〜ほんとに介護してる?〜
介護は本来「自立」を支援するものでありますが介護の現場ではそれと矛盾する
さまざまな問題があるように感じています。
ここではそのような問題を取り上げ自問自答していきたいと思います。
そして理想と現実の隙間を少しでも埋めることができればと思っています。・・・・・
そのつど感じたことを飾らずに書いていきたいと思いますので、多少読みにくい点があるかと思いますがどうかご了承ください。
☆ 施設では・・・・
- 『お年寄りってかわいいよねぇ〜』・・・・・!!??
よくこんな言葉を耳にします。
私には正直言ってそういう気持ちがよくわかりません。
老人から帰ってくる言葉やしぐさなど私達介護員に心地よい印象を与えてくれる老人を言うのでしょうが
私は「憎めない人だ」とか「愛嬌がある人だ」などとは感じますが、「かわいい」という表現は思いつきません。
親しみを感じることには変わりないのでしょうが、私の感覚が固いのでしょうか?
「かわいい」とは幼児に使うだけでなく、親しみを感じたときに使う今風な表現なのでしょうか?
特にこだわりなく使えばいいので、そんなことにいちいち疑問を持つ必要もないことなのでしょうか?
職場には若い人もたくさんいて、また女性が多い職場です。彼女たちからすればその表現もごく普通のことなのかもしれません。
時代感覚が違うせいかもしれません。
でも私が無理にそれを使うと不自然なような気がしますし、まぁ、自分は自分なりの言葉で表わすほうが
一番気持ちを伝えられるのではないかと思います。(2004.03.29)
- 『とっさ』の声掛け
最近気がついたことがあります。
介助している利用者に声を掛けるとき、つい「コレコレ」とか「アレアレ」言葉を使ってしまうのです。
例えばいすに座らせるとき、「もっとこっちこっち」とか、服を着せるとき「はい、こうやって」など。
いわれた方はどうしていいか分かりませんよね。
考えてみると、こんな失礼な言葉はありません。
体が思うように動かない人に対して、介護者が気ぜわしく動作を催促する言葉です。
たいてい本人は何も言いませんが、それをいいことに日常茶飯事に使っていた自分が恥ずかしくなりました。
もっと分かりやすく、なぜ言えないのでしょうか?
大概そういう時は、すばやく動かなければいけないときが多いです。
例えば、トイレ介助、入浴中、移乗動作などです。
介助側は動いている動作を安全に早く終わらせようと思ってしまうからでしょう。
もちろんそれは大切なことなのですが、気ばかり先行して、ついそんな言葉が出てしまうのです。
では、どうしたらいいのでしょう。
結論から言うと習慣づけしかないのかなと思います。
その瞬間、その瞬間での意識、言葉、動作を考えよりよい方法で行うことの積み重ねではないでしょうか。
「ここをつかんで」ではなく「この柱をつかんで」、「もっとこっち」ではなく「もっと腰を引いて」など具体的にしゃべること。
あせっているときに具体的な言葉を出すのは難しいことかもしれませんが、訓練によっては決して不可能なことではないと思います。
まず、自分が本人にならないこと。動いているのは自分でなく他人なのです。
そして次に動作の行くところをよく見ること。柱なら柱、奥なら奥、眼で見たものを瞬時に『何』と判断して言葉に出すこと。
これは訓練しかないと思います。
そして習慣になればそれが当たり前になるでしょう。
『その瞬間、その瞬間』で思い出した言葉に、『ASAは一日5万回の瞬間を体験している。』というのを聞きました。
先日受けてきた講習会のなかで「意識改革」についての話の中だったのですが、ASA(スカンジナビア航空)の従業員は一日いたるところで
合計5万回のお客様との会話を交わし、その瞬間すべてにお客様に満足を与えるチャンスを持っている、というのです。
『瞬間』というのは正直なもので言葉よりも語調や表情に本音が出てしまうものです。
利用者は(お客様は)見ているのです。言葉に出さなくとも・・・
奥深い言葉だと思いました。
ついでにもうひとつ、私の好きな言葉(これも昔教わったことなのですが)に
『意識が行動を変え、行動が習慣を作り習慣が人格を造る』というのがあります。
意識=「気づき」の大切さと、性質はかえられる(性格は変わらないが)という信念を私はこの言葉から
学び取っています。(2004.03.10)
- 時間に追われて十分な介護ができない。
例えば食事など特に朝は人がいなくてひとりひとりゆっくり介助してあげる事ができない。
それは次の時間にオムツ交換に入らなければならないからです。それが遅れると朝のミーティングに間に合わなくなってしまいます。(03.03.03)
<Q>・・・・・・ それでは、時間があれば十分な介助ができるのでしょうか?
