恋し、春待ち人
第六話 堕栗花 弐




 出発して二刻半ほどがたとうというとき、あたりの闇がしずかに三人を包みはじめていた。蛙の鳴き声がいっそうつよくなり、山をはさむ街道中にこだましている。
「まだつかないのか?」
 雨は降りやまず、いまもしとしとと三人の肩をぬらしている。紅葉は馬上の人となっていたが、常盤も浅葱も足はすっかり泥まみれだ。
「もう着く」
 浅葱の言葉をうなずかせるように、道の端に草に埋もれた道祖神がたっていた。
 馬からおろしてもらって、紅葉はわずかなあいだ塞の神へ祈った。
 ここからは"村"という領域だ。
 紅葉も歩いて集落を目指した。
 あたりがすっかり闇にのまれたころ、うすい雨のむこうに、ぼんやりと暖かな光が見えてきた。
「やれやれ、ようやくついたな」
「こっちだ」
 旅籠を探した浅葱は、結局この先にある村しか見つけられなかったという。村人の話では、次の村まで一日はかかるというから、村人に一泊の宿をお願いした。
 猫の額ほどのわずかな田畑をはさんで、茅葺の家がぽつぽつとならんでいる。その、中央あたりの家で浅葱は足をとめた。
 戸をたたき、名を名のると板戸があいた。
「遅かったじゃない? 待ちくたびれたわ」
 でてきた女は、胸に赤子を抱えていた。
 女は紅葉に気がついて、笑みをうかべた。
「そちらが宿禰様ね。どうぞ、おはいりください。もてなせるようなものはありませんが」
「いいえ、風雨がしのげるだけで、とても助かります」
 中へはいると、囲炉裏端に老夫婦が座っていた。紅葉を見て、にこにこと目を細める。
「ようこそいらっしゃいましたな」
「宿禰様を泊められるなど、こんな名誉なことはありません」
 老爺が腰をあげて、紅葉に手をさしだした。その手をにぎる。かさついた、骨ばった手が裏の大巫女の手を思い出させた。
 御社から逃げるように去ったあと、どうなったのか紅葉は気にしていた。婆や葵のこと、紅葉が〈魂もらい〉にでることを反対していた巫女や宿司、宮里の人々のことも。
 と、老爺の手が急にこわばった。目を大きくさせて、紅葉の背後を凝視している。
「狛犬じゃ!」
 老爺は土間に立てかけてあった鍬をつかんだ。突然の声におどろいた赤子が、泣きだした。
「待ってください!」
 浅葱が老爺の前に立ちふさがった。紅葉は戸口の手前にいたぽちの首に抱きついた。
「あれは、人を襲う狛犬じゃないですよ」
 常盤がいった。
「宿禰様の守護獣です。宿禰様に危害を与えないかぎり、なにもしません」
「いいや、人を襲わん狛犬などいやせん! そこをどけ! わしが退治してやる!」
 浅葱をおしのけようとする老爺は、しかし浅葱をぴくりとも動かせぬまま、地団太を踏んだ。
「狛犬がいるだなんて、聞いてないわ!」
 赤子を深く抱きかかえ、女が叫んだ。
「宿禰様のいうことをきく獣だろうと、狛犬は一歩も家に入れんぞ! 狛犬は赤子が好物じゃ。ちかくにおれば、食わずにはおれんじゃろう」
「あの狛犬は宿禰様のわたすものしか食わない」
 常盤がいっても、老爺は首をふった。
「宿禰様の守護獣というなら、今晩は宿禰様だけでお泊まりください。わしらはおなじ屋根の下では安心して眠れません」
「わかりました」
 老婆の言葉に、紅葉は立ちあがった。二歩さがると、戸口からもれる光の外だった。ぽちがのっそりとそのあとにつづいて、紅葉の横にぴったりとくっついた。
 雨が、紅葉の頭を、肩をぬらした。
「お騒がわせをし、申し訳ありません。狛犬が赤子を食うのはよく知られたこと。貴女方の恐怖はもっともなことです。そのことに気がつかず、宿をお願いしたことを、深くお詫びいたします」
「紅葉……?」
 ちらりと浅葱を見て、紅葉はつづけた。
「馬小屋か納屋はありませんか? わたしはそこでかまいません。一晩、泊まらせてください」
