本町自治会員の投稿頁
江 戸 川
のすたるじあ










土手での凧上げ 平成14年1月撮影
本町周辺にはあちこちに池があったことを憶えている。
現在の伊勢丹の場所に中部小学校があったが、その給食室の前の線路に面した所も池だったし、二丁目中通のH和菓子店の敷地も池(蓮田)だった。

本町辺りを書いた江戸時代の地図にも、彼方此方に池が描かれている。当時の江戸川は堤防も無く、大水になると低地に水がたまり、深い所は池として残ったのだろう。

堂の口橋を渡った右側の竹篭屋さんの裏も大きな池だった。
果物屋のHちゃんに釣りに行こうと誘われたが、年の離れた本家のYさんも誘われた。なんで? と思ったが、釣りをしているうちにイジメッ子があらわれ、イチャモンを付けられそうになった。この時HちゃんはYさんを前面に出しその子達を追っ払った。なるほど、小さい時から知恵のある者もいるものだと思った。


今年還暦を迎える著者の小学校5〜6年時代の写真(昭和28〜29年)
古ヶ崎水門近くの渡し場で・・・下駄履き、ズック靴・・・当時の子供の様子が偲ばれる

一平橋も現在の場所ではなく一友会館の通りにあった。
丸幸百貨店と枡屋の間の道を入ると三坪位の広場のあるお稲荷さんが坂川に背を向けてあった。その道路の右側は畑と蓮田があった。梅雨時は蓮の大きな葉はつやつや輝き、大輪のピンクの花が咲いていた。

排水機川の手前はもっと大きな蓮田があった。そこで食用蛙取りの専門が、「引っ掛け」で上手に蛙を捕まえるのを魔法を見ているような気持ちで見ていた。
蓮田にはタガメ、ヤゴ、いもり、かえる、へび、そしてなまず、らいぎょなど、現在は結構な値段のものも沢山いた。

昭和30〜40年頃の区画整理時、建築前のボーリング結果では岩盤まで20数メーターもあった。駅の西口地区は湿地帯だったに違いない。大地震があったら液状化が怖い。

一平橋を渡ると右側は田圃だったが、左はちょっと高くなっていて、そこには畑と国鉄の官舎があって、段差の斜面には篠竹が密集して200mほど続いていたが、その先は遊郭だった。親からは、「怖い所だから行っちゃいけない」、と言われていたので近づかなかった。


後年、この左側には道路計画ができたが、2年間位は赤土のまま放置されていて、凧揚げに絶好の場所だった。小生は凧揚げが得意で、武者絵の角凧や、赤い「龍」の字のこま凧、自分で組み立てる飛行機凧、トンビ凧となんでも人一倍遠くに揚げた。小雨の中一人で凧揚げをしている事もあった。

冬は西風が多く、江戸川を背に聖徳大学方面に凧を揚げる。今思えば聖徳を越え、6号線を越え、和名ケ谷迄揚がったんじゃないかと思っている。新聞紙を小さく切り取り、真中に小さな穴を開け、凧上げの糸に通すのを「電信」といったが、その紙切れは糸を伝って凧の近くまで上っていった。
江戸川でではなく、手前の広っぱで遊んでいたのは、危ないから川へ行ってはいけないと言われていたからだ。
その後、そこが道路として使われるようになると電電公社が出来、一平橋も今の位置になり、駅からの道も貫通するころには小生の凧揚げの年齢も終わった。

坂川は護岸されておらず、いつでも川に入ることができた。また、四つ手網で小魚も獲れたが、不潔な水に入るとワイルス氏病になるとか、川で取れた物は食べると肝臓ジストマになるから食べてはいけないと言われていたが、裸足で川に入りザリガニを取るのは楽しかったし、バケツに一杯になる程獲れた。
親に内緒で友達の家で取ったザリガニを茹でて真っ赤になったのを食べたら結構な味だった。
親爺が醤油で煮たバイガイを食べていたのを憶えてる。それに似たタニシも沢山いたが、タニシは寄生虫が多く、食べられないということをみんなが教わっていたせいか、だれも取らなかったようだ。美味くなかったのかもしれない。

