祭の月が来て一番に思い出すのは幼稚園の時、家にいた「ねーや」と言われていた「おたけさん」のことだ。
まだ終戦直後の物資不足の折で、店も忙しく、おたけさんは勝手と子供(小生)の面倒を見てくれていた。おたけさんに連れて行ってもらう神社の縁日は「楽しみ」で、日の丸の付いた小さなゴム動力の飛行機を買ってもらったことを憶えている。 ゴムを巻かなくても滑空するので、面白くて、もうちょっと、もうちょっととやっているうちに潜竜橋から坂川に落としてしまった。その日は水量が少なく、川原が出ていて、落とした飛行機が見えているのに降りられないのがくやしかった。 おたけさんに「あきらめよう」、と言われて帰った記憶がある。
次に思い出すのは小学校一年の時だ。
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鼻に一筋のおしろい
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浴衣を着せられ頬に紅を差し、鼻に一筋白粉を入れてもらって祭りに行って来い、と言われたがはじめは恥ずかしくて部屋でもじもじしていたのだが、意を決して店の脇の木戸まで行ったが戸を開けられず裏庭に戻った。
しばらくして行かなければと思い直し、また木戸まで行ったが開けられず庭に戻った。 そして、とうとう5回ほど行ったり来たりしたが、ついに木戸を開けられなかった・・・ この辺の気の弱さ、優柔不断な性格は今も直っていない。逆な意味かも知れないが栴檀は双葉よりなんとやら・・で直らないものだ。
小生はは2月生まれで、4月生まれの人に比べれば約1年ハンデがある。 そのせいか小学生時代を振り返っても、普通に男の子と遊ぶ様になったのは3年生も半ばを過ぎてからである。
小学校4年の頃、相撲をやっても、野球をやっても誰にも負けない事が解った。 ベイ信金の裏に柔道の道場(塩沢道場)があり、そこに通っている子と相撲をとっても、何回も勝て、いままでと違う自分を発見したが、性格までは変わらなかったようだ。 小生は兄弟の中で歳が離れて生まれ、上の兄、姉に比べると親も子育てに疲れ、ただ静かにしていると誉められた事も、「引っ込み思案で積極性が無い事」に繋がったのかも知れない。 しかしその4年の時の目覚めは、積極的に神輿担ぎに参加させるようにしてくれた。 隣の果物屋の肇ちゃんと一緒だったのが心強かったとも思う。
みこしを担ぐ格好は白のシャツと半ズボンだった。 松戸駅の東口出口が出来たばっかりの頃だったか、東口(向こう山下)に行くのに、駅を通ったこともあったが、通常は根本との境の踏み切りを渡るか、三丁目の踏み切り(現伊勢丹〜市民会館への踏み切り)を越えていき山水閣(東口山ノ下の料亭)で休んだ。向こう山下にも神酒所があった。
昭和25年ごろ 一丁目(現本町)の神酒所前で
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神輿を担ぐと最後に10円を風呂賃として貰い、そこで3班に分かれ関宿屋、桝屋、鳥福で「かけ蕎麦」を食べさせてもらうのが大変な楽しみだった。外食なんて滅多に出来ない時代だったせいもあったのだろう。
東口では榊を出していた。
5年生の時、西口に来た東口の榊を担ぐ人が少ないので助っ人に加わり、そのまま東口の神酒所まで担いで、お菓子を貰って帰ったことがある。
殆んどの西口の子供はそのまま西口の神輿を担ぎ、恒例の風呂賃、蕎麦券をもらい、道路を塞ぐように写真をとって解散した。 当時の子供神輿の写真に小生が写ってないのは、東口で菓子をもらったら西口で二重におみやげを貰ってはいけないと思っていたので、西口の神輿も担がず、写真も写さず、かけ蕎麦も食べなかった。この辺の思い込みも現在も変わらない。
不思議な事にその頃は一級上の自治会長とはまるっきり接触がない。 たぶん自治会長もその写真に写っていないと思う。 自治会長はHPをやるようになってから聞いた話だと、我が西口は商店の子供ばかりだったのに、東口の住人はサラリーマンが多く、親父さんからなるべく東口の子供と遊べ、と言われたとか・・・。親の言う事を良く聞く年齢もあったようだ。
昭和25年ごろ
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中学に行くと子供神輿には入れず、かと言って大人神輿の仲間入りも出来ず神輿から遠ざかった。
家の前の大通りで八ケ町の大人神輿が行き交うのが祭のクライマックス。それは最大の楽しみで興奮して見ていた。 今と違い各町会の神輿が何回も行き来し、すれ違う時はぶつかり合うのではないかと緊張していた。花棒でバスの窓ガラスが割られるのを見たことがある。
角町の三叉路に構えていた大工が家に出入りしていたが、この人の「角刈り」がなんともかっこよく、祭にはほんとに似合っていて、そのせいか、神輿はなんたって角町が一番かっこいいと思っていたが、1丁目にも稲葉屋のよっさん、クリーニング屋の大貫さん、山内三吾さん・・・憧れの神輿のスターがいた。この人たちは子供神輿に付いてくれたが、くたびれそうになった時、かけてくれる掛け声がなんとも心強く感じたものだ。