<A.1>それはそうかもしれません。
でも時間は無限ではないので、
ある時間内にある程度の介護を行わなければならない、というのが結論かもしれません。
問題は、その「ある時間」と「ある程度」がどれほどなのかという事から発生するのだと思います。
重度の利用者が多くて、朝は夜勤者と早番しかいなくて、・・・・となると本当に大変でしょう。
実際私も夜勤を経験しているのでよく分かります。介護の達人はその辺をどのようにこなしているのでしょう?
経験の浅い私にはよく分かりません。先輩の姿を見ながらそれを会得していかなければならないと思ったりします。
・・・そう考えるのは古い考え方でしょうか?(2003.04.14)
<A.2>突発的なことが起こって一人がそちらにかかりっきりにならざるを得ない事態が起こったとします。
事実、私にもそういうことがありましたが、その時どうだったでしょうか?
結局、何とか切り抜けたと思います。切り抜けた、と言うより無意識にいつもやる何かをやらないで、どうしてもやらなければならないことを
必死になってやっていたと思います。
少し例えが違ったかもしれませんが、「時間はないなりに何とかできることもある」 ということを言いたかったのです。
厳しく言えば「甘え」とか「力不足を棚に上げて」、と言われるかもしれません。
よく、「・・たら、・・れば」を言ったらきりがないと言います。
しかし、能力にも限度というものがありますので、改善が必要なケースもあるでしょうが、最終的には「技術アップ」と
ある程度の「割り切り」しかないのでしょうか。
本音はやはり時間は欲しいです。それにストレスもたまるものです。・・・・(2003.04.10)
- 以前こんな話を聞いたことがありました。
利用者の家族が突然尋ねてきて、「やはりうちのが利用するのはここしかないので、もう一度利用させて欲しい」と言ってきたそうです。
あちこちに行ったけれど、どこも扱いが不親切で本人のためにならないのでお願いしたいということでした。
その時対応したトップのひとりは、受け入れ態勢などがあるので少し時間がほしいと言いましたが、もう一人は基本的には
家族の要望はまず受け入れる方向で考えるべきだ、と思っていたそうです。
結論から言うと私はそれを聞いて『両方正しい』と思いました。
受け入れ優先か、内部検討が先か、というと私は受け入れ優先の考え方に賛成です。
どのような理由があれ「お願いしたい」という意思表示があったことは事実ですから、まずそのことをテーブルにのせてあげるべきだ、という意味からです。
その部所で問題を話し合った結果いろいろな意見が出たそうです。
a. トップの二人の意見が違うのがおかしい。
b. 利用者は重度でそちらに時間が割かれ、従来の利用者へのサービスが絶対低下してしまう。
c. 医療器具などここでは十分になく、主治医が不明確というのではいざというとき責任が持てない。
d. 利用者の嘆願する気持ちはわかるが、家が近いから、などの善意で受け入れていたようだがそれは考え直すべきだ。
e. 以前利用していた時の家族側の対応はとても誠意がなく、こちらからの話し合いにも避ける態度が見られた。
f. 自分たちの努力が向こう側に伝わらないのがとてもくやしい。・・・・・・・・・・等々。
なるほどもっともなことです。
受け入れ側からすれば受け入れ側の意見があって当然です。
しかし、だんだん譲歩案も出てきて話の最後には「今まで長い間どんな気持ちで介護してきたのか
心を打ち明けてもらわなければ・・・」 「いや、そこまでは・・・」というようなところまでいったそうです。
このような話を聞いて私は2つのことを考えました。
1つはこの、サービス低下と責任問題という言葉が
何かにつけてよく出てくることを耳にすることです。
両方ともあまり好きな言葉ではありませんが、避けては通れない言葉だと思います。
現実に何かが犠牲になることは事実だと思います。が、そこでもっと効率化、短縮化できる部分はないのか、と検討することになるのでしょうか。
