恋し、春待ち人
第八話 秋思 参




 〈三途の川〉は越えた。この先に、目指す霊山の頂上がある。
 浅葱はどうしただろう。無事だといい。
 そう願いながらも、紅葉はこみあげてくる孤独感に唇をかんだ。
 どちらへいけばいいのかわからぬまま、紅葉は黙々と足を動かした。山を登っているはずだが、道は平坦だ。だがそれも靄に視界を奪われていれば、たしかともいえない。
 紅葉は信じて歩いた。山頂以外にたどりつくべき場所はない。
 足元の靄が、すこしうすれてきた、と感じれば、すこしずつ周囲の景色が見えてきた。
 雑草さえも生えぬ大地。石ころ以外に何もない。わずかな勾配のむこう、かすかに朱色の鳥居のようなものが見える。
 山頂だ。
 紅葉は足をそろえ、息を整えた。守り掛けをにぎり、目を閉じる。
 思いうかびあがってくる言葉は、何もなかった。浅葱や常盤のことを思ってもいい。ぽちのことを嘆いてもいい。旅の終着地によせる想いがないわけではない。それでも紅葉の心は暗く、でてくる言葉も思いもなかった。
 守り掛けから手をはなし、目をあける。ゆっくりともちあげた足が、大地をけって、紅葉を前へおくりだした。
 一歩一歩が、身体に重かった。
 これまで苦もなく歩みつづけてきた。だがほんのわずかな距離に、ためらい、足をとめ、息を整えなければ、先へすすめない。
 紅葉は、やっとの思いで山頂へたどりついた。
 目を見ひらく。
「浅葱、さん……?」
 朱色の鳥居の前に、浅葱があぐらをかいて、待っていた。
 浅葱は紅葉を認めると、緩慢な動作で立ちあがった。
「待っていた」
「無事……だったんですね」
「ああ」
 胸に、何かがこみあげてきた。
 よかった、と思った瞬間、膝の力がぬけて、紅葉は座りこんだ。
「どうした?」
 あわてて浅葱が駆けよってきた。
「安心、して……」
 浅葱はわずかに表情をゆるめた。そして、ぽちの姿が見えないことに気がつくと、ふたたび表情を厳しくさせた。
「ぽちは?」
「ぽちは……、兄弟と共にいることを望みました」
 そうか、と浅葱はつぶやき、沈黙があたりを支配した。
「つらかったな」
 その、かすかな声に、紅葉の中ではりつめていたものが、ふ、とゆるんだ。奥歯がふるえて、喉が苦しくなった。
 浅葱の目元が紅葉のゆれをうけとめた。
 ぽろぽろ、と涙がこぼれた。
 紅葉はそれを止めることができなかった。
 嗚咽をあげながら、紅葉は泣いた。
 浅葱は迷ったあげく、紅葉を抱きしめて、その背をなでた。
 紅葉は、浅葱の胸で泣いた。
 泣いても、泣いても、つきあげてくる悲しみは、なくならなかった。涙が止まったかと思えば、またこみあげてきて、とまらなかった。
 浅葱は紅葉が泣きやむのを、辛抱づよく待っていた。紅葉をなぐさめながら、浅葱自身もぽちへの悲しみを弔っているようだった。
 やがて紅葉は涙をぬぐって、顔をあげた。
「浅葱さん、すみません……」
「謝らなくていい。大丈夫か?」
「……はい」
 かすかにふるえながら、紅葉は立ちあがった。よろけた紅葉を浅葱が支えた。
 紅葉は天を仰いだ。
 雲の中、ということになるのだろうか。青い空も暗い空も見えない。世界はただ、白か、白のつくりだす陰影しかなかった。
 大きく深呼吸する。何度も、何度も。
 波だった心が静まってから、紅葉は前をむいた。
 浅葱が紅葉を見ていた。
「浅葱、さん……」
 彼の背後には、鳥居が建っている。そのうしろは、真っ白な靄に包まれていた。靄の中がどうなっているのか、ここからではなにもわからない。
「最期にひとつだけ、聞いてもいいですか?」
「何だ?」
「どうしてわたしの守別になってくださったのか、まだ、理由を聞いていません」
 浅葱はにがく笑った。
「あのとき宮里の人々は、正気を失って冷静な判断ができなくなっているように思えた。だれかが宿禰の守別にならなければ、御社の存在意義も、宮里も崩壊する。そうなれば、戦の火は宮里にも飛んでくるだろう。それはさけたかった」
