恋し、春待ち人
第八話 秋思 弐




 紅葉はじっと待っていた。
 急にぽちと浅葱の姿が見えなくなって、どのくらいの時間がたったのか、すでに感覚はなかった。
 雲の中に入ってしまったかのように、あたりは靄につつまれていた。
 腕をのばす範囲までの視界はあるものの、一歩すすんだその先に何があるかはわからない。
 常盤と菫と別れて一日。翌日目を覚ましたとき、あたりはうすい霧がかかっていた。日がのぼれば消えるだろうと思っていた霧は、消えるどころか徐々に濃くなった。
 ぽちを頼りにしながらすすんでいくうちに、そのぽちの姿がふっと消えた。気がつけば、浅葱の姿もない。
 万が一浅葱を見失ったとき、動かないこと、という約束を紅葉は忠実に守っていた。だが、どこから何が現れるかもわからない中で、じっとしているのは苦痛だった。
「ぽち! 浅葱さん!」
 叫んでも、声はすぐに靄にのみこまれる。こんな状態では、浅葱に名を呼ばれていても気がつかないだろう。
 どうしよう。
 知らず、首にかけた守り掛けをにぎる。
 ちりん
 と、どこからともなく、鈴の音が聞こえた。とてもかすかな音で、空耳かと疑うほどのものだった。
 ぽちも浅葱も鈴などつけていない。自分の袖についた鈴がなったのだと、思いこもうとしたそのとき、また鈴の音が聞こえた。
 ちりん
 鈴の音にまぎれて、下草の踏む音がする。人間の足音ではない、聞きなれた足音。
「ぽち!」
 呼んだ瞬間、大地を風がふきつけた。靄が吹き飛んでいく。
 足元に駆けよってきた狛犬に、紅葉は思わず抱きついた。
「ぽち、よかった……」
 頭をなでて、ふと違和感を覚える。頭の中央に、角のようなぽっこりとかたいものがある。こんなものあったかな、と顔を確認して、紅葉は、はっと狛犬からはなれた。
 目元はよく似ている。だが、首まわりのたてがみが短く、ぶち模様がちがう。
「吽形」
 女の声が、狛犬を動かした。狛犬が走っていった先に、声の主がいた。
 紅葉とおなじ白の小袖に緋袴、白の狩衣を緋色の帯でしめた宿禰だった。
 その足元に、ぽちが座っていた。
「ぽち!」
 ぽちはちらりと紅葉を見たが、駆けてきた吽形と呼ばれる狛犬にじゃれつかれて、二匹ともなって遊びだした。
 紅葉は呆然と、不思議な景色をながめていた。
 いつのまにか、大地には一面花が咲いていた。芍薬に竜胆がゆれ、秋桜の足元に桜草が咲いていた。まるで季節を無視した花畑だった。
 女のうしろには渓谷のような川が流れ、うつくしく咲く花の景色をかがやかせている。
 〈三途の川〉だ。
 そうとわかれば、こうしてむきあっている宿禰が、だれなのかわかった。
「大きくなったのね」
 紅葉は母に答えなかった。
 さまざまな花の匂いがまじりあって、不思議にあまい匂いがした。春の日向のように心地よいあたたかさだが、女は青白い顔をしている。宿禰の衣装である白の小袖が、死に装束に見えて、紅葉は嫌な気分になった。
「私のことを、恨んでいるでしょうね……」
 そうあってほしいという口ぶりだった。
 紅葉は、首をふった。
「どうしてあなたがわたしをすてたのか、考えることはよくあります。でも、恨んではいません。恨めるほど、あなたのことを知りませんから」
 母は目を見ひらいて、そして伏せた。
「そうね、そのとおりね」
 狛犬たちが走りだした。女のまわりを駆けて、ぽちが吽形を捕まえた。花の上をころころところがる。あまい匂いがふわっとひろがった。
「阿形はあなたのことを、ちゃんと守ってくれたのね」
「あぎょう?」
「私が守るようにいったのよ。阿形と吽形は双子なの。獅子と狛犬の子よ。久しぶりに会えて、うれしいのね」
 微笑ましそうに、女は二匹を見つめる。
「茜」
 男の声がした、と思えば、いつのまにか女のうしろに男が立っていた。明るい目の色をした快活そうな男だった。
 男は紅葉に気がつくと、笑みをうかべた。
「茜にそっくりじゃないか。こんなに大きくなって、まさか会えるとは思わなかった」
「あなた、それ以上紅葉に近づいてはいけません」
 思いがけず、厳しい声を茜が発すると、男は足をとめて、茜をふりかえった。
「……そうか、そうだな、僕らは死人だ」
 それにしても、と男は紅葉に視線をもどした。明るかった顔に、影がさす。
「母娘で宿禰、か……。世はまだ荒れているのか」
 ふたりは互いになぐさめあうように、よりそった。
