ぶらり・・・金 峰 山**
       写真/筆者撮影

頂上から五丈石方面へ下る
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深田久弥氏の 「 日本百名山 」 に関東大震災の年の秋、氏が金峰山に登った時の記録がある。


・・・飯田町駅 (当時の中央線の始発駅) を夜九時四十分の汽車に乗って、翌朝四時半に甲府着。
もちろんバスなど無い頃だから、歩いて昇仙峡へ・・・そのどんずまり、御岳金桜神社で昼弁当を食べ、さらに奥の黒平村にむかった。
そこが金峰山登拝の表参道である。参道の途中は、いろいろな名がつけられている。
黒平へ行くまでに猫坂というのを越えた。その峠の上から金峰朝日と続く奥秩父連山を一望に収めて、まず最初の快哉を叫んだ。

予定では御室川の河原で泊まることにしていたが、上黒平に着くと、そこの宿屋の前に大きな熊の皮が貼り付けてあり、熊の肉を食わせるから泊まって行け、というあるじの誘いに乗って、そこで脚絆を解きワラジを脱いだ。

翌朝早く出発したものの、道を間違えたりして手間取り、御室川の急な登りにあえぎながら、頂上へ着いたのは十二時半だった。空は完全に晴れて、四周の眺めに狂喜した。・・・・・



近頃は塩山から約一時間半タクシーに乗り、そこから2時間半の行程で頂上にいける。
楽な方法で百名山の一つを登ることにした。


ちょうど台風11号の接近中の頃だ。
どうしようか迷ったが、インターネットで金峰山のある山梨県牧丘村長野県川上村の天気予報をみると、両村とも一日中 「お日様マーク」 である。第一関門はなんとか突破できそうだ。

次に山頂に何時間居られるかを計算して、次ぎの山、国師が岳まで足を延ばすべく計画を立てた。(実際に行ってみて、予定は一転することになった)


車中、 高尾を過ぎる頃から明るくなり、晴天の早朝を迎えた。
木々の梢が朝日に輝くのを見ながら塩山に着く。
駅の階段を下りるとタクシーの運転手が声をかけてきた。
こちらも初めからタクシーに乗るつもりだったので好都合である。
運転手は 「こんな良い天気はめったに有りませんよ」 と喜ばせてくれる。指差す方向には大きな夏の富士山が黒くどっしりと見えた。良い一日になる予感で胸がときめく。


大弛峠標高2300m迄はタクシーでいける。
途中は巨峰ブドウ畑や、りんご畑で白い紙袋がはちきれそうに収穫前の豊潤さを表していた。
運転手は、 「牧丘村の巨峰は一番美味しいよ」 と御国自慢をする。
山梨と言えばブドウだってことはわかっている。山梨ぶどうが数あるなかで、「牧丘のブドウは一番だよ」、と言うのだろうが、味は人のすきずき。身びいきだろうが、ま、いいだろう・・・・
ぶどう自慢でりんご自慢までは間に合わなかったが、桃の自慢は付け加えた。

天気はよく、途中まではくっきりと青空をバックにした富士山も濃紺の山肌に見え、更に山頂からの展望に期待を膨らませた。


ところが、山道に入る頃から急に曇りだした。
運転手との話も、去年山崩れがあり、この道も最近やっと通れるようになったのだ、などと暗い話題になる。
舗装も途切れ、山肌もあらわに、大きな岩が崖の途中にごろごろある。庭石にと取って行く心得の悪い者も居ると言うが、随分大掛かりな悪さをするものだ。でもこっちは地震でもあったら、ひとたまりもないと落ち着かない気分になった。


ガスってくる

かすむ木立

そのうちに富士もすっかり隠れ、峠に着いたらついに雨が降り出した。
当てが外れたが、台風が九州に来ているのだから、晴れる訳が無い、とは思いながらも、天気予報の通りになれば・・・と虫の良い考えが甘かったようだ。
レインウェアを着るほどの雨で、深田久弥氏が二度も快哉を叫んだ眺望は絶望。しかし、こうなったら、2600mの山を二つ楽しもう、と自らを元気付ける。

六時間ちょっとあれば上手くすれば国師ケ岳にも行けるはずだ。大弛峠に着いたのは八時二十分なので、運転手さんには三時に迎えに来て下さい、と頼んで出発した。


途中は四輪駆動車などが、ほぼ500mに渡って駐車している。マイカーで自由に動くことが出来れば良いのが、こちらは運転が好きではなく、ハイキングの後、運転するほどスタミナも無い。


