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日暮里駅北口 |
今日は日暮里駅から谷中を歩く。 日暮里駅は北口側は高台、南口は低地になっている。北口を出て、すぐに石段を登り谷中の墓地に入る道は馴染みの道である。
右の方へは行ったことがない。右は直ぐ道路で横断すると本行寺がある。別名月見寺である。名前からして、日蓮宗の中でも本土寺、本門寺等「本」の付く、格の高い寺だったのかもしれない。 高台側には駅舎、そしてプラットホーム、鉄道線路側は低地になっているが、墓地も高台側にある。 昔はすばらしい月が見えたことだろう。
谷中商店街へ下る階段の手前を右に折れその高台から千駄木方面に急な下りになり、「汐・・」とか、海に因んだ名が付いている。かつて低い方側は海だったのではないか・・・・そんな気がする。
日暮里駅北口 本行寺(月見寺)山門 |
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別称、月見寺の名の通り境内には一茶の “かげろうや 道灌殿の もの見塚” 、また山頭火の “ほっと月がある 東京に来ている”の句碑が左右にある。現在はビルしか見えないが、景色を楽しむ絶好の場所だったろう。
遍歴放浪の俳人山頭火の生き方を、働き過ぎの日本人は憧れるところもあるようだが、その生活は壮絶なものであった。しかしその句には魅せられるものがある。
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経王寺山門 |
坂をだらだら登ると、門に官軍と彰義隊の戦いの弾痕がある経王寺がある。 経王寺は東叡山(上野)から1キロとはなれていない。しかし弾痕はほんの数箇所だ。 上野の山の戦いが有名な割には、ここではたいした戦はなかったのではないか、という気がする。弾痕の数からしても既に勝敗は明白で、少数の残党狩りだったのだろう。 官軍と彰義隊の戦いは上野広小路の辺りで始まり、黒門をはさみ両軍の兵、火器が投入され、黒門が破られ、そこで勝負はついたと思われる。
当時の激戦の跡は南千住の円通寺にある。 此処に開戦と同時に官軍の一斉射撃を受けた黒門がそのまま保存されている。 物凄い弾痕である。
弾丸が貫通してないのを見ると鉛の丸い弾だったのだろう。(数年後に通った時は無数に銃弾が貫通した先に見たのとは違う黒門があった。前に見たのは映画のセットにでも使うイミテーションが置いてあったのか?)
(北千住から上野へ日光街道を散歩した時、南千住に差し掛かる辺りに円通寺があった。名のある寺なのだろうが凝りすぎた本堂には違和感を覚えた)
散歩に戻り歩を進める。 階段を下りると賑わっている谷中商店街であるが手前を左に曲がる。
明治維新に関連したものをたずねる。 谷中の墓地に寄り徳川慶喜の墓に参る。三十坪位ある広い墓である。周りには同じくらいの広さの徳川と名のついた名門の墓が沢山あるが、中には荒れたものもあり、諸行無常を感じさせられる・・・・・・・。
徳川の初代と三代将軍の墓地は日光にある。後の人たちは芝増上寺と上野寛永寺の境内に、そして慶喜は最後の将軍であるため、歴代将軍とは違った場所に眠っている。
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山岡鉄舟 |
三遊亭円朝
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三崎坂にでるとまず目立つのは谷中小学校であるが、大きな寺と見間違いそうな感じだ。
その谷中小学校通り越し先にある山岡鉄舟が建てた全生庵に行く。
山岡鉄舟は江戸城無血開城の勝海舟と西郷隆盛の会談の前に、駿府で西郷等と江戸城での会見の骨子を纏めた男である。肝っ玉の据わった大人物で、剣、禅一致を唱え、その生涯の締めくくりに、座禅をしながら亡くなったという偉人である。
鉄舟の墓は墓地中央にでんと構えているが、その隣に、鉄舟に抱えられるように円朝が眠っている。鉄舟は円朝を大変ひいきにしていたそうだが、あの世でも贔屓にしているのだろうか。そんな感じにさせられる墓地の様子である。
全生庵の隣は穴子寿司の専門店がある。親爺は頑固で有名らしい。 まわりには人が沢山あふれている伊勢辰とか雪見煎餅があるが、通り越してそのまま不忍通りを横断し、坂を登ると駒込学園の前の光源寺にでる。 此処には代々の徳川将軍の鎧を作っていた甲冑師、明珍氏の墓がある。墓地を五周してやっと見つけた。 墓石の前には都の文化財の掲示板があった。
そろそろ暗くなり寒さも増してきた。
本郷通りを御茶ノ水に向かい、途中春日町で安政の大地震で崩壊した水戸藩の上屋敷のあった後楽園に立寄る。 この地震で松戸神社の拝殿も倒壊しているが、この時圧死した藤田東湖、また幕末に影響のあった水戸の志士達や新撰組を考えながら寒気の中黙々と歩いた。日もとっぷり暮れ汗ばんだ肌もしんしんと冷えてきた。
冬至を過ぎ、いくらか日が長くなったようだがまだまだ冬。御茶ノ水に着いた五時には真っ暗だ。 今日はこれまでと電車に乗るが、車中で維新のことをあれこれ考えている中に松戸に着いた。
我が本町辺りも新撰組が逃げてきている。 近藤と土方は流山で百姓の子供を集め、決起しようとするが果たせず。近藤勇は大久保大和と名乗って官軍に自首したが、近藤と解ってしまい板橋で処刑された。また、土方歳三は陸中山田湾で官軍の軍艦を乗取ったりして、最後まで戦い抜き、函館「五陵郭」に死場所を得た。
自らの責任を背負って行動し、自らの信念に殉じ、幕末に光彩を放った人達であった。
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