「紅葉」
 あきれた常盤が紅葉の腕をとった。紅葉は常盤を見上げた。つよい光を放っているようでもなく、哀しみをふくんでいるわけでもない、紅葉の深いまなざしに、常盤は手をはなした。
「納屋なら、そこの畑のむこうにある」
 紅葉から目をそらした老爺は、常盤の背のむこうにうっすらと見える小屋をさした。
「ありがとうございます。狛犬はわたしがしっかりと見ています。決して怖がらせるようなことはさせません。このご恩は忘れません」
 一礼をし、紅葉は老爺に背をむけた。ちりん、とかすかに鈴の音が鳴って、紅葉はぽちと共に小屋へむかった。
「ありゃ、本当に宿禰様なんか?」
 老爺がその背を見ながら、浅葱に問うた。
「宿禰様だからこそ、狛犬がなついているんだ」
 常盤が馬をひいて紅葉のあとを追った。
「もう三月、共に旅をしてきたが、人を襲ったことはない。悪意をもったものは別としてな。だが、……先にいわなかったことは申し訳なかった」
 〈魂もらい〉といえども、荒れた村々に泊まることは少なく、泊めてもらえることも少ない。紅葉になついているせいか、ぽちを犬だと思う者が大半だった。すっかり油断していた。
「わしらは……、罰があたらんかね?」
 老婆がいった。
「宿禰様に、あんなことをいってしまった」
「でもおばあちゃん、狛犬は赤子を食べるわ」
「だとしても、本当に食うかどうかは、わからんじゃろ?」
「食べられてからじゃ、おそいじゃない!」
 浅葱は、ぬいだ笠をかぶった。
「宿禰様は、それほど心のせまい方ではありません。一晩の宿をいただき、ありがとうございました」
 一礼し、浅葱は小屋へむかった。



「寝ないのか?」
「はい」
 小屋は、せまかった。農具が散らかっているうえに、藁がぎっしりとつまっていた。雨が降りつづいているせいか、藁はぬれ、地面に触れているものは腐っていた。
 地面は雨水が染みこんでいた。足をのばして横になって寝ることはできず、三人は乾いた藁をしいて、膝を抱えている状態だった。
 ぽちは、紅葉のとなりに寝そべっていた。
「約束をしましたから」
「寝ずの番をするってか?」
「はい」
 やれやれ、と常盤は首をふった。
「犬なんか獣なんだ。外においときゃいいじゃねーか」
 浅葱は常盤を睨んだ。だが、暗くて常盤はそれに気がつかなかった。
「乾いた清潔な場所で寝れたかもしれねえのに。もしかしたら、あったかい汁物だってもらえたかもしれねえぞ」
「すみません」
「常盤、すぎたことをいうな」
「でもよお」
「それ以上いうなら、外に追いだす」
「……わあったよ」
 せまい小屋の中で、常盤は膝を抱えて寝ころがった。
「あー、腹減った。さみぃ。つめてえ。せめぇ」
「すみません」
「紅葉も謝るな」
「すみません」
 浅葱は嘆息した。小屋の外から、蛙の声が聞こえてくる。
「なんでそんなに犬にこだわるんだ?」
 寝そべったまま、常盤がいった。
「ぽちは……、家族で、友達です」
「でも犬だろ」
「ぽちです」
 常盤は失笑した。
「犬の名前じゃねえか」
「常盤、いい加減にしろ」
「いってることが、意味不明なんだよ。こっちの身になってみろ。おまえだって、納屋じゃなくて、あったかい家で寝たいだろ」
 紅葉は立ちあがった。ぽちも立ちあがる。紅葉がでていくと、ぽちもまた、納屋からでていった。
 雨は、やんでいた。
 紅葉がうしろ手に戸をしめた。
 小屋の中はすこし、闇の色あいが濃くなった。
「常盤」
「なんだよ。本当のことだろうが。宿禰だろうが、ちょっとは人のことも考える機会になるだろ」
「人のふり見てわが身を正せ」
「説教かよ」
 常盤は浅葱に背をむけた。浅葱は立ちあがった。
「紅葉を見てくる」
「おう、いってらっしゃい」