日暮里駅北口から目の前の階段を上ると、直ぐに谷中の墓地で、一面に墓石がひろがるが、入り口の桜の大木が出迎えてくれ、薄いピンクの花が華やいだ気分にしてくれる。 100mほど細い道が続き、途中にも大きな桜の木がある。 どちらも染井吉野で、豊富な花で歓迎してくれるので、歩をゆるめ、のんびりとあるく。
突き当たりで鍵の手に二回曲がると墓地中央の大きな通りにでる。 この道の両側には桜が何本もあり、ゆったりのんびりできた。五年くらい以前迄は此処で花見の宴を張る人は居なかったが、最近は朝から席取りをしている。
常識で考え、墓場で酒盛りするのはおかしいと思っていた人々が、花見をする欲望に場所を弁えずに行動しているのだろう。暗黙の了解で品位を保っていた日本人の美徳の崩壊かもしれない。
花のトンネルをゆっくりと通り抜ける。 青空が花の隙間からチラッと覗き、花は日に光り、また陽光に半透明に輝き何とも幸せな気分になる。アクセントに鳥が花びらを突付いているのも目を楽しませてくれる。 |
日暮里寺院の林泉
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江戸時代は各藩邸にはそれぞれのお国の桜が三〜四〇種あったらしい。これが明治以降、挙国一致の方針で軍本部の置かれた各地の城跡に、統一された思想の元、染井吉野が植えられた。 これにより染井吉野が一気に全国にひろがり国々の城跡がさくらの名所になっている。 しかし染井吉野こそ桜の中でも清楚な中に、主張をもつ美しさでは一番であろう。
のっそり十兵衛の建てた五重塔の跡は四角く囲われているが、此処も花見の場所取りの青いシートで確保されている。 花重と言う花屋の手前で桜は途切れる。振り返って、桜街道を今一度網膜にしっかりと焼き付けてから直進し、言問通を横断し、進入禁止にした方が良いような細い道を、車に次々追い越されながら桃林堂(老舗の和菓子屋)を通り、芸大前にでる。このあたりには昔は桜も植えられており、桜と柳の対比が美しかったが、歩道を広げたため、今は柳だけになり、さみしくなった。
公園の噴水に来ると花見で最も賑わう区画が見える。花に霞んだここを見ないと今年も花見をしたと実感しない。 上野の山に住む日焼けした人で、芸達者がスターになる季節でもあり、踊り、歌を披露している。
此処を通る度、落語の「崇徳院」を思い出す。
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・・・・・稲荷町の大店の若旦那が上野の清水さんにお参りをし、その先にある五條天神に行き、前の茶屋で真っ赤な毛氈に腰掛けて茶を飲んでいるとき、美人の娘(落語では水も滴るイィ〜ッ女と言う)に出会う。 その娘が茶を飲み終え、茶店を出ようとした時、木に吊るしてあった短冊の一つが半分に切れて、ヒラヒラと舞い落ちてきた。 それを拾った娘は、その短冊を女中に持たせて若旦那に届けさせ、本人は赤い顔をしてうつむいていた。その短冊には「
われても 末にあはむとぞおもふ
」とだけが書かれてあった。
若旦那はそれが崇徳院の短歌 「瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われてもすえに あはむとぞおもふ」 の下の句と解る。
さあ、大変!! 家に帰った若旦那は一目惚れの恋煩いで寝込んでしまう。心配した旦那は店子の熊さんに長屋を一軒与え、その娘を探して貰う・・・・・
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桜の頃のになると思い出す噺だ。
上野清水堂不忍ノ池 台東区上野公園 |
噺の舞台は清水さんと五條天神にはさまれた上野の山のメインストリートであるが、現在は花見客でごった返している。
不忍の池に行き弁天様の裏から池の中道を通り横断する。桜が満開で気持ち良い。桜の木もあまり大きくないので鎌倉の段葛の花を連想する。 池之端から湯島の切り通しを登り、東大をかすめ本郷菊坂を下り西片から小石川植物園に行く。
小石川植物園には大島桜、三島桜、江戸彼岸桜、柴桜、伊豆彼岸桜、里桜、一葉、普賢桜、天城吉野、山桜、衣通姫、寒緋桜、山科、蝦夷山桜、染井吉野・・・・ほかにまだ8種位の桜があるが覚えきれない。 山桜は小振りで色も薄く葉も出ていて地味だがほっとする。
(山桜の花見は二週間後に箱根湯坂道ですることにする) |
染井吉野は花びらの色も濃く一番派手だ。都会に咲き、艶やかさを化粧をした婦人と競い、みずみずしい盛りのうちに勝手に散ってしまう様はかなしい。
華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり・・・・綺麗な花をいとおしく思い、はびこる雑草を嫌悪感を持って見ること好嫌を対立して見てはいけない世の中はあるが儘認めなさい。と言う事だが出来る事ではない。 こぶし、シナミズキ、木蓮、数種のつつじ等が咲きそろった植物園を一回りし、園外に出て茗荷谷の坂の桜祭りを楽しみ、また来た道を戻るという長距離の、花見ウォークである。
桜は短い期間の華やかな、潔さのかげで、毎年一年間にわたって周到な準備をしている。 染色家の志村ふくみさんは次のように言っている。
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・・・・・まだ、折々粉雪の舞う小倉山の麓で、桜を切っている老人に出会い枝を頂いて帰りました。早速煮出して染めてみますと、ほんのりとした樺桜のような桜色が染まりました。 桜はなかなか切る人がなく、九月の台風の頃でしたか、滋賀県の方で大木を切るからと聞き、喜び勇んで出かけました。しかしその時の桜は三月の桜と全然違って匂い立つことはありませんでした。
桜は樹全体に宿している命を、一年の間、花を咲かすために、その時期の来るのを待ちながら、じっと貯めていたのです。 植物にはすべて周期があって、機を逸すれば色はでないのです。たとえ色が出たとしても精はないのです。花と共に精気は飛び去ってしまい、あざやかな真紅や紫、黄金色の花も、花そのものでは染まりません。・・・・・
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美しいものを見、心を豊かにする季節である。 自然を大切にし、自然とふれあい、自然が発散した精気を戴き、一瞬の春を楽しみたい。
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