 紅葉は守り掛けをにぎった。
 あまい花の香りがする。婆や葵や、浅葱や常盤、菫のことを紅葉は必死になって思い出そうとした。だが、思い出そうとすればするほど、花の香りが思考を奪っていく。
「紅葉」
 母と父は、娘を見ていた。
「ごめんなさい」
 その声は、紅葉の脳をゆさぶった。〈宿禰選択の儀〉で見た夢の声だった。
「日乃出里と夜乃出里の戦が起こったとき、あなたのように宿禰が選ばれたわ」
「それが茜で、僕は守別だった」
「それ以上聞かなくても、想像はつきます」
 聞きたくなくて、紅葉はふたりの言葉をさえぎった。
「あなたたちがしたことが、戦がつづく原因になったとは思わない。きっとだれが宿禰になっていても、戦はつづいていたと思います」
 ふたりをかばうわけではない。それぞれの役目を放りだして、恋に走ったふたりを、おなじ宿禰として紅葉は許せないと思った。だから、ふたりの話は聞きたくなかった。役目を放棄した結果が、自分なのだと思うと、自分さえも許せなくなりそうだった。
 けれど、きっとだれが宿禰になったとしても戦はつづいただろう。
 母の犠牲も葉月の犠牲も、そして紅葉自身の犠牲も世の流れの中では、とるにたらない犠牲。戦のあいだに犠牲になった人々や、そのときの宿禰に託した想いのすべても、戦という激流にもまれ、なすすべもなく散っていく。
 そう思えば、両親を責める言葉などなかった。
 だれも、この流れを止めることなどできない。天座大神、その人以外は――
 いかなければ。
 紅葉はこみあげてきた使命感に、身がひきしまるようだった。これまでの宿禰や彼女たちに託された、たくさんの想い。そして紅葉があずかってきた人々の想いを、天座大神にとどけにいかなければ。
 たとえその想いが、これまでのように打ち砕かれたとしても、砕かれたたくさんの破片は、岸に積みあげられ、やがて激流をおさえこむ力になるだろう。
「紅葉……、やっぱりあなたもいくのね?」
 母は、娘の気持ちがかたまっていく様子を見ていたようだった。
「わたしは宿禰です」
 紅葉の答えに、両親は心配そうな顔をしてよりそい、力づよくうなずいた。
「あなたなら、できるわ」
 母の声が、不思議と胸にしみた。
 顔をあわせても、母だと思えなかった人が、このひと言で、本当に自分の母なのだと、教えられたような気がした。
「ぽち、もういこう」
 両親に背をむけ歩きだす。
 が、紅葉はぽちがついてこないことに気がついて、足をとめた。両親の足元で、吽形とよりそうように座っているぽちは、紅葉の声がきこえなかったようだ。
「ぽち?」
 もう一度呼んでも、ぽちは紅葉を見ようとはしなかった。まるで紅葉が見えていないようだった。
「ぽち……、おまえは、そっちにいってしまうの?」
 しゃがんで、目を合わせても、ぽちはこたえなかった。
 紅葉は信じられず、言葉を失った。
「ぽちは、ここにいることにしたようね」
「そんな……」
 彩に嫌がらせをされたとき、守ってくれたのはぽちだった。巫女たちに仲間はずれにされたとき、側にいてくれたのはぽちだった。ひとりで、さみしくて泣いていたとき、よりそっていてくれたのは、ぽちだった。
 鼻の奥がつん、として、喉が苦しい。
 紅葉の知らぬところで、ぽちは自分の兄弟や、親しんだ紅葉の両親に会いたがっていたのか。
 紅葉は涙をこらえ、奥歯をかんだ。
 それでも、紅葉の側にいてくれたのだと思うと、これ以上側にいてと望むのは、わがままなことなのかもしれない。
 こみあげてくるものと戦って、紅葉は目を閉じた。
 ここは〈三途の川〉。
 亡き人との逢瀬の場。
 けれど、その代償は自らの命。
 ぽちとの暮らしを求めるならば、共にこの場にとどまればいい。
 だが紅葉は宿禰。
 ここで命を散らすつもりなどない。
「ぽち……、さようなら」
 言葉にした途端、ぽちの姿は急速に遠のいた。母と父がよりそいながら、心配そうに紅葉を見ている姿も、どんどん靄におおわれていく。あまい匂いは一瞬にして消え、紅葉はふたたび、靄の中にひとりでたたずんでいた。
 す、と熱いものが頬を伝って、落ちた。
 ぽちははじめから、紅葉と共にいるよりも、吽形といたかったのかもしれない。そう考えると、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「ありがとう、ぽち」
 頬をぬぐって、紅葉は歩きだした。