恋し、春待ち人
第三話 春待ち人 壱




 ドン ドドン
 ドン ドドン
 太鼓の音が、厚い天幕の中まで、よく聞こえていた。
 六畳ほどのひろさに、選ばれた十人の巫女が、禊を済ませて座りならんでいた。
 紅葉は入り口から遠い隅にいた。中央の位置で、精神を集中させている珠乃の姿をじっと見つめる。
 珠乃は優秀な巫女だ。やさしくて人当たりがいい。葵のように、次期表の大巫女を期待されている。
 きっと宿禰となるのも珠乃なのだ。
 天幕の隅でたかれる香が、もくもくとたちこめる。あまいような香ばしいような匂いに、頭の芯がしびれていく。
 〈宿禰選択の儀〉は、密閉された空間の中にいる巫女たちを、香の作用で感覚をにぶらせて、神をおろす儀式だ。
 婆の話では、五年前にも〈星流れ〉があったのだという。〈宿禰選択の儀〉によって選ばれ、〈魂もらい〉にでた巫女は、霊山に受け入れられずに命を終えた。
 彼女だけではない、戦がつづく二〇年余り、〈星流れ〉のあるたびに〈宿禰選択の儀〉はとりおこなわれ、何人もの巫女が宿禰となって〈魂もらい〉にでた。
 だが、だれひとりとして成功するものはおらず、世は荒れる一方だ。
 人々は期待しているだろう。今度こそ〈魂もらい〉が成功し、平和になることを願っている。
 意識が朦朧とする中で、紅葉は膝を抱えた。太鼓の音が、遠く頭の底で響く。
――紅葉。
 婆の声だ。
――はじめて出会った時、おまえは紅色の着物を着ていたんだよ。帯には榊の葉がさしこまれていてね。それで紅葉と名づけたんだ。きっと、おまえの両親もそう名づけたかったはずだと思ってね。
 いつだったか、ふとしたときに、婆が聞かせてくれた話だ。
――子を愛さない親はいないよ。おまえの両親はやむなくおまえを手放したが、かわりにぽちをおいていったんだ。ぽちはおまえの両親の代わりに、おまえを見ているんだよ。
 ぽち。
 いつも側にいてくれるぽちは、紅葉をどう思っているだろう。友達のいない紅葉は、よくぽちと話ができたらいいのにと思う。けれど本当に話ができたら、そのときぽちは、他の人たちのように、紅葉に呆れた言葉を投げつけるのだろうか。
――ごめんなさい。
 突然、聞き覚えのない声が聞こえた。包みこむようなあたたかな声は、涙にぬれていた。母の声だ、と何故だかすぐにわかった。
――ごめんなさいね、あなたは何も悪くないのよ。
(謝らないで)
 母が謝れば謝るほど、紅葉は自分がみじめに思えた。
(わたしが生まれてこなかったら、あなたはそんなに悲しまなかったんじゃないの?)
――何故そう思う?
 また声が変わった。深みのある声は、男のものに思えたが、断言できるほどではなかった。
――我々が選び産み落とした御霊よ。おまえは自ら我らのもとへ帰りたいと願うのか。
(ちがう。死にたいわけじゃない。謝るくらいなら側にいてほしかったとか、わたしを産んだことを後悔しているんじゃないかとか、そういうことを恨んでいるわけでもない。ただ母に謝られると、わたしの存在はなんだろうって考えてしまう。だれの役にも立てないのに、ここにいることさえ否定されたら、わたしはどうしたらいいのか、わからないから)
――ではおまえは人の役に立ちたいのか。
(だれかの役に立てるような人になりたかったなんて、大きなことはいわない。でもわたしはここにいる。望んで生まれたわけではなくても、役に立たなくても、わたしはここにいるから)
 いつのまにか、香のしびれがなくなっていた。眠るように身体をまるめて、紅葉は夢うつつにぼんやりとしていた。
 心地よいまどろみだった。
――おまえの望むものは何だ。
(望み?)
