恋し、春待ち人
第六話 堕栗花 参




 こびりついたかのようにたれこめていた雲は、ちぎれちぎれて、あいまから月の光がもれていた。田んぼのほうから蛙の声にまぎれて、虫の声も聞こえてくる。
 ちいさな谷だった。十軒ほどの家しかない。いびつな田には稲が植えられ、畑には菜っ葉やら芋の芽が見える。
 ほそぼそと暮らしているのだろう。どこの家にもゆとりは見えない。ただ、戦のあとがないことだけが、この谷あいの村をうつくしく見せていた。
 紅葉の姿は見えなかった。ぽちが一緒にいるだろうから、さほど心配はしていない。だが、独りにさせるのは心配だった。
 畦道をとおって、あてなく歩く。
 どこへいったかなど、まったく見当がつかない。
 なんとなく、家のないほうへとすすんでいくと、森の入り口に鳥居が見えた。
 月光が、浅葱を導くように鳥居を照らしている。
 鳥居をくぐると、急な階段が視界をうめた。苔むし、深い緑に染まった階段は、すべりそうなほどぬれている。
 いくら月がでているとはいえ、暗い道を紅葉はよくひとりでいくものだと思う。
 旅の道中でも、紅葉はけっして不満をいわなかった。あたたかいものが食べたいとか、寝床が冷たいとか、野宿はしたくないとか、足が疲れたとか。
 わかい娘だというのに、ぬかるんだ道を歩くことも嫌がらず、こちらが何もいわなければ、ただ黙々と足をすすめる。
 体力があるのかと思えば、そうでもなく、我慢しているふうにも見えない。口だけでなく、態度ですら表さない。
 紅葉が何を考えているのか、浅葱にはわからなかった。
 虫の声にまぎれるように、紅葉の祝詞がきこえてきた。
 こんな夜中に参拝することもないだろうに。
 紅葉のいきつく先が、人のある場所ではなく、神の宿る場所なのだとしたら、これほど悲しいことはないと浅葱は思った。
 階段をのぼりきると、苔むした狐のとなりに、じっと浅葱を見つめる金の目があった。ぽちだ。狛犬のもとまでいくと、ぽちはようやく目をそらし、紅葉を見つめた。
 ぽちは、紅葉によくなついている。犬が飼い主になつくような主従関係ではない。紅葉がいうように、家族の関係だ。寝食を共にし、ときにじゃれあって、ときにあまえている。
 そうしていつも、ぽちは紅葉を見ている。いや、見守っているのだ。紅葉はそんなぽちを知っているから、いつでも側にいる。
 突然、ぽちが吠えた。
 祝詞を唱え終え、伏せていた紅葉が一瞬にして、緑の炎に包まれた。
 駆けよるあいだに、炎はぱっと白みを帯びて、はじけた。思わず、腕で目をかばう。
 目をあけると、紅葉が倒れていた。
「紅葉!」
 抱え起こすと、紅葉の顔は真っ白だった。
 まさか死んだのではないか。
 そんな不吉な考えが頭をよぎる。
 かすかに、紅葉が顔を動かした。
「紅葉!」
 呼びかけると、ぴくりと指が動いた。頬を口元へよせると、呼吸がある。胸も上下していた。
 ほっ、と息を吐く。どうやら生きているようだ。
 いつのまにか、隠れていた月が、ゆっくりと顔を見せた。
 紅葉が、目をひらいた。
「……浅葱さん、失敗してしまいました」
 かすれた声だった。
「やはり村人がいないと〈祈踏〉は成功しないようです」
 紅葉は顔を腕でかくした。彼女がこんなふうに話すのは、めずらしいことだった。
「わたしは、やっぱり役立たずです。あんなふうに村の人と別れて、〈祈踏〉なんてできるでしょうか?」
「〈祈踏〉とぽちは別物だ。明日には村人も集まってくれる」
 紅葉は答えなかった。
 月が、また雲にかくれた。明日もまた、雨が降るのだろうか。
「浅葱さん、ごめんなさい。わたしのせいで、ご迷惑をおかけしてしまいました。せっかく、一夜の宿をみつけてくださったのに」
「気にするな」
「常盤さんにも、ご迷惑をおかけしてしまいました。わたしはわがままで、人の気持ちも考えられない」
 紅葉の身体はかすかにふるえていた。だが、顔は腕にかくれて見えなかった。
 しばらくのあいだ、ふたりは黙っていた。
 やがて、紅葉は身体を起した。
「大丈夫なのか?」
「はい、よくあることですから」
 紅葉はとなりにいたぽちに抱きついた。口でいうほど大丈夫ではないのだろう。
 浅葱はしばらくのあいだ、このままでいさせてやろうと思った。
「ぽちは、わたしの唯一の家族なんです」
