恋し、春待ち人
第二話 役立たずな巫女 弐




「どうしてあなたは、時間も守れないのです?」
 額に青筋をたてた年長の巫女が、怒りと呆れを混ぜこんではきすてた。
「すみません……」
 紅葉はちぢこまって、謝るしかない。
 年若い巫女たちが、くすくすと笑いながら、紅葉のうしろをとおりすぎていく。
「この前の御饌(みけ)だって、あなたが遅れたせいで、お供えできないところだったのですよ」
 朝夕と、かならず御膳を諸神に奉納する。そのための野菜の注文を頼まれていたのに、すっかり忘れていたのだ。あわてて八百屋に駆けつけて、無理をいってもらったからなんとか無事にことがすんだ。
 だが、巫女も宿司もカンカンに怒った。神につかえる巫女として、自覚がたりない。何年ここに住んでいるんだ。と、あやうく御社からだされるところだった。
「すみません……」
「その言葉も、もう聞きあきました。そろそろ自覚をもって、行動なさい。……まったく、どうしてあなたのような人が、〈宿禰(すくね)選択の儀〉に選ばれるのでしょうね」
〈宿禰選択の儀〉をおこなう前に、表の大巫女が、大勢いる巫女の中から、何人か候補を選ぶ。紅葉が遅刻したこの集会で、儀式の候補が十人選ばれた。
 大巫女が口上する、優秀な巫女たちの名のあとにあがった、役立たずな巫女の名に、居合わせた人々のあいだに衝撃がはしった。裏の大巫女が、静まるよう声をあげなければ、いまごろまだ集会がつづいていただろう。
 皆が信じられないように、紅葉自身も信じられない気持ちだった。だが、〈宿禰選択の儀〉に参加することが決まっても、宿禰になるとはかぎらない。皆もそう思って騒ぎをおさめているはずだ。
「大巫女様たちは、一体何を考えてらっしゃるんだか」
 巫女はぼやいて、紅葉に背をむけた。
 紅葉は肩を落として、その背を見送った。


 怒られるか、あきられるかが、紅葉の日常だった。
「で、遅刻した理由はなんだったんだい?」
 庭仕事にもどった紅葉に、やってきた裏の大巫女――婆がたずねた。
「……忘れてしまったんです」
 渡り廊下から紅葉を見下ろす婆と目を合わせられずに、紅葉はうつむいて答えた。
 婆も巫女の世話役としての長を務めているからには、大切な集会に遅刻した巫女を、諌める必要があるのだろう。
 腹にためた息を、脱力して吐ききって、婆は首をふった。
「今度からはその首に、今日の予定をぶら下げておこうかね」
 そうしたところで効果はないと、わかっていて婆はいう。
「庭仕事も終わってないようだね」
「はい……、すみません」
 顔をあげようとしない紅葉は、どんどん小さくなっているようだった。足元でぽちが、のんきにうしろ足で、首をかいている。
「それが終わったら、使いにでてほしいんだよ。暮れる前にいっておいで」
「はい」
 婆の足音が聞こえなくなるまで、紅葉は顔をあげなかった。ぽちが紅葉の顔を見上げた。
 紅葉は竹箒をにぎりなおして、庭仕事にとりかかった。
 婆の使いにでるころには、日がだいぶかたむいていた。
 いそがなければ、帰りには暗くなってしまう。そう思うものの、あせればあせるほど、失敗してしまうことを、紅葉自身もわかっていたから、いつもどおりに御社をでた。
 人々の暮らす里から、すこしはなれた小高い山に、鎮守の杜に埋もれるように大社は建っている。
 大勢の巫女と宿司が住まい、人々が参拝にくる外宮の奥に、神の依り代である表の大巫女が住まう内宮がある。巫女や宿司でも、高い役職をもったものや、行事のときにしか、内宮にはいることはできない。
 御社からでてしまえば、内宮は拝殿の陰になってまったくみえなかった。
 槍のようにそびえる杉の木立をくだって、紅葉はぽちと一緒に里を目指す。
 紅葉は巫女装束をぬぎ、里娘のような格好をしていた。里で祈祷や祓いをお願いされて、うまくこなせないことが多いからだ。
 御社の張りつめた空気とはちがう、のびのびとした空気に、紅葉はうんと伸びをした。
「ぽち、今度、葵様に練り菓子のお返しをしなくちゃね」
 狛犬は黙って、紅葉の横を歩く。
「何がいいかな? 葵様は欲のない人だから、何がいいのかわからない」
 杉のむこうが明るくなってきた。里のにぎわいが、遠く聞こえてくると、紅葉の胸もどきどきと高まる。
 あちこちから、ひっきりなしに声があがる里のにぎやかさが、紅葉は好きだ。里にはたくさんの品物がある。御社にはない、いい香りのする花の髪飾りや、鈴。色あざやかな着物に、あまい菓子。見ているだけで心がうきたってしまう。
 今日はどんな市が立っているだろう。
 薬草のはいった包みを抱えて、最後の石段をぽん、と飛びおりたときだった。
 ガサ、と下草が鋭く鳴った。
 えっ、と音のしたほうを見ると、黒い影が畑に飛びだし、ぱっと畑の菜の花が散った。
 ぽちが、うなり声をあげた。
 黄色の花がゆれる。菜の花の匂いが濃くにおった。まっすぐに、紅葉にむかって花が道をつくる。
「ぽち!」
 恐怖に、身体が硬直して動かなかった。祈るように相棒の名を呼ぶ。
 ざ、と花のあいだから飛びでたそれは、紅葉の喉をねらって高く跳ねた。
 野生の狛犬!
