恋し、春待ち人
第五話 光の春 参




 翌朝、まだ日もあけきらぬ時間。小高い山々には薄雲がかかり、しっとりした空気が、旅籠をでたふたりを包んだ。
 そんな早い時間にもかかわらず、ふたりを先導するのは村の女たちだった。千草が呼び集めてくれたのは、彼女と年のかわらぬような五人の女だった。いま動けるのは彼女たちだけだという。
 神宿は村のはずれの岬にあるという話だった。陸からわずかにはなれた海辺に、ごつごつした岩の小島がある。その頂きに神宿があるというのだ。
 すぐそこに見える岬は、歩くとずいぶん遠かった。知らぬまに、すっかり日がのぼっている。
 近づくにつれて、道は不安定な岩場に変わった。何かにつかまっていなければ、立っていることもままならないほど、足場が悪い。
 岬にしがみつくようにすすめば、足元の岩に波がくだけ、皆の足をぬらした。
 そんな険しい道だが、かつて人々がとおっていたあとが見えた。わずかな足場に見える人々の信仰は、すでに薄れている。何年も人がおとずれていない証拠だった。
 ようやく神の祀られた神宿の前までやってきた。
 立烏帽子のような小島の頂きに、壊れかけた神宿が建っている。おそらくこの小島自体が、神を表す磐座(いわくら)なのだろう。海の底から、地と海の力がからみあって、ふきあげてくるような力を感じる。
 それゆえに、人々はここに神宿をおいたのだろう。だが、だれも拝むもののいない神宿からは、神の気配がほとんどしない。
「宿禰様、ここに祀られているのは、大海地力神(おおうみのちぢからのかみ)様です。よろしくお願いします」
「はい。みなさんは、さがっていてください」
 紅葉は、皆がさがれるところまでさがるのを見届けてから、ひとつ、深呼吸をした。
 身を整え、草履をぬぐ。腰をおろし、裾をさばいた。両手を膝の前にそろえ、頭をたれて深く息を吸った。空気の流れを感じながら、ゆっくりと唱える。
「掛けまくも畏き大海地力神の大前に紅葉恐み恐みも白さく……」
 目をとじる。
 が、何も見えない。
 しばらく待っても、剣乃木姫のときのように、景色が見えることはなかった。
 失敗したかもしれない。
――大海地力神様、どうかこの村の想いを感じてください……!
 つよく、紅葉は祈った。千草に言葉をかけてあげることができなかったかわりに、〈祈踏〉でその想いをかえすと決めたのだ。このまま、できなかったと身をひきたくはない。
 と、波の音がとおく聞こえてきた。
 それはじょじょに近づき、突然、紅葉をどっとのみこんだ。ぐるぐるところがされ、気がつけば紅葉は深い海の底にいた。
 暗い海だった。魚の姿はなく、暗い海藻がけだるそうにゆれている。
 剣乃木姫のときとはまったく逆の光景だった。あのときは、日ざしがかすかであっても、そこに生きるものたちの命がかがやき、暗いと感じることはなく、居心地も良かった。
 だがここは、死の海だ。生きるものがおらず、その屍だけが残されている。それはどこか、村の様子を連想させた。
 神の姿が見えず、紅葉は死んだ海藻をかきわけながら、捜した。
 遠くぼんやりとしかささない日の光は、紅葉の手元にさえ届かず、足元は何も見えない。人の信仰が薄れるということは、神の住まう世界をこれほどまで暗くしてしまうのか。
 しばらくすすむと、むっと異臭がただよってきた。生き物が腐った臭いだ。
 紅葉は先へすすむべきか迷ったが、大きく息を吸いこんで、足をふみだした。くにゅり、とやわらかいものを踏みつけた嫌な感触がする。
 思いきって海藻をかきわけると、急に視界がはれた。