2つ目はトップが先か現場が先かということですが、「何で先に決めちゃうの?」という非難が現場でよくあると思います。
現場のサービスの質と経営的観点とは矛盾する面もありますが、はじめは少し感情的でもお互い冷静になったり、
現場と管理の両方で働いている人がいたりして、それなりの意見調整ができたりするのでしょうか。
いずれにしても、『逆の立場では?』という考えと、『どこかで決断する』という事がないと話は進まないことだと思います。
この場合も最終的には施設と家族の話し合いを前提に進めることを文書で明確にした上で受け入れを決める、ということになったそうです。 (2003.04.11)
- 福島県では「身体拘束しない」宣言をしています。
先日「痴呆利用者への介護」に参加した人の話を聞くことができました。
その中で身体拘束しないためには
@痴呆が進まないよう対策を講ずる
A痴呆利用者に対して環境整備をする。
Bトップの思い切った決断が大切である。
という3つぐらいのポイントがあったようです。
このうちBの決断とは、例えば@Aの具体的な施策を講じるために今までとは違うやり方にした場合、
『もし何かあれば責任は私が取る』というような大胆な決断がないと実効性がないということでしょう。
AとBは事前の進行防止対策といえるでしょう。
中身を読むと当然と思われることばかり書いてあった印象を受けましたが、それを具体的にする事が大切で結局その施設に即した方法に掘り下げていかないといけないのだと思います。
やはり痴呆には根気強くきめ細かな手段が不可欠であると感じました。
老人の約1割の人が痴呆を持っているという現状ですから、これから思うことがあれば随時書き加えていきたいと思います。(2003.05.19)
- 痴呆と言えば痴呆を持っている人にはじっとついていなければならないことがあります。
そんな時じっと老人の話を聞いているとふとある事に気づきました。
それは「これは私が夢を見ているときに似ているなぁ」という事でした。
老人は一方的にしゃべるのですがそれが私の夢も誰にも邪魔されず進んでいくのと同じなのです。
そしてストーリーはあまり意味がない筋書きで進んでいきます。
ある時急に情景が変わるときもあります。
他人が見ればまったく関係のないことを夢の中で必死で行動しているのです。
でもその中に出てくる情景は私にとって見覚えのあるところなのです。
ですからいろんな点で夢と痴呆は共通点があると思いました。
よく痴呆を持っている人は自分の世界に入る、と言いますが深夜誰にも声を掛けられることなく空間をさまようのと同じですね。
違いは夢はいつか終わりますが痴呆はずっと続くということです。
痴呆を持っている人の徘徊を止めるのに、わたしはいつも苦労をします。
経験不足、理解不足ということもあるのでしょうが夢が終わるように自然に徘徊を止める方法はないのでしょうか。
そんな考えは安易な考えですね。
徘徊を止めるのではなくタイミングよく方向をずらしてやることが良い方法なのでしょう。
徘徊をうまく回避できたご経験をお持ちの方がおいででしたら、是非教えてください。(2003.05.20)
-
老人はよく「死にたい」ということを口にします。
深刻に言う場合もあれば、どちらかといえば普通の会話の中でややあきらめたような口調でポッと出てくることが多いと思います。
そんな時私はどう言葉を返して良いのか戸惑うことがしょっちゅうです。
「ああ、そうがい。」「なんでだい?」 時には「そう思ってもながなが死なんにんだよ」なんて言ってしまう事もありましたし
「生きてて欲しいと思ってる人が必ずどっかに居るんでしょう」などと悟ったようなことを言うときもあります。
そのときの状況にもよりますが多かれ少なかれ老人が消極的な気持ちになっていることは確かだと思います。
どんな気持ちで受け止めてあげるのがいいんでしょう?
よく言われることですがまず出てきた言葉を受け止めてあげる事でしょうか。傾聴が大切だといいます。
どの言葉が一番いいとは決められないのでしょうが聞く耳を持って接してあげれば少しは救いになるのでしょうか?
