本町自治会員の投稿頁

  ぶらり 江戸川
江戸川と工兵学校

工兵学校は陸軍唯一の工兵の専門学校でした
写真は 『 陸軍工兵学校史 』 より



江戸川とその周辺
松戸陸軍工兵学校錬習所



家の前の加藤下駄屋と千代田銀行(現松戸公産の建物/千代田銀行はその後三菱銀行を経て東京三菱銀行となる)の間の道を入り、堂の口橋を渡って青木源内さんを越すと、土手まで舗装された広場があり、土手は現在より10m位川寄りだった。
参照絵図/下
松井天山画 松戸町絵図 (昭和5年)
昭和36年あたりまで本町はこの絵図とほとんど同じでした

中央は土手が3m程切れており、両壁はコンクリで補強され、天井はコンクリの道路になっていて大きな口を開けていた。

壁面には辺20cmの角材が何本も積まれていた。
大水になると角材を壁の切れ込みに固定し、積み上げ土嚢で補強し、土手に開けた通路を塞いで洪水を防いでいた。小学生の時、1mくらいの高さに材木が積まれ、粘土で固めた後、土嚢が積まれていたのを見たことがある。

いつもの江戸川↑ 台風通過後 

工兵学校の渡河訓練

母が良く話していたのは大雨が降り、水かさが増し、堤防から対岸の堤防までの川幅の流れになると、江戸川は揚子江と変わらない大河だと言う人がゐたことだ。
町場の小市民の例え話に揚子江が出てきて、それが何となく理解された事は近隣の国に親しみをもっていた証拠で、現在の感覚とは違う。
現在の土手は当時の物より1.5倍くらい高くなっている。
その土手に開けた通路を潜ると川原にも舗装された場所があり荷上げや又は工兵学校の兵隊さん達が訓練の重機を運びやすい様にしていた。


水ぬるむ頃は江戸川の岸近くにメダカが背びれ、胸びれを細かく動かし群れていた。その集団が幾つもあった。メダカは小川ばかりでなく大きな川にもいた。釣りには小さな年齢なので見て楽しんでいた。

この川岸に繋がれていた鉄製の1m四方のボートに乗って遊んだ憶えがある。3−4個繋がれ先頭は抵抗がすくない形に成っていた。
明らかに工兵学校の物と思われる。
このボートを対岸まで何艘も浮かべ板を上に渡し橋にしたのだろう。

鉄製のボートで遊んだのは昭和21年頃の事だから、終戦の翌年で軍関係の物があって当たり前なのかもしれないが、不思議に感じている。

昭和22年にはカスリン台風時に葛飾橋付近で金町側の堤防を爆破及び人口的に切り崩し堤防外に溢れた洪水を江戸川に引き込んだが、納屋川岸の堤防からも堤防の無くなった所から対岸の浸水した様子が見られた。
通っていた中部幼稚園は二部屋しかなかったが、一部屋が金町の罹災者が住むようになった。
突然幼稚園が狭くなり、知らない人達と顔を会わせるようになり、不自由になった気がしたが、人とは助け合わなくてはいけないことも教えてもらったことを思い出す。


工兵学校の鉄船の関連であるが他に兵器で目の当たりにしたものは2台の戦車である。
工兵学校が戦後千葉大工学部になっても2台の戦車がしばらく置かれていた。
本町には軍事評論家が居るので詳しく聞いてみたいと思うが、日本軍には重戦車は無かったのではと考えられる。

タイガー戦車、シャーマン戦車、やスターリン戦車の形の戦車はなく日本の戦車は東京銘菓の「ひよこで大砲もひよこの口のように小さい。記録映画でみる限り日本軍の戦車はシャーマン戦車と向き合うと一発のもとに破壊されている。
戦車の開発も他の武器と同じで随分遅れを取った。
雨に曝され放置された二台の戦車も傍で見たり乗ったりすると頑丈で、当時は歩兵相手には随分活躍したと思える。
ノモンハンで日本陸軍の歩兵はソ連の戦車にこっぴどくやられたが、戦車対戦車の戦いはあまり想定してなかったのかも知れない。

私の好きな宗教家の紀野先生の陸軍工兵学校にに縁のある文章を紹介したい。
「般若心経講義」における冒頭、「観自在菩薩」 の解説の一部である。


日本人にとって最も美しいのは「母」であり、母の霊性的表現ともいうべき観世音菩薩だということになる。わが母の中に観世音菩薩を見た人は最も幸せな人間というべきか。
母の中に観世音菩薩を見た思い出である。


昭和19年の12月、松戸の工兵学校を卒業し見習い士官に任官した私は、戦地に赴く日まで面会も外出もできなかった。そこへ突然母が広島から訪ねてきたのだった。

私の名前を聞いた衛兵司令は、「紀野見習士官殿は戦地へ行かれるので面会も外出も許されておりません。お気の毒ですがお帰り下さい」
「軍曹さん、あなたはお子さんおありですか?」
「はあ、小さな男の子がおります」
「その子が大きくなって戦地に行く時、あなた、面会に行って会えなかったらどうなさいます?」

母から水の流れるように訊かれた衛生司令は、ついつりこまれて、「そりゃあ、会わずには帰れんでしょうなあ」
「そうでしょう、わたくしも帰れませんの」、この一言に軍曹は参り、中隊長春山少佐に三度も電話して、やっと面会できるようにしてくれたのである。
春山少佐は軍曹に、「しかたがない、面会所だけ見せてやれえ」と言い、私には、「紀野見習士官、急用ができたから衛兵所に行けえ」と命令した。

