あはは…そんなことないよ。」
「手塚と菊丸にはさまれて、苦労する確率は…」
「乾、」
いつものように、データを算出する乾の肩を大石は軽く叩いて視線で合図する。
部室の方から、手塚と菊丸が歩いてくるのが目に入った。
「―――な、大丈夫だろ?」
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