 ひと呼吸の間のあと、浅葱は紅葉と目を合わせ、いった。
「宿禰になった人物にも会ってみたかったしな」
 紅葉はかすかに笑った。
「まさか浅葱さんが守別になってくださるとは思いもしませんでした」
「それはこちらも同じだ」
 ふ、と空気がなごんだ。
「浅葱さん、今までありがとうございました」
 紅葉は深く頭をさげた。
「それは、まだ早い言葉だろう」
「え?」
「帰りもある。御社へ宿禰様をお送りしなければならない」
 紅葉はうつむいた。
「浅葱さんは、本当にわたしが世を平和にすると、思っているんですか?」
「もちろんだ」
「わたしの噂を、知っているのに?」
 浅葱の表情がかわった。
「わたしは、役立たずです。ぽちがいたから、今まで乗り越えてきました。でも、もうぽちはいません。わたしは、もっと役立たずになりました」
「旅をして、思ったことがある」
 つよい口調に、紅葉は、はっと浅葱を見た。彼の眼光もまた、おなじくらいつよかった。
「役立たずというのは、思いこみじゃないのか? すくなくともおれは、旅をしていて役立たずだと思ったことはない。だが、おまえがそう思えば思うほど、まわりの人間はおまえを役立たずなんだと思いこんでいく。宿禰として立ったときの紅葉は、役立たずではなかった」
 断言されて、紅葉は言葉を失った。浅葱が、これほどまで自分を見ていたとは知らなかった。
「おれは、紅葉が宿禰に選ばれた理由は、そこにあると思った」
「そこ?」
「本当は役立たずなんかじゃない。だれしもが、役割をもっているんだ。必要とされない人間なんて、いない」
 紅葉は、婆の言葉を思い出した。
――人には役割があるんだ。ひとりひとり、かならず役割を持っている。その役割に気づくか気づかないかは、その人しだいだ。
「わたしは、ちゃんと宿禰らしく振舞えていましたか?」
「ああ」
「わたしにも、役割があるんでしょうか? ――いえ、宿禰となって、世を平和に導くことが、わたしの役割……。きっと、そう……なんですね」
 自信がもてず、しりすぼみになる紅葉の背をおすように、浅葱は深くうなずいた。
「常盤も、菫も、葵も、おまえが帰ってくることを望んでいる」
「……はい」
 紅葉は守り掛けをにぎった。きっと、婆様もわたしの帰りを待っている。
 それにここへたどりつくまでに出会った、たくさんの人々の想いを、紅葉はあずかってきている。ここで弱気になって、託してくれた多くの想いを、無駄にするわけにはいかない。
「浅葱さん、ありがとうございました」
「それは、おまえを御社に送り届けてから、聞く」
「はい」
 紅葉はゆっくりと鳥居の下まで歩いた。浅葱がそのややうしろを追った。
 噴火口のように、鳥居から先はわずかに凹んでいる。だが、靄におおわれた世界は何も映しはしない。
 この先に、天座大神がいて、世の采配を下している。紅葉が宿禰として認められ、和魂をもらいうけられるかどうか、裁きが下されるのだ。
「浅葱さん」
 紅葉は浅葱をふりかえった。
「何だ?」
「もしも、待ちきれなくなったら、帰ってください。わたしは、それでかまいません」
「待っている。おまえを連れて帰らなかったら、おれにも帰る場所がない」
「……そんなこと」
「少なくとも常盤と菫にはどやされる」
 かるく笑いがもれる。
「でも浅葱さん、お願いです」
「わかった。どうあっても、待ちきれなかったら、いうとおりにする」
 見つめあって、言葉をなくす。こんなときは、なんといって別れたらいいのだろうか。互いに、かける言葉が見つからなかった。
 紅葉は一礼をして、浅葱に背をむけた。
 浅葱は無言で、紅葉のちいさな背を見送った。
 一歩ずつ、かみしめるようにすすんでいく、その背が靄に完全に消えてしまうまで、浅葱は紅葉を見つめつづけた。
 帰ってきてくれ、とひたすらに祈りながら。