大弛峠の頂が山梨と長野の県境で、牧丘村川上村の境である。


道路から右へ入ると国師ケ岳、左へ行くと金峰山だ。
山梨では 「きんぷざん」 と言い、長野では「きんぽうざん」 と言うらしい。


最初から女房が一番嫌がる階段状の登りになる。
こっちも寝酒が残っている感じで余り快調ではない。何時もよりはゆっくりと歩き始めた。

今日は娘二人も一緒で、女房にしてみれば子供と一緒に旅行するのも後何回も無いだろう、との思いがあるようだ。
小生がトップ、長女、次女、そして女房の順で歩いていたが、直ぐに女房が脱落、遅れだした。
2000mを越える高さの森林は樅、ぶな、松で、幹に沢山カビのようについている苔は、地面にもはりつき、その間にシダ、バイケイソウが生えている。そして苔は岩にも同じようにへばり付いている。霧が多く、その為多湿の所為なのだろう。

木にむす扁平状の苔

枯れ木

女房が遅れ勝ちなので15分毎に休み、甘い物を補給しゆっくり歩いた。
この時点で大目標の二つの素晴らしい眺望を得ることと、国師に回ることは潰えた。


森林地帯の上り下りを繰り返すと登山道の両側はシャクナゲがびっしりと植わっている。
6月シャクナゲの時期と紅葉の季節が登山客は最も多いと言う。

朝日峠朝日岳と高度を上げると枯れ木が目立ち、なかには倒木もある。寒冷と強風の為である。喬木は高山では生きにくい。森林の木々も金峰山に近づくと背丈が段段低くなる。
天候は相変わらず深い霧で、デジカメ画面では水滴に写っている。ときには一瞬、また30秒位青空が現れては消える。

禅宗の坊さんが山に登り、ガスで何も見えない時に空想するのが景色を目の当たりにするよりも良い、と言っているのを読んだ事があるが、素晴らしい景色を知っていての事だろう。

松が胸程の高さの山道をしばらく行くと、次ぎは斜面には30cm位のはい松がぎっしり生えている広いガレバだ。森林限界を越えた高山ならではの風景である。


賽の河原?・・・ガレバ


ケルン
登山者が手ごろな岩を積みあげ作った、いくつかのケルンの基で長女と女房を待っていると、顔色の冴えない女房が次女と一緒にやっと到着した。
ここまで2時間半を予定していたが、3時間近く掛かっている。


ガレバとケルンだけでは 「賽の河原」 のようだが、そこを縁どるようにはい松がある。
学生時代以来の高山の景色に感慨も深い。

漢方の先輩は登山には六神丸は常備していた、と聞いていたので、その高級品の午黄と朝鮮人参の高単位に含む 「霊黄参」 は持ち歩いている。
疲れ切ったような女房にそれを飲ませ、もし食欲があるなら炭水化物を補給して、と思ったが、女房はお握りをひとつ食べて此処に居ると言う。

降りてきた人が 「後五分で頂上だ」、「天然の造形物 ・『五丈石』 までは七分だ」 と言っているのに、女房は此処に居ると言う。
しかたがない。容態を確認し三人で頂上を目指すことにする。




重なり合った大きな岩の上を足場を探しながら渡る。

頂上へのガレバ

五丈石

   
深山アキノキリンソウ/コメススキ

やなぎらん
 
八月十九日



すぐに最高点に達し、次ぎに岩場を100m下ると、高さ20mはある巨岩が重なり合った 「五丈石」 が目の前に聳えている。この巨岩の下には、微かに朱色の残った鳥居がある。
八百万の神を信仰してきた日本人が、この奇岩を信仰の対象にしない訳がない。
かつて鳥居の前の平地には、修験者の道場が有ったとのことだ。

「五丈石」 の裏側は緑豊かだが、絶壁に近い斜面である。
よくぞ太古の世界より鎮座しつづけたものだ。

感激しているなかで、30秒ほど青空が覗き、斜面の下の方まで緑が見えたが、またすぐにガスって、何も見えなくなる。
岩の反対側にいた人は奇岩の山 「瑞牆山 が見えた!」 と叫んでいた。


次女に言われるまま、岩と岩の間の高山植物や、斜面の 「やなぎらん」 も撮った。
知らず知らずに時間を過ごしたので、急いで女房の待つ地点に戻ると十二時十五分。
来た時と同じ時間が掛かるとすると、大弛峠に着くのは三時十五分になってしまう。
タクシーとの待ち合わせは三時である。娘二人を先に行かせ、女房を後押しする形で下山し、二時十五分に大弛峠着。ゆっくり着替えをし、さっぱりとして迎えを待った。
帰りのタクシーから、蒼い大きな富士山が見えた。

久しぶりに高山を楽しめ、大満足。
体調を整えた女房と、空気の澄んだ秋の景色を楽しむ宿題は残したが・・・



        
  
岩の上での食事

タカネヒゴタイ

頂上の一瞬の晴れ間

帰りの富士