恋し、春待ち人
第四話 東風吹かば 壱




 大宿司が神妙な顔つきでいった。
「婆様、皆の者の気持ちもおくみください」
 ここのところ毎日、大宿司はおなじことをいいにくる。
「表の大巫女様が決められたことに、我々が口出しすることはできぬまい。そのことは何度といわずとも、おまえならわかっていることだろう?」
「しかし、このままでは世は救われませぬ。里の者たちも、紅葉が宿禰だと聞いて嘆き悲しんでおるのですぞ。せっかくの〈魂もらい〉を、希望も託せぬものにいかせるわけにはまいりませぬ。宮里の大社としての威厳にも関わることですぞ!」
 婆は息を吐いた。
「さりとて、霊山におわす天座大神様が選ばれたのだ。我らのような人間が、勝手に宿禰を選べば、それこそ世が荒れる」
「天座大神様は血迷うたのでございます。神とて誤りはございましょう。ですから、これまでの〈魂もらい〉も失敗に終わったのです」
「大神様を愚弄するな!」
 一喝すると、ひっ、と大宿司が身をすくめた。
「だれがどのようにいおうとも、天座大神様は紅葉をお選びになったのだ。紅葉はまだ未熟者かもしれぬ。だが、我々の知らぬ能力をもっているかもしれぬであろう。我々の見えるものは、ほんのわずかだ。身の程をわきまえよ! 大宿司が聞いて恥ずかしいわ!」
 下がれ! 命じると、大宿司はそそくさと去っていった。
 やれやれ、と息を吐く。内宮のほうへ目をやって、婆はどうしようもない気持ちをもてあました。
 大宿司にはああいったが、彼も巫女や宿司、それに里人の気持ちを代弁しているだけなのだ。大巫女と、人々のあいだで胃を痛めているにちがいない。
 正直なところ、迷っているのは自分もおなじだった。
 紅葉には大役すぎる。霊山で、大神に受け入れられずに命を終えるくらいならば、御社からだして、多少の危険はありつつも、里人と共に生きたほうが、しあわせなのではないか。そう考えないこともない。
 だが、代わりのものを霊山に送れば、大神はかならず激怒する。戦だけではあきたらず、天災が起こるようになるかもしれない。それはどうあっても防がなければならないことだ。
 立ちあがり、婆は内宮へむかった。紅葉は何をしているだろうか。
 御社の中を歩いていても、ひそひそと交わされる言葉は、紅葉のことばかりだ。
「何故彼女が〈魂もらい〉にいくの?」
「あんな役立たずな子が」
「これじゃあ世が平和になるはずがないわ」
「大巫女様たちは何を考えてるの?」
「裏の大巫女様は、紅葉をかわいがっていたから、裏で手をまわしたんじゃないかしら」
 などと、半分妬みも聞こえてくる。
 紅葉をかわいがっていたわけではない。人の輪にはいれずにいる紅葉を放っておけなかったのだ。部屋がおなじなのも、他の巫女たちが彼女の狛犬を恐れたからだ。巫女と同室にしたとき、紅葉は敏感にそれを感じとって、厩で寝ていた。
 家族代わりとして、どうしても狛犬を手放せない紅葉を、責めるわけにはいかない。狛犬がいなくなったからといって、彼女が巫女たちの中に入っていけるとも思えなかった。
 きっと、紅葉自身も狛犬ではなく、人間の友を求めているだろう。他の巫女たちとおなじように、何気ないおしゃべりを楽しみたいはずだ。人間なのだから。
 うまく人とまじわれぬ不器用さが、こんなところで仇となっているような気がして、ならなかった。



 内宮にはいってすぐのところで、婆は何かにつまずいてころびそうになった。
 盆だ。きれいに中身を食べたあとの食器をのせた盆が、昼よりも夕刻にちかい時間にまだ下げられていない。疑問に思いながら先へすすむと、褥もまだあげられていなかった。
 どういうことだ?
 縁側に、ぽちのしっぽが見えた。
「紅葉や」
「婆様?」
 明るい紅葉の声がする。先へすすめば、ぽちのとなりに、寝巻き姿のままの紅葉がいた。
「着替えていないのか?」
「着替えるものがないから」
 紅葉の答えに婆は血の気がひいた。手伝いにやった巫女が、世話をしていないのだとようやく確信がもてた。どうやら、巫女たちも実力行使にでたらしい。
 婆の憤りにも無頓着に、紅葉はいった。
「そろそろ旅支度をしようと思うのですが、内宮からでてもいいですか?」
「おまえは宿禰だ。そんなことはしなくていい」
「でも」
「自覚をもて!」
 怒鳴られて、紅葉は身をすくめた。
「はい、婆様」
 彼女を怒っても、せんないことだと、婆は我にかえって、ため息をついた。
「……婆様も、忙しいでしょう? 薬作りくらい、手伝えたらいいのに……」
「気にするな。おまえが手伝ってくれる前は、ひとりで全部やっていた」
 紅葉は黙ってぽちの首に抱きついた。
 彼女を傷つけたのだと、ちいさな背を見て、婆はようやく気がついた。
 ひとりきりで、だれとも言葉をかわすこともなく、一日を過ごしていたのだろう。宿禰というよりも、だれからも見捨てられたような、心細さを感じていてもおかしくはない。
 婆は紅葉の背後に座り、その背に手をおいた。
 さみしいと感じたのは、自分もおなじだった。とりたててにぎやかな子だったわけではない。それでも、ぽつりぽつりとかわされる会話に、満たされていたのだといなくなってから気がついた。
「すまぬ。本当は忙しいのだ。おまえにあたってしまうくらいな」
 ゆっくりと顔をあげて、紅葉はちらりと婆をうかがった。
「おまえがいなくなってから、ろくに眠れておらん」
「何故ですか?」
「これからのことが、急に不安になっての」
 紅葉は身体を起して、婆の腕に触れた。このあたたかさを、感じることも、もうないのかもしれない。そんな不安も胸をよぎる。
「おまえはわしにとって、娘のようなものだ。わしはおまえの親として、おまえのしあわせを願わずにはいられない」
「婆様、わたしは婆様に出会えてしあわせだったと思います。だからどうぞ、婆様は自分の役割を果たしてください」
 婆は紅葉を見た。どこか遠くを見つめたぼんやりとしたまなざしは、いつもの紅葉と変わらない。淡々としていて、ぽちに抱きついて、自分をなぐさめようとした姿が幻のようだ。
 そうだ、大巫女ともあろう者が、これから旅立とうとする巫女に、なぐさめられていては、立場がない。何の迷いも、心配もさせず、毅然として見送るのが、大巫女としての務めだ。
 婆は紅葉にうなずいて見せた。紅葉はわずかに目元をゆるめた。
 言葉のないまま、ふたりは空を見上げた。
 暮れかけた空に星がひとつ、かがやいた。