 赤茶けた、犬よりもふたまわりは大きな巨体。鋭い牙が大口をあけて紅葉に飛びかかる。
 ぽちが跳ねる。
 ど、と胴体に頭突きをくらって、野生の狛犬は横に飛ばされた。のんびりとした空気は、あっというまに殺気に満ちた。
 菜の花の下にもぐりこんだ狛犬は、じっとこちらの様子をうかがっている。ぽちは身を低くしながら、狛犬に睨みをきかせていた。
 紅葉は、懐から護符をとりだした。自分で書き作ったものだから、利くかどうかはわからないが、もっているとすこし安心する。
 ぽちがわずかに前足を動かした。途端に狛犬が姿をあらわして、ぽちの首をねらって飛びかかる。
 紅葉はあわてて飛びのいて、ぽちが狛犬の攻撃をかわすところを、はらはらしながら見守ることしかできない。
 二匹の狛犬は道の中央で、円をえがきながら跳ね、互いを牽制しあった。鋭い牙をむきだしにして、かみついては身をひいて、うなる。
 隙を見て、護符を張ることはできないか、紅葉はじっとその機会をうかがった。
 だが戦いなれている野生の狛犬に、紅葉のように戦いなれていないものが、隙を見つけることなど難しい。
 ぽちは野生の狛犬と対等にやりあっているが、それがいつまでもつかわからなかった。
 狛犬と紅葉が一直線にむきあったとき、一瞬、目があった。
 瞬間、狛犬はぽちの攻撃を横にかわし、紅葉にむかって飛びかかってきた。
 突然のことに、紅葉は護符をもっていることも忘れて、身をすくめた。やってくるはずの痛みに、身体をこわばらせる。
 が、いつまでたってもそのときはやってこなかった。
 もしかして、痛みを感じないまま、死んでしまった?
 そう思いながら、おそるおそる目をあけて、紅葉は息をのんだ。
 狛犬が足元で死んでいた。
 胸に矢がささっている。
 どうなってるの?
 目を瞬かせて、呆然とあたりをみまわす。
 と、ぽちが飛んできた矢をかわして、横に飛んだ。
 その先に、男がいた。菜の花に腰までうもれている。キリリ、と矢がぽちをねらってひきしぼられる。
 紅葉はとっさにぽちに飛びついた。
 ぴゅ、と耳元で風が鳴った。すぐ側に矢が突きささる。
 言葉を失い青ざめながら、紅葉はぽちをおおうように、ぎゅ、と抱きしめた。
「娘、死にたいのか?」
 紅葉はぞっとしながら、ぽちをつよく抱きよせた。腹の下で、ぽちが短くうなった。
「ぽちを殺さないで」
「ぽち? 犬じゃないだろ」
 男の声は、清水のように冷たかった。だが紅葉が動かず、またぽちも害をくわえることがないとわかると、やれやれと息を吐いた。
「すまなかった」
 予想もしなかった言葉におどろいて、紅葉は顔をあげた。長身の男はすぐ側で紅葉を見下ろしている。太陽の陰になって、顔がはっきりわからなかった。
 男が死んでしまった狛犬を見るために、顔を横にかたむけたとき、ようやくまだ年若い青年だということに気がついた。
「おれが村の外れから追ってきたんだ」
「……あなたは?」
「おれは森村の浅葱。金角の鹿隊の一員だ。野生の狛犬がでると聞いて探していた。鎮守の杜にかえすつもりが、興奮させてしまったらしい」
 金角の鹿隊といえば、宮里を守る自治組織のひとつだ。里の中にはいくつもの村がある。その中で大社のある大きな村を中小里(なかのこさと)という。金角の鹿隊は中小里を守る組織だった。
 死んだ狛犬にささった矢は、心臓をつらぬいているのだろう。苦しむことなく死んでしまった。
 浅葱の矢の腕前はそうとうなものだ。
 それだけに、紅葉は身をふるわせた。もしもこの矢が、ぽちの心臓にささっていたら。
 ぽちの首に顔をうずめる。
 よかった。無事で、本当によかった。
「あんた、巫女か」
 里娘の格好をしているのに、何故巫女だと見抜かれたのだろうとおどろけば、浅葱は紅葉がにぎりしめた護符を見ていた。くしゃくしゃになったそれを胸にしまいながら、紅葉はうなずいた。
「安心してくれ、もうあんたの狛犬には手をださないから」
 ぽちは紅葉を見あげて、はっはっ、と舌をだして息をしてみせた。
「ぽち……、どこにも怪我はない?」
 耳の下をなでてやると、応えるようにしっぽをぱたぱたとふる。
「ありがとう、ぽち。怖かったね」
「これはあんたのか?」
 包みをさしだされて、紅葉はうなずいた。お礼を口にしようとして、青年の背景が赤く染まっていることに気づいた。
「いけない!」
 太陽はまるくはっきりと、その姿を真っ赤に燃やしてうかびあがっている。
「お詫びに、御社まで送っていく」
「これから、使いにでるところなんです」
 浅葱はこれから? とばかりに目をまるめた。
「助けてくださって、ありがとうございました」
 頭を下げて、紅葉は里にむかって走った。