本町自治会員の投稿
              6月号
ぶらり 金 沢

加賀百万石

平野 正 (遠州屋薬局)
EM t-hirano@gray.plala.or.jp





大野庄用水


ここ2−3年の大河ドラマはあまり面白くなく思っていたが、今年は男子には楽しい戦国絵巻で、興味がわいている。
中学時代に坂口安吾の 「信長」 をむさぼり読んだ記憶があるが、ドラマ中、信長の口癖の 「・・・であるか・・」 もこの本にあった。

司馬遼太郎の 「国取り物語」 「尻啖らえ孫市」、山岡荘八の 「徳川家康」、堺谷太一 「豊臣秀長」 等々、戦国時代の本は次々に浮かぶ。

  利家と・・・・
尾山神社利家像

今回所要で金沢へ行くことになった。大河ドラマの 「利家とまつ」 の舞台である。
ゴールデンウィーク中の5月4日、5日と結婚以来始めて連休を取った。
4月は棚卸の後始末で金沢の下調べもろくに出来ぬまま出かけたのだが、パパ・ママ/カンパニーにとって、ひさしぶりののんびりした気分になれた、良い思い出になった。

今回の旅行で気がかりは長男と一緒だということだ。札付きの雨男である。
案の定、家を出る頃から小雨で小松空港では、完全な雨・・・
さらに雨男の面目躍如で、昼頃には土砂降りになった。




連休中であり大河ドラマも興味が有るからだろうか、天候にもかかわらず早朝7時台の飛行機は満席だった。
舞台が揃えば「公共放送の町興し効果」はたいしたものだ。
松戸もNHK 「徳川慶喜」 の時は多少の関連はあったのだが、戸定館観光の町への波及は零に等しかったような気がする。
 
 ・・・
まつ (尾山神社)


空港からの道々聞いた話だが、古い都市らしく新住民が入り込みにくいところもあるようで、新住民は “近所” の反対語で “遠所者” と呼ばれるとのことだ。
なかなか近所付き合いをしてもらえないという。
遠所者” も、その子供が高校を地元で過ごすと、どうやら近所者付き合いが出来るようになる、とのこと。
古都京都もそんな習慣と聞いたことがある。
地元の出身者の県知事では何代に渡って出ていないくせに・・・


石川県の由来も廃藩置県で加賀藩百万石が金沢県になり、能登地域が七尾県となったのだが、その後合併して石川県となった。その名は金沢城の搦手 (からめて) の門、石川門からきているらしい。


石川門


用事を済ました後、寺町近くの高級住宅街から金沢城そば橋場町の金城楼に移動した。
雨で車は渋滞、さらに観光客の集中でバスも多く車は進まない。普段の3、4倍の時間が掛かったそうだ。
徒然にタクシー運転手との話で、大昔の星陵対箕島、高校野球に及んだ。

優勝候補の箕島尾藤監督、石井投手、捕手島田。
対する金沢市内に校舎がある星陵高校は堅田投手で、箕島の攻撃も9回2死、森川の一塁ファールフライを星陵の一塁手加藤?が追いついたが、ベンチ前の人工芝に足を取られ転倒し捕球出来ず、その打者に同点打され、延長に突入。
結果はその森川にホームランを喫し星陵が負けた。

運転手曰く。「地元では何時までも言われ可哀想なんですよ・・・」


金城楼は、さすが加賀百万石の高級料亭に来たことを実感させてくれる、ゆったりした造りで、関西風の味付けの美味しい料理に舌鼓をうち、大いに話も弾んだ。
古都の名料亭だが、座敷は掘り炬燵様に足が下ろせるようになっている。
畳に座る事が下手になった最近の日本人への配慮だろう。


金沢は東西に浅野川犀川を配し、天然の大きな堀とした城下町である。

金沢城と隣接して兼六園がある。
城と兼六園の周りに三権、文教商工の官庁街があり、商業の中心地 (昔は楽市楽座で商人を優遇し、全国から優秀な商人を集めた) がある。

新しくできた夜の歓楽街もあるが、そこにも侍の住居だった武家屋敷が保存されている。
東の浅野川の城外は東の茶屋とよばれ、伝統のある粋な街のようだ。
西も犀川の城外は西の茶屋と呼ばれ、昔からの粋な町と寺が集められた寺町がある。


いままで一緒だった雨男の倅は勤務が有るので3時過ぎの飛行機で帰京した。
倅についていったのか、雨も小降りになった。
今回は倅と女房との金沢行の予定だったのだが、それを聞いた次女は、当然自分も一緒と思い込んでくっついてきた。

宿はやっと取ったビジネスホテルで、荷物整理のあと、4時ごろから小雨の町に出た。
香林坊の辺りをうろうろし、友人から聞いて楽しみにしていた、宿に近く犀川を渡ったあたりにある 大衆割烹「てら喜 に早めの夕食にむかう。
まだ食べ盛りの娘は煮物を中心に8品もおかずを注文したが、こっちは昼が豪勢だっただけに、さっぱりと済ましたが、ここも魚と野菜の煮付けが絶妙。さすがに加賀料理である。