 そこは海藻の壁でまるく形づくられた部屋のようだった。底一面に、腐った魚やその骨が散乱している。異臭はここから放たれていたのだ。
 部屋の中央に、ゆらゆらと陽炎が見えた。大海地力神だろう。紅葉はゆっくりと神に歩みよった。
 大海地力神は紅葉に気がついていないようだった。ゆっくりとした動作で、底に沈んだ魚の死骸をつかみ、食べる。ぼりぼりと魚をむさぼる嫌な音が響いた。
 姿が見えないのに、紅葉は敬われることを忘れた神のみすぼらしさに、胸が痛んだ。村に活気があった頃は、人々に祀られ、大海のようにうつくしく、そして荒々しい姿をしていたことだろう。
――大海地力神様、どうか村の想いに気がついてください。
 紅葉は大海地力神を抱きしめるように腕をだした。
 途端、耳をつんざくような悲鳴が紅葉を襲った。荒々しい馬のひずめの音、火がぼっと燃えあがり、ひろがっていく音、鎧金具の音、断末魔の悲鳴――
 はっ、と紅葉は目を覚ました。
 潮風が紅葉の頬をなで、磐座にうちよせた波しぶきが、目の前で舞う。
 身体中に嫌な汗をかいている。一瞬目に見えた光景を思い出し、紅葉は口元をおさえた。
 これが、この村を襲った悲劇。
 千草の語った絶望。
 紅葉は気を静めようと深呼吸をくりかえした。
 腹の底に、冷たくかたまった大海地力神を感じる。あとは舞を捧げて、村人の想いを伝えるだけだ。
 立ちあがると、めまいを感じた。
 剣乃木姫のときとはちがい、舞い方がまったくわからなかった。大海地力神の力が弱まっているせいなのか、紅葉の能力不足なのか。
 それでも、紅葉はやるしかなかった。〈祈踏〉を成功させ、千草の望む平和な世へと少しでも近づけるようにしたい。
 紅葉は檜扇を手にした。
 大丈夫、舞い方は剣乃木姫から教わった。
 扇をひらき、ひとつ呼吸をして、右足を踏みだす。
 鈴がちいさくころん、と鳴った。足でとんとん、と拍子をうつ。そうすると、身体は自然に舞いはじめた。
 腕をひろげ、手首をしならせ扇を舞わす。片足を軸にくるりと舞い、扇をとじると両の手でにぎった。櫂をこぐように、腕をのばしては胸にひきよせる。地からわきあがる力をくみあげて、ひきよせる。くみあげて、ひきよせる。
 腹の底でじっとしていた大海地力神が、むくりと起きあがった。
 腕に冷やりとしたものが添うたかと思うと、力を貸すように、地の力を一緒になってひきあげてくれる。
 それはどこか、漁の光景にも似ていた。魚のかかった網をひきあげる。ひきあげる、ひきあげる。
 大量の魚が、船の上できらきらと跳ねあがった。船が岸へもどると、女たちが駆けてくる。岸には何艘もの船がならび、次から次へと魚が運びだされていた。にぎやかな売り子の声が、行商人の足をとめる。
 紅葉が舞い、〈祈踏〉へやってきた女たち――千草の想いがふくれ、かつての村の様子が、それぞれの目の裏に映しだされたのだ。
 大海地力神は、にぎやかだった村の様子が好きだったのだろう。もっと見たいもっと見たい、と紅葉を舞わせる。
 紅葉は一心不乱に想いをひきあげた。
 そうしていつのまにか、紅葉はその想いの網をすりぬけた一匹の魚となって、大海へ泳ぎでた。暗く死んでいたはずの海は、明るくいきいきとした海にかわっていた。
 うつくしい海藻の幕をぬって、大海地力神のもとへいくと、神は紅葉を手にとり、ぱくりと飲みこんだ。
 波しぶきが紅葉の顔をぬらし、現へと呼び戻した。
 紅葉は神宿にむかって扇をさしだした。するすると大海地力神が扇のうえに宿り、ざっとしぶきをあげると、そのまま溶けるように消えていった。
 紅葉は、気を失った。