恋し、春待ち人
第四話 東風吹かば 五




 翌朝、紅葉は旅にでるために、御社から支給された装束に着替えた。
 白の小袖に紅の切袴。薄雲のような白の狩衣を緋色の帯でしめる。狩衣の裾には緋色の帯がわたしてあり、ちいさな鈴が動くたびに涼やかな音をたてる。首からは紅の胸紐と守りかけを下げ、帯に檜扇をさした。
 〈魂もらい〉の衣装はこれと決まっていた。人々はこれを見て、宮里からの宿禰が〈魂もらい〉をおこなっていると知るのだ。
 足音が、聞こえる。ぽちはそちらへ目をやったが、特に動きをみせない。きっと浅葱だ、と紅葉は部屋をでた。
「さすがに起きていたか」
 浅葱もすでに旅装束だった。
「朝餉がすんだら出立する。準備をしておいてくれ」
 にぎり飯と汁物と香物の朝餉をとると、ふたりはそろって屋敷をでた。
「おお、宿禰様!」
 屋敷の門前に、村人たちが集まっていた。中年の男の声に、人々がいっせいに紅葉を見た。浅葱は怖気づく紅葉の背をかるくおして、先へうながした。どうやら浅葱は村人が集まっていることを知っていたようだ。
 紅葉が歩きだすと、人垣は道をつくるようにひらいた。その先に、浅尚が待っている。となりには細身のうつくしい女がいた。浅葱の母なのだろう。切れ長の目が異性だというのによく似ている。
「おはようございます、宿禰様」
 おずおずと前へでた紅葉は、浅尚の太鼓のように響く声に身体をちぢめた。
「おはようございます」
「我々がここに集まっているのは、宿禰様にお願いがあったからでございます」
「はい……、〈祈踏〉(きとう)ですね」
 〈祈踏〉は〈魂もらい〉の根幹だ。人の集まる場所には、かならず中心に神の祀られた神宿がある。宿禰は村々をたずね、神宿へ参り、その土地に住む人々の祈りを、舞うことで神に伝える。
「お願いいたします」
 浅尚はいって、背後の神宿と幾本もの、剣をつきたてたような山々をふりあおいだ。
「ここに宿るは、剣乃木連峰の頂きに祀られます剣乃木姫となります。我らの祈りをどうかお伝えください」
 紅葉はうなずいて、神宿の前にたった。浅尚と千歳がさがる。
 素朴なつくりの神宿だったが、人々に愛されていることがわかる。きちんと掃除され、塩・米・水が供えてあった。
 紅葉は目を閉じ、守り掛けをにぎった。
 役立たずな巫女、というのは名ばかりではない。紅葉は〈祈踏〉も舞いも成功することは稀だ。宿禰として選ばれたあと、ひそかに練習を重ねたが、うまくいかなかった。
 うまくいくだろうか。人々の目と、期待のまなざしに、心臓がとびださんばかりに鳴っている。こんなときは、うまくいかないと、経験が紅葉の不安をあおる。
 だが、もうただの巫女ではない。宿禰となったからには、役立たずだから、できないから、と逃げているわけにはいかないのだ。
 深く息を吸って、吐く。
 気を静めてから、草履をぬぐ。ゆっくりと膝をつき、地面に手をついた。頭を深く垂れる。
「掛(か)けまくも畏(かしこ)き剣乃木姫(けんのぎひめ)の大前に紅葉恐(かしこ)み恐みも白(まを)さく、天(あめ)の下万(よろず)の国と互(かたみ)に信義(まこと)を重んじ親睦(むつみ)を深めて平和(おだ)しき御世(みよ)を開かしめ給(たま)ひ、い往(ゆ)き渡らふ旅路の遠近(おちこち)漏る隈(こと)なく落つる隈なく見守り導き給ひ、宿りの夜に災なく出発(いでた)つ朝(あした)に禍事なく滞る事なく導き給へと恐み恐みも白さく」
 目を閉じ、目の裏に何も映らなければ、紅葉は失敗したことになる。
 うまくいっただろうか。
 こわごわと目を閉じると、眠りに誘いこまれるように、すっとあたりは深い緑に包まれた。
 紅葉の祝詞に神が答えたのだ。
 人の踏み入ることのできない森の世界は苔むし、空気はあふれんばかりの水に満たされていた。
 背筋がぞくっとするような風がふいて、ふりむく。
 そこにはゆらゆらと陽炎のようなものが立っていた。
 剣乃木姫だ。
 わかった瞬間、紅葉は全身に鳥肌がたった。
 神が自ら紅葉のもとへ舞いおりた。どんなに才能のある巫女でも、神から接触してくることはごく稀なこと。紅葉のような人間には、奇跡としかいいようのないことだった。
 剣乃木姫はそんな紅葉を笑ったようだった。陽炎が森にぱっと散って、また集まった。
 紅葉はひざまずき、腰をおろし、平伏した。陽炎が音もなく近づき、紅葉と重なった。
 途端、ざわざわ、といろいろなものの話し声が聞こえてきた。人だけではない、獣や鳥、木や草、水といったあらゆるものの息遣いを感じる。だが、それはほんの一瞬のことで、すぐに耳は正常にもどった。
 紅葉は目をひらいた。
 日々祈りを捧げられている神宿が、紅葉を見下ろしている。
 ゆっくりと身を起こし、帯にはさんだ扇を手にとった。浅葱やその両親、見ている村人たちが皆、頭を垂れていく。
 呼吸を整える。
 失敗する気はもうしなかった。体内に宿った剣乃木姫が、紅葉にどう舞えばいいのか教えてくれている。
 紅葉は扇をひらき、右足をふみだした。