ギンヤンマのことを 「おんじょ」 と言った。
坂川には夕暮れになると蚊の群れがあちこちに出来、プランクトンに寄ってくる魚のように、「おんじょ」が集まった。
昆虫網で捕まえたなかにメスがいると、糸に結びつけて 「おんじょ、けーしこ、けーしこ、おいらのおんじょは良いおんじょ・・・」 と謡いながら軽く回して飛ばすと、オスが交尾に来てメスの首にしっぽの先を挟む。そうなるとチョットのことでは離れない。そうしてオスを捕まえた。

メスは数が少なく中々捕まらない。メスの羽はオスより茶色いが、胴体は緑色をしている。
オスの鮮やかなブルーの胴を緑色に塗り、羽は絵の具で茶色にしてメスに変装させて、「おんじょ、けーしこ、けーしこ・・・」 とやってもオス 「おんじょ」 はひっかかった。
トンボの複眼もたいしたことはない。


小学館学習百科図鑑 『昆虫』 より

釣りと言うと排水機川だ。
長い竿を使うと対岸に針が行きそうな小さな川だったが鮒、くちぼそ、たなごなどが沢山いて、良く釣れた。
今のアポロスタンドの場所の橋は欄干の無い土をもった橋で、そのあたりから樋野口方面は一面の田圃だった。田の間には用水があって、足でこぐ水車で田に水を引いていた。用水でスルメを餌に小さなザリガニを捕まえ、これを餌に江戸川で 「投げ釣り」 をやった。高校1年の時、遠ざかっていた投釣りを久しぶりにやってみたくなり、排水機にザリガニの子を取りに行ったら、すでに田圃は埋め立てられ、家が建っていた。浦島太郎の様な気になったことを思い出す。
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松戸市立博物館「松戸写真館」より



千葉県東葛飾郡坂川普通水利組合排水機
建設中の明治42年の写真
松戸市立博物館「松戸写真館」より
         

「投げ釣り」 に使う釣り針は大きく、大きい釣り針は自分で糸を付けなければならない。駅通にあった釣道具屋 「天狗屋」 (現在の鈴木時計店あたりか・・) で、釣り針に糸の付けかたを教わった。
竿は1m50cm位の竹竿で、瀬戸物で出来ている外経1cm位の輪と、針金で出来た糸通しを5ケほど、等間隔に糸で結びつける。
錘の匁 (もんめ) や 「仕掛け」 も教えてもらい、リールではなく竹製の糸巻きをつかって遠くに投げるというやり方の、投げ釣りだったが、釣れた憶えはない。
赤入水門の 「浮き釣り」 で釣った50cmのサイが記憶に残る一番の大物だった。
この大物は大切に家で飼う事にし、大きな樽に水を張って泳がしていた。
うれしくて翌朝早く起きて見に行ったところ、樽の中は空っぽ!!
狐につままれた感じだった。野良猫にやられてしまったようだ。

赤入水門の扉の真近で15cm位の白い蛇のような物が掛かった事がある。
針に食いついて体をビクビク震わせ、糸を登って絡み付いてきた。
気持ち悪いので、ぬるぬるしているのを針から外そうと思ったが、外し辛く、針の所で切って捨ててしまったが、周りの人の言うには 「メソッコ」 と呼んでいるウナギの子供だったようだ。当時の江戸川では竹を紡錘状に編んだ魚取りの仕掛けでウナギが取れたようだ。三河屋さんに聞いてみよう。