 ぼんやりとした頭の中で、紅葉はぐるぐると考えをめぐらせた。
(はやく、春がきてほしい。あたたかくなれば、みんな笑顔になるから)
――それがおまえの本当に望むことか。
(できるなら、みんなと一緒に笑いたい。だれかがわたしの名前を呼んでくれて、だれかがとなりにいてくれたら、いい)
 それがわたしの望み。



 拝殿で祈りの舞を捧げていた表の大巫女が、ふわりと動きをとめた。髪に、手足首についた鈴がしゃらん、と音をたてて静まる。
 拝殿にむかうように建てられた天幕。そのあいだには、朱色の布がわたしてあり、わずかにはなれた位置に、宿司がずらりと整列していた。
 天幕のうしろには太鼓の列。そのむこうには、遠く人々が集まりざわついている。朱色の柵越しに、宿禰がでてくるのを今か今かと待っている。
 ゆうるりと、鈴の音さえたてずに、大巫女が階段を下りた。月の光を浴びた雪のように白い肌。腰までのびたまっすぐな黒髪に乱れひとつない。日毎神をおろす身体は常にうつくしく、清浄な気に満ちている。
 葵は、大巫女がとおりすぎていくのを目で追った。
 知らず、ごくりと唾をのむ。
 だれが宿禰となるのだろうか。
 大宿司が太鼓役にむかって打つのをやめさせると、あたりはしん、と静まりかえった。風のそよぐ音も、鳥の鳴く声も聞こえない。ざわついていた見物人もいよいよだと、息をのんで見守っている。
 空気がはりつき、表の大巫女以外、動くものはだれもいなかった。
 大巫女が天幕の入り口をあけた。ふわりと煙が立ちのぼり、香の匂いが風にのって葵の鼻をくすぐった。
 大巫女が入り口の脇にひざまずき、頭をたれた。それを見た大宿司がひざをついた。宿司たちが同様に頭をたれ、葵もおなじように手をついた。
 天幕から"何か"が出てきた。
 す、とあたりが白くかがやく。曇り空の晴れ間のように。
 目でその姿をとらえなくても、空気が大神の存在感をありありと語っていた。
 凍りつくような緊張感。
 神の一挙一動に空気が振動する。
 地面の小石が音をたてずにふるえ、そのせいで地面についた手が、しびれた感覚を伝えてくる。
 威圧感と、どこからともなくこみあげてくる畏怖に、葵は身体をこわばらせて、額をつよく地につけた。
『頭を上げよ、宮里の大巫女よ』
 声は男のもののようでありながら、少女のそれとも似ていた。
『我は天座大神。この者を霊山へと送り、祈願せよ。成就せしとき常世は和み、できなければ荒れるだろう』
 表の大巫女がちいさく答えた。
『嘆く世の終焉来ぬる春待ち人 汝我らの待ち人なるか』
 びりびりと、石のふるえがひどくなってきた。肌に感じる空気が、凍てついた冬の朝を思わせる。
 痛みさえ感じはじめたそのとき、すっと世界が暗くなった。
 おどろいて顔をあげる。いけないことだと思ったが、まわりの宿司たちも顔をあげていた。
 世界が暗くなったのではなかった。さしこんだ光が消えたのだ。
 だれが宿禰となったのか。その姿を探して、葵は目をまるめた。
 表の大巫女に抱かれて、紅葉が倒れていた。
 宿司のあいだに、おどろきと疑問の声があがる。
 大宿司が厳しい表情で立ちあがった。葵を見る。呼ばれているのだと察して、葵は大宿司のもとへむかった。
 紅葉は真っ白な顔をしていた。
 まさか、死んでいるのではあるまいか。
「葵、彼女を裏の大巫女様のところへ運びなさい」
「かしこまりました」
 冷たかったら――すこしの恐怖を覚えながら手をのばす。
 よくみれば、胸がかすかに上下していた。わかった途端、安心して葵は紅葉をだきあげた。
 香のつよい匂いがする。呼吸をしているものの、紅葉の身体は、寒空の下にいたかのように冷たかった。
 葵は慎重に紅葉を運んだ。裏の大巫女は、巫女たちが住まう宿舎で、宿禰をまっている。
 これから、紅葉は忙しくなるだろう。
 〈魂もらい〉はただ霊山へむかうだけの旅ではない。道中の神宿に祈りを捧げ、平和の使者として里や村をめぐり、平和を望む心の種をまかなければならない。
 紅葉を見下ろし、葵はわずかに足をゆるめた。
 ちいさな鼻に、唇。手も身の丈も、そのすべてが小振りにできた紅葉という存在。人と接することを苦手とし、己の殻に閉じこもってしまった少女。
 彼女に〈魂もらい〉は難しいのではないか。
 足が止まる。
 だが、紅葉の身には、大神がおりてしまった。
 婆はどんな顔をして、紅葉を迎えるのだろうか。
 気が重くなると、紅葉も重く感じられた。
 もう、紅葉に会えないかもしれない。ぽちと一緒に縁側でのんびりと過ごすこともなくなり、練り菓子をよろこんで食べてくれる姿を見ることもなくなるのだろう。
「紅葉……」
 名を、呼ぶことさえも――。
 首をふり、葵は気持ちをきりかえた。
 裏の大巫女の間を前に、膝をつく。
「婆様、宿禰様を連れてまいりました」
「遅かったじゃないか、おはいり」
「失礼いたします」
 襖をあける。婆は縁側の襖を全開にして、葵にまるい背をむけていた。
「梅が咲いたな」
 何故、そのような話をふるのか、葵にはわからなかった。
 背後で葵がひざまずき、紅葉を寝かせても、婆はふりかえらなかった。
「春が来る」
 瞬間、葵は気がついた。裏の大巫女はだれが宿禰となったのか、すでにわかっているのだ。
 婆はふりむいた。泣いているのではと思ったが、そんなことはなかった。ただその表情は、暗かった。
 寝かされた紅葉の白い顔を見下ろし、婆は長い息を吐いた。それとおなじくらい長い間のあと、婆はいった。
「残す言葉はないか?」
 葵は婆の目を見つめた。
「……何を、残せとおっしゃるのですか?」
「この子は哀れな子だ。おなじ年頃の娘たちと交われず、相手を思い交わることを自らやめた。何も望まぬ。ただ、そこに在るだけだ」
 ふたりして、紅葉を見つめた。
「私が残せば、心が晴れるのは私だけです。何も、残す力などありません」
 婆は黙った。肯定とも否定ともつかぬ沈黙だったが、どちらの答えがだされようとも、葵にはこれ以上何もいえなかった。紅葉に言葉をかけることなど、できなかった。
「すべては、大神様がお決めになること」
 それは、大巫女としての言葉ではなく、ひとりの女としての言葉に聞こえた。だが彼女はすぐに大巫女にもどった。
「葵、さがりなさい。ここからはこちらの仕事だ」
 身を引いて、葵は一礼した。
 そしてもう一度、血の気のない紅葉を見た。
 もうこれまでのように会うことも、言葉を交わすこともないだろう。それだけに、葵はつよく祈った。
――元気で。どうか、紅葉にも人並みの幸福がおとずれますように。