恋し、春待ち人
第三話 春待ち人 弐




 三日、紅葉は寝ていたという。そんな感覚はなく、ただ一晩眠っただけのように感じていた。
 紅葉は目を覚ましたとき、自分の褥ではない場所に寝ていると、すぐに気がついた。
 見慣れぬ部屋の襖は、見事な桜が描かれている。婆と共に寝起きした簡素な部屋にはなかった、飾り棚。天井には寄木細工。
 大神に選ばれてしまったのだと、気がつかぬほど紅葉はぬけてはいない。
 床板を踏む音が聞こえる。すぐに障子のむこうに人影が映った。
「婆様」
「おや、お目覚めかい」
 障子のひらく前から声をかけても、婆はおどろくことなくはいってきた。
「婆様、もしかしてここは内宮ですか?」
「ああそうだ。ひとつえらくなったんだよ」
 紅葉は唇をむすんだ。婆は黙ってその横顔を見つめた。
「お腹はすいてないかい?」
「……すいています」
 何かがいつもとちがう。気がついて、紅葉はあたりを見まわした。
「ぽちは?」
「そういえば、おまえさんが寝ているあいだ、姿を見かけておらん」
 紅葉は立ちあがってぽちを呼んだ。だが、二歩、三歩も歩かぬうちに足がもつれて、障子戸にしがみつく。
「紅葉」
 婆の声を無視して、紅葉は障子をあけた。
「ぽち!」
 庭にむかって声をあげると、すぐさまぽちの足音が聞こえてきた。いつもは音などたてないのに、こういうときはすぐにやってくるよ、というように足音をたてる。
 建物の陰から、ぽちが飛びだした。かるい跳躍で紅葉の手の届くところまでやってくる。
「ぽち……」
 首にしがみついて身をよせると、いつものぽちの匂いがして、紅葉はほっと息を吐いた。
 しばらくじっとそうしていたが、婆が何もいわないので紅葉は顔をあげた。目があう。
「婆様、本当にわたしが宿禰でいいのでしょうか?」
「わしにはなんともいえんよ。ただ、大神様はお前を選ばれたのだ」
 どうしてわたしを?
 聞きたかったが、聞いたところで婆を困らせるだけだと思い、口をつぐむ。
「これから〈魂もらい〉に同行する守別の選別がはじまる。それが終わったら出発することになるからね。旅支度をしておくように」
「荷物は全部、婆様のお部屋に残っています」
「馬鹿だね、この子は。荷物や食料なんかは、別の巫女が用意するよ。あんたは、毎日欠かさず禊をして、道中の安全を祈願し、天座大神様に受け入れられるように、清廉潔白でいなければならないんだよ」
 そうか、と紅葉はうなずく。
 紅葉は居住まいをなおし、婆にむきあった。
「婆様、これまでわたしを育ててくださって、ありがとうございました。宿禰と選ばれたからには、期待に応えられるようにがんばってきます」
 両手をそろえ、頭を下げる。
「その挨拶は、まだ早くないかい? だいたいがんばってくる必要なんざ、ないんだよ」
 紅葉がきょとん、とすると婆はいった。
「いつものおまえらしくしていればいいんだ。御神はそんなおまえを見て、おまえを選んだんだから。肩肘張るな」
 口の端をあげて、婆は笑ってみせる。そう、力んだところで、失敗するだけなのは目に見えているだろう? といわんばかりに。婆は紅葉の性格をよくわかっている。
 紅葉は心がなごんで、肩の力がぬけた。まったくもって婆のいうとおりだ。
「さあ、朝餉の用意をしようかね。おまえさんはここで待ってな」
 婆はまるで風邪をひいて寝込んだときのようにやさしかった。日常がすこし変わってしまったけれど、婆は変わらないのだと、紅葉は安心した。
 部屋をでたあと、婆がきつく目を閉じ、深く息を吐きだしたことも、外宮で〈宿禰選択の儀〉のやりなおしの声があがっていることも、知らぬまま。