 身体が思うままに紅葉は舞った。
 狩衣についた鈴の音と、足を踏み鳴らすことで音を奏でる。
 扇をひとふりして風となり、またひとふりして大地と化す。くるりと舞えば、人々からたちのぼる祈りの想いが、芽吹くようにあらわれ、またくるりと舞い、それを糸のように束ねる。
 くりかえし、くりかえし――紅葉の意識はいつのまにか、鳥のように空を飛んでいた。
 人々の想いで編んだうつくしい布をくちばしにはさみ、紅葉はそれを剣乃木連峰の頂きで待っている、剣乃木姫にさしだした。
 姿の見えない女神は、布を受けとってまた、笑ったらしかった。
 ほ ほ ほ ほ ほ ……
 という笑い声が山に木霊すると、まだ雪におおわれていた山々は、たちまちのうちに緑を芽吹き、花を咲かせた。鹿や猿や猪たちが、元気よく跳ねまわり、芽吹いたやわらかな新芽を食べている。鳥たちが歌うおおらかな声が、きらきらとかがやく雪解け水の流れる音と重なって、田をたがやしている村人たちの耳を、かろやかになでていく。
 紅葉はくるりくるりと身体をまわして、春の景色をながめた。そのうちに、いつのまにか大地はちかくなり、自然に紅葉は自分の身体にもどっていた。
 〈祈踏〉がおわる。
 名残惜しみながら、紅葉は足をとめ、扇を神宿へさしだした。体内に宿った剣乃木姫がすっと身体をはなれ、扇の上で緑の炎となって現れた。それは雪のように、じょじょにちいさくなり、消えた。
 おわった……。
 紅葉は力がぬけて膝をついた。倒れそうになったのを、駆けつけた浅葱が支えてくれた。
 全身が汗でびっしょりとぬれていた。肩で息をしなければならず、手足はふるえて力がはいらなかった。
 できた、という思いで紅葉の心はいっぱいだった。失敗しかしてこなかった〈祈踏〉が成功した。疲れていたが、それよりもよろこびのほうがまさっていた。
「宿禰様、ありがとうございます!」
 興奮した面持ちで浅尚が駆けてきた。
「いいえ、こちらこそありがとうございました。皆様のおかげで成功しました」
「滅相もありません」
 村の神宿に対する信頼が深いからこそ、成功したのだと紅葉は思った。きっと、彼らの側にはいつでも剣乃木姫がいるのだろう。
「宿禰様、おらまだ雪もとけきらぬのに、春の景色が見えました」
「女の楽しげな笑い声も聞こえた!」
「ありゃ、剣乃木様だ」
「そうだ。な、そうにちがいないだろ、宿禰様」
 村人たちは紅葉のまわりに集まって、口々にいった。
「おい、おまえたち。宿禰様は疲れていらっしゃるんだぞ」
 浅葱がいうと、村人たちは手で口をおさえたり、身体をひいたりした。だが、興奮は冷めない。
「今年はいい年になるな」
「あの景色は、見事だったからなあ」
 口々にあがる声に、浅葱はやれやれと息を吐いた。すまなさそうに紅葉を見る。紅葉は首をふった。足に力をいれて、立ちあがる。
「宿禰様、我らの想いが、〈魂もらい〉の成功につながることをお祈りいたします」
 浅尚がいうと、村人たちは話をやめた。
「こちらこそ、皆様方の想いを無駄にせぬよう、精一杯勤めを果たしてまいります」
 さしだされた手を、紅葉はにぎった。浅尚が手をはなすと、横から次から次へと村人たちが手をさしだした。ひとつひとつの手は、かさつきとてもきれいとはいえない。だが、どの手も厚みがあってあたたかかった。この村のようだと思った。
 最後に千歳が馬をひいてやってきた。荷はすでに積んであった。
「準備はできているぞ」
「すみません、母上」
「おまえが宿禰様の守別となって、私はうれしい。これくらいのことはせねばな」
 そういって手綱を浅葱へ手わたす。浅葱の母は、紅葉にむきあった。
「まだまだ若輩者の浅葱が宿禰様の守別などと、なんと光栄なこと。我が一族の血にかけて、宿禰様の御身をお守りいたします」
「息子殿にはお世話になります。かならず千歳殿へおかえししますゆえ、しばしおあずけ願います」
「恐れ多いお言葉にございます。万が一、宿禰様のお役に立てなかったとしても、それは本人の未熟さゆえ。宿禰様は霊山へ祈りを捧げることのみにお気をくばらせください」
「母上、急ぎますのでこれにて」
 わってはいった浅葱に、千歳もうなずく。
「気をつけてな」
 一礼する浅葱にならって、紅葉もまた千歳に、となりにならんだ浅尚に、そのうしろで見送ってくれている村人たちへむかって礼をした。
 浅葱の手をかりて馬にのる。浅葱もすぐさまそのうしろにのった。
「浅葱、宿禰様を頼んだぞ!」
 浅尚がいった。
「宿禰様、かならずや世を平和に導いてくださいませ!」
 あわせて、朔太郎が叫んだ。
はい、と紅葉は短く答えた。期待されているのだと思うと、胃が重くなったが、どこかくすぐったい気もした。
 浅葱が馬をけった。横にならんでいたぽちが、馬を追いぬき先導する。
 〈魂もらい〉がはじまる。
 宿禰として選ばれてから、たちこめていた暗雲から、一条の光がさしこんだ。そんな旅立ちだと思った。


祝詞参考:祝詞作文事典 戒光祥出版