その後で少佐は衛生司令に電話で「今、紀野見習士官が急用で衛兵所に行く。衛兵所の裏には面会所があるな、面会所には紀野見習士官の母親がいるな、もしかしたら会うかも知れんな、会ったら仕方がない五分間だけ会わせてやれえ」

私はこうして十分程母と話す事ができた。
空襲のさなかを、広島から松戸までどんな苦労をして来ただろうか。それでも母は息子の顔ひと目見たさに松戸までやって来たのだった。そしてたった十分しか息子のそばにいられなかったのだ。十分経って私は母に言った。
「お母さん、こうして会っているのを咎められたら、あの軍曹は処分されるし、中隊長だって無事にはすまないでしょう、見つからない中に帰って下さい」
母は言った。
「私はお前の顔をひと目見ればよかったのだから、もういいのです、帰ります」

そう言って微笑んだ顔は、この世のものとも思えぬほど神々しく美しかった。あとで気がついたのだが、その顔は中宮寺の如意輪観音にそっくりだったのだ。
それからまもなく、戦場へ行く士官達に五日間の特別休暇が与えられた。
いよいよ出発するという朝、軍装を整えて玄関の土間に立った私の胸に、母は自分の胸に抱いてきた私の日本刀をそっと押しつけた。そして、「それじゃ、体を大事にして…」と言ってやさしく微笑んだ。
その顔は二度目に見た中宮寺の観音さまだった。
広島に原爆が落ちた時 (注・昭和20年8月6日)、母は私の胸に軍刀を押しつけたあの玄関の片隅で死んだ。
いまわの際に母が浮かべた表情は中宮寺の如意輪観音さんの微笑そのままだったろうと、私は今でも信じている。




私が昭和29年に入学した松戸市立第一中学校は工兵学校の一部を校舎としていた。

最近TVで見た戦後の名作 「雲流れる果てに」 の下見板造りの兵舎のシーンは一中の校舎と同じで懐かしかった。
昭和21年に出来た特攻隊の出撃前夜を描いた映画で、現在それから学ぶ事は、自由を履き違えた若者に生きることの意味を真剣に考えて貰いたいことである。

中学一年の時、担任のW先生が放課後、暗い裸電球が二個ぶら下がった教室で 「ビルマの竪琴」 と 「路傍の石」 を情熱的に読んでくれたのが懐かしい。

また当時は、軍から復員した先生もいたせいか、軍隊の気合の入れ方で、「一列に並べ、歯をくいしばれ」、とビンタをくらったり、拳骨をもらったりしたが、殴られてはじめて悪い事をした、と解った事もあった。
教育には殴る事も必要と思う。

雨天体操場には電気は引かれてなかった。
雨天体操場とは、終戦から9年も経っているのに、飼葉の臭いも残って いる馬小屋だった。
教室も裸電球が2個ぶら下がっただけで、明るさが充分ではなかったような憶えがある。
昭和21年22年頃は良く停電し、家庭は石油ランプを常備していた。ランプの 「ほや」 と言う風除け、そしてレンズの働きをしている部分の掃除はまかされていた。

電気が少なく、よく停電していたころに少年時代を過ごしたせいか、光には敏感で、ちょっとしたあかりも明るく感じ、月明りの下でキャッチボールを出来ないものかと満月の夜に試してみたが、ちょっと無理だったことを思い出す。

夜の江戸川に行き、明かりの無い中を濃紺の背景に黒い塊の列車が進行方向を照明で照らし鉄橋を渡っているのを見た時は、筋になった光線を美しいと思った。現在は光も氾濫し一筋の光に心を動かす事は無い。

昭和25年頃までは中秋の名月の日には廊下に “ちゃぶ台” をだし、団子とススキを供え光を尊んでいた・・・・・

夏には本家の庭の縁台で夕方から暗くなるなで従兄弟や兄と話をした・・・・・

夕暮れには本家の蔵に巣作りしていた蝙蝠が一斉に飛び出し餌をあさっていた・・・・・・・

本家の広い庭には高い電柱があったが、その蝙蝠を捕まえにきていたのだろうか、フクロウが丸い体で止まっていた・・・・・・

夜には満天の星を見て美しいと思っていた・・・・

流れ星を見て見つけるとまた流れたと星の飛行線を楽しんでいた・・・

本町もコンクリートジャングルにはなっておらず、生物も飛び交い、澄んだ大気を通して、月明かりと共に星も楽しんだり、星座を従兄弟や兄に教えてもらったり・・・そんな事ができた時代だった。

倉庫にあった親父が軍隊時代に使った、ゴム製のエキスパンダー、鉄兜、防毒マスクや、刀の手入れをするポンポン等を玩具にして遊んでいたことも思い出す。
学校に背負って行ったのはランドセルでなく、将校用の “背嚢(はいのう)” 、弁当箱は、これまた将校用の “飯盒(はんごう)” で、普通の子が買えないものを使用している事がいささか自慢だった。
米国とサンフランシスコ講和条約を結ぶまでは(小学校六年の時)、子供の生活の中にも知らず知らず太平洋戦争の影響が強かったのだろう。
つづく
写真は 『 陸軍工兵学校史 』 より