恋し、春待ち人
第六話 堕栗花 壱




 サァ――……
 細かな雨が静かに降りつづいていた。
 すぐ近くで、蛙が鳴いた。
 ぽつ、ぽつ、と雨水の滴る音がやけに大きく聞こえた。
 もう、かれこれ五日は降っている。木々も草もすっかりうるおって、地面はあちこちに潦をつくり、ぬかるんでいた。よろこんでいるのは蛙くらいだ。
 紅葉と常盤は雨やどりをしていた。村と村をむすぶ土着の神を祀った神宿の屋根をかりている。峠と峠をむすぶ街道ぞいのちいさな神宿だ。天之蔵戸神(あめのくらとのかみ)にはすでに挨拶をすませてある。
 浅葱は馬を駆って、この先に夜をこせる場所があるか探しにいった。
 ふたりは黙ったまま、雨の音に耳をかたむけていた。
「寒いのか?」
 常盤にきかれて、紅葉ははじめて自分を抱きしめるように、腕を抱いていたことに気がついた。
 降りしきる雨に、蓑の中まで水が染みこんできている。衣の裾はすっかりぬれてしまった。足袋もずぶぬれで、指先の感覚はもうない。
「寒い」
「こっちにこいよ、すこしはあったまるだろ」
 人ひとりぶん、常盤とは距離があった。紅葉はその言葉にあまえた。このままでは風邪をひいてしまう。
 常盤に肩をならべたところで、ふたりの二の腕のあいだから、ぬっと鼻面があらわれた。
「おい、犬」
「ぽちです」
 狛犬が顔をだした。かと思うと身体をずずいとおしだして、窮屈にもふたりのあいだにおさまる。そのまま満足そうに目を閉じた。
「……空気の読めない犬だな」
「ぽちです」
 常盤はどうしてもぽち、と名を呼んでくれなかった。
「でも、あたたかい」
 ぽちの毛皮もぬれていた。それでも側によると、ほんのりとあたたかさが伝わってきて、ほっとする。
「獣臭いな」
「獣ですから」
 サァ――……
 雨のやむ、気配はない。
「まだひと月なんだな」
 ぽた、と落ちる滴のようなひと声だった。
「そうですね」
「あまり先へすすんでいない」
「こんなものだと思います」
 宮里をでて、常盤の住む山越里を、ようやくぬけたところだった。低い山が連なるこのあたりでは、のぼってくだっての道のりに、なかなか距離をかせげなかった。
「先へすすまないほうがいいんじゃないか?」
 常盤を見ると、彼は意地悪そうな顔をしていた。
 紅葉はしばらくのあいだ、黙った。答えを探すのに、すこし手間どった。
「いずれ、そのときはやってきます。どんなものでも、かならず」
 人間だけじゃない。動物も、虫も、花も、木も、かならず終焉がおとずれる。
「わたしは、それにあらがいたくない」
「……あらがえよ、っていっても、あんたら巫女には通じないのかね?」
「巫女がみんなおなじ考えなわけではありません。これはわたしの意見です」 
 常盤はかぶったままの笠をもちあげ、空を仰いだ。
 薄墨の五月雲から絶え間なく雨は落ち、草葉や地面をたたく。
 葉にたまった水が、ししおどしのように、すっ、と落ちた。
「葉月もそうだった。あいつ、俺より五つも年下で、御社にはいる前はまだ俺の背の半分もなかった。ぎゃあぎゃあ騒いだかと思ったら、ぴーぴー泣いて、うるさい奴だった。御社に入っていなくなったかと思いきや、突然帰ってきて宿禰になったってさ。世を平和にしてみせます、なんてすました顔ででていって、……戻ってこなかった」
 息をはいて、鼻をすする。横をむいてしまった常盤を、紅葉はじっと見つめた。
「久しぶりに会ったとき、おどろいた。妹だっていわれてもわからなかったね。親がそういうから、へえ、そんなもんかと思ってたくらいだ。話し方も態度も落ち着いていて、里のもんとはちがう。あいつがそこにいるだけで、空気がぴ、っとひきしまるっつーか、清浄になるっつーか、……ある意味、異様だった」