江戸川に焼玉エンジンを積んだポンポン蒸気船が行き交っていた。甲板が川の水面で洗われるまで砂や「汚わい」を載せてポンポンポンと音を立てて何艘も走っていた。船が通ると舳先で波きりした波が段々と大きくなって岸に打ち付けてきた。魚もその波に乗って来ると思っていた。
船が見えるとすばやく餌を付け替え投げ入れたが、そうしたほうが、実際に大きな獲物が釣れたと思っている。

赤入水門に行くには、堂の口橋をまっすぐ江戸川土手に出て、土手の上を通って行けば良かったのだが、堂の口橋の手前を左に折れ坂川沿いに 「きつね橋」 に行き、その橋を渡り赤入水門に行く方法と、同じ道を行き、以前文華幼稚園があった辺りから坂川の川原に降り、川が赤入に行く流れと春雨橋方向に向かう流れと別れる所に有った水面から1mの高さで20cmくらいの幅のコンクリートで出来た平均台様の代用橋を渡る方法があった。
細い平均台の様な橋を渡った方が近道だったので緊張しながら利用していた。


坂川/納屋川岸(右は赤入水門/左は角町へ
  平均台のような渡し橋のあったあたり

坂川/きつね橋 (青い橋)

その真中は30cm位壊され、凹んでいてそこを通るのが特に怖かった。
冒頭で出たHちゃんがバランスをくずし水かさの増した坂川に落ち、近くで釣りをしていた人に助けられ九死に一生を得たと、当時の苦しみを思い出しながら話してくれたのは、平成14年1月の本町自治会HP編集会議にたまたま居合わせた時だった。

当時は大通りを渡り、坂川を越え、江戸川に向かうあたりはすぐ畑で、あちこちに 「肥え溜め」 があった。
屋根がついているものもあって、すぐに見分けがついたが、屋根の付いていないものは、表面に土が被って、土と同じ色になっていて注意深く枠を見つけないと、中に填まってしまう。
畑でカエルを見つけ、取ろうと夢中になって、土と見分けの出来なくなった肥溜めに落ちた子もいた、と聞いた事がある。

しかし、その頃の子供は親のいうことから安全、危険を嗅ぎ分け、また自らの体験から学んだ。
親も危険な場所には行くな、と厳しく注意をしたが、「フェンスを張れ!」 とか 「行政、学校の管理責任!」 などと 目くじらを立てるような事はしなかったと思う。

昼間に樋野口の田圃にいくと、ボーボーと食用蛙の独唱、そして夕暮れ時はケロケロ、ガーガー、コロコロとカエルの大合唱・・・・夕闇の心細さに共鳴して、子供心にも物悲しさを感じたことを思い出す。

秋には江戸川の土手で 「オオド取り」 で遊んだ。
オオドはイナゴの三倍ほどの大きさのバッタ (いなご) だ。
オオドは飛行距離が長いので、飛んでいるオオドと競争し着地地点で捕まえたが、すぐにはなした。
子どもは飛んでいるオオドを見ながら、上を向いて走っている。
成長した雑草を輪に結び、バッタを捕まえるのに夢中になっている子供が足を引っ掛けて転ぶ様をみて喜んでいるいたづらっ子もいた・・・

土手をはじめ彼方此方に叢があり、9月になると、「がちゃがちゃ」(くつわむし) や 「スイーッチョン」 と鳴く虫(子供は鳴き声のまま、「スイッチョン」の名前で呼んでいた) が鳴き、秋草の下では「こうろぎ」が五月蝿いほど鳴いていた。

くつわむしを取ってきて虫かごで飼っていたが、餌にしていたキュウリの糖分に寄ってきた蟻に 「くつわむし」 が食い殺された!
また、庭に逃げてきた十姉妹をを追いかけ、屋根で捕まえ飼っていたが、これも猫にやられた。
それ以来動物、昆虫を飼う事に恐ろしさを感じ、生き物を逃げ場のない狭い空間に押し込めるのは止めた。
昭和27年〜29年 ・ 小学校4〜6年の頃の思い出
平成13年3月20日記平成14年1月18日加筆