てら喜」 の奥一体が西の茶屋、寺町なので、散策後一旦宿に戻り、小生はそのまま投宿したが、女房と娘はまた香林坊に出かける。


翌日は10時にチェックアウトだ。それまで兼六園と、長町の武家屋敷を観たあと、JRで小松に移動し、那谷寺に行くと大雑把な計画を立ててある。
だから今日は早めに寝て、朝6時半には起き、朝食を済ませ、7時から見学する予定だったが、女房と娘はなかなか起きてこず、朝食は7時40分になってしまった。

天気は何時降ってきてもおかしくないような湿度の高い、肌寒い曇天だが(この日松戸は30度を越す真夏日だったとか)、勇んで兼六園へ向かう。
わが国は狭いと言われながらも、日本アルプスを境に日本海側と太平洋側ではこんなに天気が違うのだ。結構広いんだ



兼六園 根上りの松

兼六園は池を中心にしたわが国屈指の、見事な大きな庭園である。
しっとり落ち着いた風情で、雨も効果的に緑を濡らしている。
大きな松、風情のある茅葺きの東屋、質素で威厳のある茶室、有名な琴柱灯篭、石灯籠、石の五重塔・・・すばらしい配置である。

真弓坂から一周半廻って、桂坂から外に出たら金沢城の搦手門の石川門だった。
城内は 「加賀壱百萬石展」 をやっていたが、ドラマの効果は抜群で、もう大変な人出である。
園に沿って並んだお土産屋の道を通ると、また園に戻れるが、真弓門から外に出て宿に帰り、最低限の必要な物を残して宅急便で荷物を自宅に送り、次の観光武家屋敷に向かう。



兼六園 虎石

兼六園 琴柱灯篭

兼六園 つつじと五重塔

兼六園 霞が池


ここの武家屋敷は狭い曲がりくねった道路と、2mちょっとはある土塀がある。
これは攻められた時敵を此処に誘い込み、勝手知ったる前田勢が挟撃、または上からの発砲を考えたのだろうと思える。秋田県角館の道路の広い武家屋敷とは大いに違う。
ほかにも開放された屋敷も多く、資料も飾ってあり、観光に力を入れている様が理解できる。

同じ階級の藩士が一箇所に住むのは、季節の付け届け等、面倒な事も多かったろう、などとと余計な心配をしてしまう。

長町散策

飴屋

街中に御荷川という幅は狭いが水量が豊富な急な流れがある。
材木や水に浮かぶ建材の運搬に利用されたという。
名物の飴屋や和菓子と茶を商っている店も良い配置にあり、気持良く見学できる。


10時ちょっと過ぎから見学だったが、はじめは空いていたのが、段々見学者が増えてきた。
一往復した長町武家屋敷を後に、「利家とまつ」を祭った尾山神社から近江町市場、尾張町と歩く。尾張町のお土産屋で金箔の入った小瓶を買い、晩酌の時酒に浮かべて飲むことにする。
「抱朴子」に仙人になる方法が書かれているが、金の摂取も一つの方法とある。
金沢駅まで歩き、ローカル線に乗るのも旅の楽しみの一つで、那谷寺に行く為にJRで小松駅に行った。車中で笹や柿の葉で巻いた鯖寿司、鰤寿司を遅い昼食にした。


小松ではバスに時間がたっぷり有ったので駅前を見学。安宅の関が近くこの駅にも勧進帳の像があった。戦国時代以前のヒーローは義経である。

鄙びた駅で忠臣・弁慶の気持ちを察する。町並みは古く格子をはめた家が多くテレビでよく見る北陸街道の宿場である。


小松駅前の勧進帳像

小松駅


バスで粟津温泉まで行ったが、バス停の前がタクシー会社で無人電話が一本あったので、行き先を告げると5分位でタクシーが来た。
名前は良く聞く温泉場だが“湯治場と言ったほうが良いような雰囲気である。

大きなホテルは入り口に鎖が廻っていた。不景気の影響は深刻だ。
更に過疎になっていく道はゴルフ場の看板が沢山ある。
那谷寺の周りは民家が数軒あるが後は田と低い丘である。寺が出来た西暦800年頃は多くの人が住んでいたに違いない。

山門脇で入場券を買おうとして時計を見たら4時50分で、見学は5時迄とある。
券を売っている人が、「ゆっくり観て良いですよ」言ってくれたので入場。
自然信仰の部分がある真言宗の別格の本山で、参道は木で覆われ曇天の夕方は暗闇に近い。

名刹だけに戦火にあい、建武中興の時、そして一向一揆の時と2度の火災で荒れ果てていたのを前田の三代目が復興したそうだ。
芭蕉も奥の細道最終過程でおとずれ 「石山の 石より白し 秋の風」 と残している。


那谷寺山門

    
那谷寺大悲閣拝殿             奇岩に囲まれた那谷寺


夕闇と時間にせかされゆっくり出来なかった。石山も庭園も伽藍の一つ一つもゆっくりとは見ていない。
いつか金沢路は再びこなくては、と思い最終バスで那谷寺を後に・・・・・・山歩きとは一味違う古都の旅を堪能した。