茶碗酒の洗礼もこうしたスターの集まる神酒所からだ。 昭和40年代の復活の祭に遅刻して神酒所に行ったが、神輿が出たあとなので、追いかけようとしたら、お神酒をやっていきな、と言われ湯飲み茶碗に注がれた酒を一気に飲んでしまったが、「駆けつけ三杯だ!」などと言われ、続けざまに飲んだが、あまり酔っ払ったような気がしなかったのも若さのせいだろう。今の弱くなったことと比べて思い出す。
昭和31年から10年ほどはロータリークラブ、ライオンズクラブなど渡来の団体が台頭した頃で、また商工会議所活動なども盛んになってきたころで、町の旦那衆も町会・祭よりもそちらに目が行ってしまったのだろうか、伝統行事「祭」もちょっと下火になったような気がする。また、車が増えてきたこともあってか、交通事情の為、神輿の渡御が中断されたこともあったようだが、小生も中、高、大学時代で、松戸の家は朝晩の飯を食うところぐらいで、祭のほか、地元の行事からは遠のいていたし、また、年齢もあったろうが、今とは違って祭に泥臭いものを感じ、もっとスマートなものに関心があったのか、別にさびしくも感じなかった。
子供のころの神酒所は葛西屋呉服店ならびの石綿商店だったが、この頃になると駅通りの消防小屋と決まっていた。
昭和40年前半 駅通りの消防小屋の神酒所時代
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区画整理最中のさびしい祭り
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西口一番の繁華街に売り出しの抽選や神酒所に使えた公の建造物が良くあったものだ。 区画整理で街中が工事中のところばかりだったせいもあってか、寂しい祭が続いたが、祭を町内のメインイベントに、という思いの連中が一青会(一丁目青年会)を発足させた。
一青会 後列右端浴衣が高橋準二郎初代会長
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初代会長は松栄館(線路際の旅館で、『ボワ』という松戸でおそらく初めての喫茶店もやっていた)の高橋準二郎さんで、豪快に何でも笑い飛ばしてしまう大物だったが残念なことに早逝したが、成島君(成島酒店)や山長さん、他町会の祭に詳しい人に助けられながら祭も復活してきたころでもあった。
ただ、この頃は担ぎ手もあまり集まらず、掛け声もワッショイ、チョイサ、ホイサ・・・etc などと区々だったし、自分の掛け声が、そのまま自分の耳に響くほどの人数で、神輿も重く感じたものだ。 駅前の青物市場跡で撮った写真に、現参議院議長がワイシャツ姿で写っている。 また自治会長と一緒に祭りに参加したのもこの時が始めてである。
昭和40年代前半 右端ワイシャツ姿が現参議院議長
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昔は神輿を担いで平潟(遊郭)へ行ったものの、泊り込んでしまい、翌朝、現松戸公産の横からよろよろ出てきたなどと言う話を母から聞いたが、平潟について知らない頃で、朝まで祭ができる町会にうらやましさを感じたこともあった。
平潟遊郭内での山車(明治時代の写真)
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昭和30年台後半に成人した一青会会員は皆、幻の大神輿を現実に戻したいと願っていた。 これを現自治会長の思いの一念で修理する事になり、区画整理以前に現三和銀行の並びに住んでいて、その時は小山に居た40代続く仏師の名門で運慶、快慶の流れを引く私の同級生の楠君にお願いし、彼も文字通り死ぬ気で修理をやってくれた。
松戸神社の大神輿の出現 (修復前)
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途中で手が進まず、何日か投げ出してしまい、また仕事場で眠ってしまったこともあったそうだが、夜中にふと物音で目をさまし、虚ろな目で神輿に焦点が合ったとき、仕事の知識の無い彼の女房がこつこつ金箔を貼っているのを見て気を振い立たせ、再び神輿にとりついて、仕上げたことを修理が終わった後聞いた。
途中、奥さんから「受けた予算では足りません」、言われたりしたこともあった。費用も体力もぎりぎりでやってくれたようだ。 その楠君が神社で神輿の完成式典の御霊入れの時、こらえ切れず嗚咽を漏らしたのを聞き、感動とともに、その苦労を知った。 彼の遠慮の見積りと就職を投げ打ってまで修理を行ってくれた彼のその後の責任を一青会の皆が感じている。
修理の終わった大神輿を出した30年ぶりの祭は盛大で、大神輿を十重二十重と担ぎ手が囲み、威勢良い渡御の様子に我々も感激したが、大神輿の存在を知った若い松戸っ子が祭に帰ってきた。 我が家では娘2人が祭好きで小さい時から参加しているが、特に長女は毎年浅草馬道の友達が宮神輿を担ぐ三社祭を見に行くが、その度に「かっこいい!」と言いながら帰ってくる。 今年結婚したが、結婚式に子供の時の紹介に法被姿で私と写った写真があった。 その影響で、次女も今年は担ぐんだと言っているが、一人では行けないようで、小生が小学校1年の時木戸を開けられなかったのと同じような事を言っている・・・
なにはともあれ、地元の風物詩・祭好きは孫子の代まで続けたいものだ。
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