何を言ったからといってすぐに解決するというわけではありませんが、一言一言が本人の気持ちを表す鏡のようでもあり、
聞き流すようでもいけないと思います。
とはいえ、日常茶飯事にあることでその場限りの対応で終わったり、次の仕事に手が移ってしまったりで、
「これでいいのか?」と自問自答するときがほとんどです。
いかなる時もすべての手を休めて老人と対話する、というところまでするのは現実的ではないと思いますが、
せめて一言二言言葉が交わせたらと思いますし、時にはそばに座って話を聞いてあげられたらと思います。
日ごろからの自分の気持ちの持ちようで対応が違うでしょうし大げさに言えば私自身の人生観が接する態度にも出てくるのでしょう。
自然に、相手の気持ちをやわらげるように聞いてあげるにはどんなことに心がければいいのでしょうか?(2003.05.24)
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介護の仕事って、ほんとに細かいことが多いですね。
利用者のちょっとした行動や言った言葉が介護する側の情報となっていく場合があるのです。
ひとつの変化そのこと自体が大きな意味を持つものでなくても、それが何度か繰り返されたり同じような出来事を他の介護員が経験したりすると、
その行動が今後の介護の課題となっていくケースが多いです。
毎日がその積み重ねで、日頃からの目配り、気配りが出来ないとその変化に気付くことが出来ません。
また、介護員同士のコミュニケーションも大事でお互いの気持ちがガラス張りになっていないとスムーズな仕事運びが出来ないと感じています。
毎日顔を合わせているといつもニコニコというわけにもいかず、引いたり譲ったり細く長くつきあうことが肝心ですね。
他の職場も同様のようで”他人の家はよく見える”ものなのでしょうか。(2003.09.28)
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よく、介護の本に「本人の確認」と載っているのですが、本人が痴呆の場合はどうなるのでしょう。
そこからのことはあまり本に書いていないです。ということはいろいろなケースがあるということなのでしょうか。
家族に聞く、ケアマネに依頼する、チームで討議する、等。
私の経験では家族に聞くというのがやはり多いです。
物事を決定するというのは難しいし神経を使うことです。
先日、利用者の靴に勝手に名前を書いて傷心反省しました。
一見簡単なことでもその影響を考えないと大変な迷惑をかけてしまうので、その時は一呼吸おいて考えなければいけないと思いました。
また、その判断も難しいと思います。
別に対したことない内容なのか、それともよく考えなくてはならないことなのか、それが出来るまで勉強し頑張ろうと思います。(2003.09.28)
☆ 在宅では・・・・
- しみいったお年寄りの言葉
この前、100歳を超えるおばあちゃんと会話していました。
おばあちゃんは何度も言葉を繰り返します。
『あのね、人のことは褒めなくちゃいけないよ。褒めて怒る人はいないから。
けなしたらダメ。だから私ゃ〜人に憎まれたことナイ!』と
私にとって心に刻まれる、そしてずっと大切にしなければいけない言葉でした。(2004.10.24)
- 言葉の底の意識 〜隠せない無関心さ〜
先日何気なくお年寄りたちが作った折り紙の作品を眺めていたら、ふとケアマネージャーが通りかかりました。
一言二言言葉を交わしてから私がポツンと言いました。
「いや〜、私ってこういう作品にはあんまり興味を持つ気にはなれないんですよねぇ〜」と。
そして、ケアマネが次に言いました。
「いや、こういうのを見ているとその人の性格とか好みが分かるのよ。」
「だからいろいろ見てあげなくっちゃダメよ。」
わたしはそれを聞いたとき、ガーンと頭を打たれたような思いがしました。
自分の好き嫌いで仕事をしていたことを反省し、介護員としての自覚がなかったことに改めて気づかされました。
ケアマネさん、ありがとうございました。(2004.05.09)
- 結局 やる気がないんじゃない?