 里人にとって、御社の人間は皆、おなじ種類の人間だとは思われていない。常盤のいうように、空気がちがって異様だという。御社で暮らしてきた紅葉にはわからないが、薬を届ける治療院の人にはよく、「あんたには巫女さんの空気がないね」といわれた。
 常盤もまた、紅葉におなじことをいった。 
「あんたからは、そういう空気は感じられないんだが、話をしていると、やっぱり巫女なんだって思わせられる。物に対する執着心とか、欲望が、ないんだよな」
「わたしにも、ほしいものはあります」
 常盤はにや、と口端をもちあげた。
「なに、どんなもの?」
「練り菓子です」
 ふ、と息を吐いて、常盤は声をあげて笑った。紅葉は首をかしげた。
「どうして笑うんですか?」
「いや、まあ、いまの世の中、練り菓子は高価なものだよな」
 またひとしきり笑う。
 雨は、そんな笑い声も打ち消して、静かに静かに降っている。
 浅葱は、まだ戻ってこない。
「葉月が旅にでて、一年がたって、二年がたって、世は平和になるどころか、荒れていく一方だった。ああ、こりゃ、失敗したんだなって漠然と感じたとき、なんつーか、急にあいつが妹だったんだって、思ったんだ」
 わかるか? と常盤はたずねた。
「巫女で宿禰になったあいつは、妹というよりまったくの別人だった。でも、いなくなって、死んだんだってわかって、はじめて、血のつながった妹として、俺のところへ帰ってきたような気がした。姿を見たわけじゃねえけど、魂がふらっとやってきたんじゃないか、ってそんなことまで考えたりしてさ。おかしいよな」
 にがく笑ったかと思うと、常盤は怒りの面を見せた。
「俺には、わからねえ。神様ってのは、そんなに大事なもんかね? いるかいないかもわからねえものに、命をかけられるあんたらが、わからねえ」
 雨どいから、しみた雨水がぽたぽた、と地に落ちた。水たまりと同化して、はねて、また地面に染みこんでいく。
「死にたい、と思う人はいません」
 紅葉のつぶやきに、常盤ははっとふりかえった。
「どんな人だって、死ぬのは、怖いです。その先のことを、何も知らないから」
 神宿をかこむ、雨にぬれた木々をながめながら、紅葉はぽちの頭をなでた。
「葉月さんもおなじだったと思います。きっと身のかるくなった葉月さんは、もう一度家族へ挨拶に来たのだと思います」
 雨にぬれ、森は沈黙している。
 静かな紅葉の声は、森の吐息のようにかすかだった。
「体という器をすてた御霊は、本真の塊です。〈星流れ〉で流れた御霊を霊山におわす天座大神様が見極め、そうして世の流れを決められます。〈魂もらい〉で、一身に祈り、大神様が世の平和を望む心が少ないと判断されたとき、葉月さんは己の御霊をさしだしたのかもしれません。すこしでも、平和を望む御霊が増えるようにと」
「自分の命をさしだせば、平和になると考えるなんて、お人好しもいいところだぜ」
 また、常盤は顔をそむけた。
 サァ――……
 雨のやむ気配はない。
「降りやまねえし、そろそろ堕栗花(ついり)かねえ」
「かもしれませんね」
「あーあ、やだやだ、この時期はなんでも腐るし湿っぽいし、はやく夏がこないかね」
「そうですね。でも、雨があがったあとの緑がきれいで、わたしは好きです」
「むっとしなけりゃ、なおいいがね」
 突然、ぽちが立ちあがった。街道のほうを見つめる。紅葉も常盤もおなじ方向を見た。
 雨音のなか、かすかに水をはね、地をける音が聞こえる。
「ようやく帰ってきたかね」
「そのようですね」
 まもなく、馬にのった浅葱の姿が見えた。