 ぽつりと、紅葉は話しはじめた。
「わたしは孤児で、親の顔を知りません。兄弟がいるのかも知りません。大巫女様のお話だと、赤子のときに御社にひろわれたそうです。ぽちは、そのときからわたしと一緒にいました。すてられていたとき、ぽちがわたしを守ってくれていたそうです。それからずっと、わたしはぽちと一緒にいます」
 浅葱は黙って紅葉の話を聞いた。
「御社のみんなも、ぽちを怖がりました。だれもわたしの相手をしようとは思いませんでした。しばらくのあいだ、ぽちからはなれて暮らしていたこともありました。でもわたしは、ぽちがいないことに耐えられませんでした」
 ぎゅ、と紅葉はぽちを抱く力をこめた。
「ぽちだけがわたしの側にいてくれたから。ぽちだけが、ここにいていいといってくれているような気がしたから。もしぽちがいなくなったら、わたしはどこにいたらいいのかわからなくなる」
 涙をこらえるような間があった。
「どうしてぽちがわたしを守ってくれるのか、わかりません。だけどわたしは、ぽちがいたから、今まで生きてこられた。ぽちがいなくなったら、わたしは生きていけません」
 うつむいた横顔から、すすり泣きが聞こえそうだった。だが、それらしいものは聞こえず、かわりに風が木々をゆらして泣かせた。
 不意に、紅葉が無口で無表情な理由がわかったような気がした。
 人としてではなく、ぽちと共に生きていこうとした紅葉にとって、感情も言葉も必要ではなくなったのだろう。
 だが、そうして内にこもってしまえば、なおさら人との関係が遠くなる。人とはなれればはなれるほど、ぽちの存在が大きくなっていく。はなれられなくなる。
 紅葉はその悪循環に気づいてなお、ぽちからはなれられずにいるのだ。
「紅葉」
 浅葱は、そんな紅葉の痛ましい姿に、何か言葉をかけずにいられなかった。
「月を見てみろ」
 不思議そうな顔をしながら、紅葉は月を見上げた。
「既望の月だ」
「……はい」
 それがなにか? と紅葉は首をかしげる。
「既に満ちた月。だが、こいねがう文字を当てはめれば、希望になる」
 文字遊びだ、といいながら宙に漢字を書く。
「平和を希う。それが〈魂もらい〉だ。道のりは険しい。雲が光をとざすように。だが、その光はかならず地を照らす。雨がやまないことはない。雲はとどまることがない。月は、満ち欠けしながら、かならずのぼる」
 浅葱は紅葉を見た。
「だれがそうと決めたわけじゃない。だが世のすべては、そうしたもので成り立っている。おれの存在もそうだ。だが、それではあまりにもさみしい。だから人は皆、居場所を求める。おれの居場所は今、おまえのもとにある。おまえの居場所がおれのもとでは、心許ないか?」
「……いいえ」 
 紅葉は表情をゆるめた。すこし落ち着いたようだった。
 浅葱の言葉をたしかめるように、月を見上げる。その瞳に、光が見えた。
 安堵して、参道を見下ろした浅葱は、刀をにぎってたちあがった。道の奥にゆれる黒い影が見えたからだ。
 ゆらゆらと次第に影をふくらませるそれに、浅葱は鯉口をわずかに切った。
 月が影の正体を照らしだした。
「おー、いたいた」
 常盤だった。のんきな声に、緊張をとく。
「どこにいっちまったんだか、ずいぶん捜したぜ」
「すみません」
 紅葉の前までやってくると、常盤は頭をかいた。
「いや、なんつーか、謝るのは俺だ。気を悪くしちまうこと、いっちまった。悪かった!」
 姿勢を正したかと思うと、深く頭をさげた常盤に、紅葉は目をまるめた。
「いえ、本当のことですから」
 真顔で答えられて、常盤は口ごもった。紅葉が怒っていると思ったらしい。
「ま、その、……これからもよろしく頼みたいんだが……」
「はい」
 すかさず肯定の返事を得て、常盤は表情をゆるめた。浅葱もまた、そんなふたりのやりとりにほっと息を吐いた。
 常盤の言動を紅葉は受けとめる。反論は一切しない。そんな紅葉の性格につっこむような性格であれば、常盤と旅をするのは考えなければならなかった。どうやら杞憂だったようだ。
「帰ろう。明日の朝も早い」
「はい」
 月の光がやさしくふりそそいでいた。
 蛙の恋歌は、このうつくしいときを無駄にしてはならぬとばかりに高まった。雲は山むこうへ流れ、星がぽつぽつと瞬いている。
 明日は、晴れるだろう。