先日、デイサービスの職員とケアマネージャーの間でこんな会話がありました。
デイサービスを利用する人数がなかなか増えない、という話から始まって
職員:「ここには来たくないって言うお年寄りがいるとだめなんですよねェ」
ケアマネ:「それは『ここには』でなく、なんで来たくないのか、なんだよね。」
職員:「ここには来てもつまらないからですよね?」
ケアマネ:「う〜ン、結局孤独になっちゃうからなんだよね。」
「何をやったとかじゃなくて、居ても詰まんないってなると
結局来たくないっていうことになっちゃうのよね。」
職員:「レクリエーションで何をやったとか、そういうことじゃないんですか?」
ケアマネ:「っていうより、お友達が居る人はいいけど、そうでない人は自分だけ浮いちゃうから居場所がないのよ。」
職員:「あ〜、じゃやっぱり話を聞いてあげたりすることが必要なんですねェ?でもなかなか時間がねェ〜?」
ケアマネ:「いや、時間じゃないの。その人と目と目を合わせるだけでもいいし、
結局そういう気持ちであることを分かってあげることが大切なの。」
こんな会話を聞いて、あ、自分もそうだった、といたく心に刻み込んだ次第です。(2004.04.25)
- ある人がこんな事を言っていました。・・・・
「介護の仕事にはまだ抜けている部分があるのでぼくは将来そっちの仕事をしたい」と。
どんな事かというと、介護保険で出来ることと、介護保険外の細々した用事をトータルでお世話する仕事です。
具体的に言うと、通院のための付き添いは介護保険ですが、そのあと薬を取りに行くのは実費でやってあげよう、と言うものです。
体がスイスイ動かせないお年寄りにとって、あれが出来たら、これが出来たらと言う、いわばかゆいところに手を伸ばしたいというニーズはたくさんあるはずだというのです。
私も確かにそうだと思います。
今、FAXで買い物を請け負ったりいろんな方策がなされています。
私も勉強不足であまり知らないのですが、在宅福祉を考える意味でも考えたり、関心を持つことはいいことだと思っています。(2003.04.26)
-
拒否する老人
これもよく見られる光景です。
「風呂に行かない」「食べたくない」「動きたくない」などいろいろあります。
施設でも、家で介護するときでも、あるいはデイサービスの場面などでも見られます。
拒否の内容もさまざまで、こちらが「なぜ?」と思うような不可解なこともあります。
介護する側からすると、良かれと思って誘導するのですが・・・その中には介護保険のプランに入っているから、家族からそう言われているから、
などの理由が入っていることも否めませんが。
だからほんとうにダメな場合を除いて多少の無理はあってもそこに連れてさえ行けば・・・・というやり方をしてしまうのです。
そんな時、自分で「ほんとに介護しているのかな?」と感じるのです。
どこまではどうする、と線が引けるわけではありませんが難しいことだと思います。
たいてい誰もが「どうして?」と聞くのですが、ベテランの人からは大概「あの人は○○だから」という言葉が返ってきて、いつの間にか自分も
それでいいんだ、と思ってしまうことが怖いです。
拒否する気持ちには何かしらの理由があってのことだと思います。それを見極めたうえで対応するのがベスト(ベターかな?)なのでしょうか?
何かいい事例があったらまた考え直してみたいと思います。(2003.05.29)
-
きょうの話は多くの老人を代表する気持ちのようでした。
老人(女性)はこう言いました。
「俺はほんとの所は泊まりたくないんだ(ショートステイのこと)。だけど嫁に世話になっているからそんなこと絶対言えない」と。
泊まりたくない理由は夜中に奇妙な行動をする人がいてびっくりしたことがあったからだそうです。
「ここへ来ると甘えられるけど(デイサービスのこと)、家ではやっぱり気を遣う。ここでは言いたいことを言っていられるから好きだ。」
「泊まりはいやだけど面倒見てもらってるから行きたくないなんて言えない。」
このような、家族に迷惑をかけたくないという気持ちは多くの老人に見られます。
自分も年老いた親を持つ身で、やはりそう思うのかなぁ、と思ってしまいました。
今度どうして欲しいのか両親に聞いてみようかな、と思いました。(2003.10.01)
☆ その他
- ある時、私が勤めていた事業所を去ることになりました。
利用者から「菅藤さんは、一生懸命やってくっちゃよ。」と言われ、それを聞いて私は心からうれしく思いました。
でも少し時間がたってある思いが出始めました。
それは、私が何もかにもやってあげたことに対して親切だった、という意味ではないだろうか?という疑問でした。
確かに呼ばれれば面倒くさがらずに対応し頼まれたことをやってあげました。
しかし、やり過ぎたのではないか、と思ったのです。
対応するところまではいいのですが、無差別に手を出しすぎたのではなかったかという反省です。
もしその利用者が、『問いかけに対して自分の心をくんでもらった』という私の姿勢そのものを感じてくれていたなら、そのことは本当にうれしいのですが、
そうでなく、過保護的な扱いに対する満足だとすれば、それは私の自己満足に過ぎないと思うのです。
真に感謝される介護、真に必要な介護となんでも手を出すこととは違います。
それは日常茶飯事、どんな事にでも言える事で、最近、入浴時の着脱介助でも特に感じています。
未熟な私はつい、出来ないでいる利用者を見ると手を出してしまいます。
そこのところの見極めや、何よりも本人を知る、ということが大事だと思っています。(2003.04.14)