本町自治会員の投稿頁

八月の松戸の風物詩

 盆






我が家は父が隣の本家から分家したのがルーツである。従って父母の存命中は仏壇は無かった。

2丁目善照寺




8月13日は夕方からお迎えのちょうちんを持った人たちが大通りを行きかう

お盆になると迎え火、送り火ともに本家の伯母と分家を代表して小学生の小生が善照寺に二人でお参りしていた。お墓に行く前に5時には風呂に入り浴衣に着替え、盆と正月にだけ履く桐下駄を履いて行った。
本家は旧家で、江戸時代の後半1800年頃に浜松辺りから松戸に来ている。茶の間についている納戸の上半分が大きな仏壇になっていて、数代に渡る位牌がある。


初代は漢方医で名前は臨市庵長市といい、文政年間に亡くなっている。二代、三代と漢方医と生薬屋(きぐすりや)を営んでいたと伯母から聞いている。

盆には仏壇の上をホウズキで飾ってあった。
夏に本家の庭では竹の生垣に沿ってホウズキが紅い袋をつけていた。
一番新しい仏様は祖父か?
しかし、親父は9番目の子で、その親父が42歳の時の子が小生なので、全く知らない。小生には遥か彼方のご人である。
親父の兄弟で長男の正次郎と言う秀才がいたが42歳で亡くなっていると聞いたことがある。この人が一番近い仏様だった。


都合で六男の好吉郎が医業と本家を継承し、七男の父福七郎が分家して生薬屋(遠州屋薬局)を引き継いだ。
つまり先祖は松戸へ来た時から医者と生薬屋(きぐすりや)をやっていたようだ。
仏様が本家に帰ると父は年に1回、午後7時に自分の生まれた家に行き、仏壇の先祖にお参りをしていた。供え物はそうめん10束と決まっていた。


伯母について盆に墓へ行くのも小学生の時までで、後は父だけが本家に恒例のお参りをしていたが、その後の小生は寺とも本家の仏壇にも縁がなく過ごした。


昭和39年12月に私は家に入り跡を継ぐ。
昭和55年長男が小学3年、長女が幼稚園の年長時、次女が女房の腹にいた時母が亡くなった。そして我が家にも仏壇が出来た。




ご先祖は提灯の灯とともに・・・・

初七日が過ぎるまで毎日般若心経を子供たちと読んだ。葬式にお坊さんが二人来たので子供たちは兄が和尚さんで妹が小坊主さんと、袈裟の変わりに毛布をはおり仏壇の前に座った。
兄妹は葬儀のお坊さんの仕草を良く見ていて、心経を読む前にお坊さんがロン、ロン、ロンと小さな円を書き後、空中を大きく穢れを振り払う、場を清める儀式の真似をしてから般若心経を読み始めた。
その後も正月、春秋の彼岸、盆には一家で般若心経を読んでいる。来年母の23回忌で親父の13回忌がくる。だから22年間続けている事になる。


また何処の家庭でもそうしているのか知らないが、女房は毎日仏壇のお茶を変えお参りをしている。女房が泊りがけで朝食時にいない時、姉妹が仏壇のお茶を取り替えていた。言われたわけではないのだろうが親のやっていることは良く見ている。

長男は小学5年になると日曜の度、日曜テストに行っていた。
昼には帰宅出来るはずなのに、帰ってくるのは3時頃だった。
それが当たり前の帰宅時間だと思っていたが、都内の寺社を見て回っていたと云う事が後でわかった。

後年夫婦で半日時間が空いた休日に都内を散歩していたが、私たちが初めて行った所を子等に話してやると大抵の所を長男は知っていた。すっかり騙されたものだ


母の命日は9月18日、父の命日が8月27日と日が近いので、法事は一緒に8月下旬の日曜日にお願いしている。暑い盛りに、天井の高い風のよく通る善照寺の本堂で蝉の声を聞きながら、和尚さんに合わせて「かんじざいぼさつ、ぎょうじんはんにゃはらみたじ、しょうけんごうんかいくう、どいっさいくやく、しゃりし・・・」とやるのは気持ちの良いものだ。
これも直前のお盆の間、毎日仏壇の前で唱える「かんじざいぼさつ、ぎょうじんはんにゃはらみたじ・・・」の気の入り具合により、法事の時の般若心経読経の出来に良否がでる。
和尚さんは、読経中に後ろから唱和の声が聞こえると息継ぎも楽に出来て有りがたいとのことだ。






さて般若心経の解説は随分とあるが、6冊持っている。
その中の一冊は正法眼蔵第二般若波羅蜜多の巻の解説である。倅は瀬戸内寂聴のものが良いと言うが本屋でお目にかからないのでそれは知らない。

般若心経は大乗仏教の一番短い経典で「空」を説いている。人生は実態はなく在るのは縁である。


この所何人もの政治屋さんが絶頂から転げ落ちている。
実態の無い者(特定の人でなく人類全て)が力(金)で権力を得ようと画策するものの、その行き着くところは縁の薄い不満分子に足を掬われたと言うところか?

自分が無ければこだわりも無い。こだわりを捨てる事は彼方此方でぶつからない。



仏教は人生哲学であり、葬式時にだけに接触するのは勿体無いことだ。
もっと寺も社会に仏教を訴えることをしたらよい。住職で学校の先生をしている人は沢山居る。なぜそこに説いていることを生徒に教えないのだろう。

仏教から道徳がうまれ、逆に道徳に情緒が加わったものが仏教なのだろう。

本町のHPでも力の入った「聖徳太子についてのNHKの番組」でも聖徳太子の人格が仏教と入り混じって聖徳太子信仰として全国に広まった様だし、鎌倉時代に三人の天才が出て浄土真宗、日蓮宗、曹洞宗を起こし布教し、宗教により人間としての考え方の基本となり日本人の性格が出来たらしい。
三宗とも思い立った時がー南無阿弥陀仏、または南無妙法蓮華経と唱えるか座禅をすればー悟りだとやさしく布教したので大衆に浸透した。ラフカディオ・ハーンがえらく感激をしたのは後年エコノミックアニマルと言われた利に聡い面でなく、情緒豊かな国民性にである。
これも仏教の感覚が庶民の身に付いていたからではないか?




2丁目は寺町

江戸時代の庶民は寺子屋(文字通り、寺で)で勉強を習い、仏教が知識と道徳の素だったらしい。

我が家では大学時代から下宿をしている倅は特別信仰が有る訳では無いが、彼岸と盆には帰り夜、家族で般若心経をあげ、翌日妹達と墓を掃除し線香をあげお参りをして職場に向かう。
どうやら習慣に成ったようだ。
学生時代高校の同級生と話をしていて、今日はお盆だから家へ帰るのだと言ったところ笑われたと言っていた。今の社会通念からは外れているのだろう。



私も信仰があるわけではないが窮屈な性格からの脱出を思い、仏教の解説書を読んでいるが本当の所は教えを受けなければ解らないし、自分で思っている所がその解釈で良いのか確信を持てない。
それは実社会にいて、丸々自分を捨てる事が出来ない所に原因があるからだろうか・・

しかし理屈抜きに    「仏説摩可般若波羅蜜多心経」

観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、

度一切苦厄、舎利子、色不異空、空不異色、

色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是、・・・・
・・・・・・と家族と唱えながら、こだわりが無くなるように、また意識しないで自然と出来るようにと願っている。

そして父母への恩を想う・・・



不忍の池  蓮の花・・・(7月28日撮影)


不忍の池  蓮の花・・・(8月3日撮影)


こぼれる慈悲の光


掲帝 掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提僧莎訶