恋し、春待ち人
第九話 垂雪 壱




 雪が舞っていた。
 はらはらとおちる儚げな雪を、浅葱は見上げた。降り積もった雪は浅葱の足音と、とおってきた跡を残す。
 葉を落とし、かわりに雪を身にまとった木々のむこうに、霊山がいつもとかわらぬ姿でそびえている。
 浅葱は荒れた日乃出里で、ときおり用心棒として雇われながら、紅葉の帰りを待っていた。
 冬にはいり、戦はやんだ。だがそれは紅葉の成功なのか、季節的なものなのかはわからなかった。ただいえることは、日乃出里人の生活は困窮しており、戦をしている余裕などないということだ。この冬の蓄えさえ、ない。
 浅葱は霊山にほどちかい樹海に小屋をつくり、そこで暮らしていた。そうして食料がつきるまで毎日霊山へおもむき、紅葉の帰りを待ち、食料がつきると里に出向いた。
 今日はひさしぶりに霊山へのぼる。
 一度〈三途の川〉をこえたせいか、あれ以来、死者に会うことはなかった。
 あのとき浅葱の前に現われたのは、祖父母だった。尊敬し親しんだ祖父母にもう一度会えたのは、浅葱にとってうれしいことだった。だが浅葱は彼らが死者であり、届かぬものであることを知っていた。
 祖父母は盗賊から浅葱を守って死んだ。七つのときだった。
 ふたりの死に様を思い出せば、浅葱の心は紅葉を守らなければという思いにかられた。祖父母は浅葱のそんな気持ちを尊重し、いけといった。
 山頂が見えてくると、浅葱はいつも安堵する。もしもふたたびあの花畑を見ることになったら、今度そこにいるのは祖父母ではなく、紅葉なのではないかと考えてしまうからだ。
 浅葱は鳥居の前に立った。
 紅葉の姿はない。
 あれから、二月半がすぎていた。
 しばらくのあいだ、浅葱は鳥居の奥にひろがる靄をながめた。やがて、背にかついだ荷をおろし、鳥居の脇に腰をおろした。





 そうして、時は流れた。
 雪は解け、あらたな息吹があちこちから吹きあがり、山はうっすらと笑いはじめた。
 その日も、浅葱は鳥居の前に座っていた。下界では、春のおとずれと共に、日乃出里の里長が亡くなったという噂がひろまっていた。と同時に、夜乃出里は日乃出里に対し白旗をふった。
 ふたつの里の動きに、里へおりていた浅葱は、いてもたってもいられずに、霊山へのぼった。
 戦によって停滞していた世の流れが、動きはじめようとしている。
 それは他でもない、紅葉の〈魂もらい〉が成功した証ではないか。
 息せききって霊山へのぼった浅葱だったが、紅葉の姿はなかった。
 浅葱はただひたすらに、待った。
 やがて、浅葱は靄が晴れてきていることに気がついた。
 もしやふたたび〈三途の川〉へ誘われているのだろうか。
 その不安は、靄の中にうかびあがった影を見て、ふくれあがった。
 時代は変わろうとしているのに、紅葉の〈魂もらい〉は失敗したというのだろうか。
 靄の中から姿をあらわしたものを見て、浅葱は目をまるめた。
 ぽちだ。
 ぽちはゆったりとした足取りで、鳥居へむかってくる。浅葱の存在に気がつくと、わずかにしっぽをふってみせた。
 鳥居の前にたどりついたぽちは、そこでお座りをした。そうして石にでもなったかのように、じっと動かなくなった。
 ぽちは〈三途の川〉にとどまることを選んだといって、紅葉は泣いた。このぽちは、はたして生あるものなのか、死したものなのか。
 浅葱が思案しているうちに、靄はじょじょに晴れていった。
 視界をさえぎる一切のものがなくなったとき、そこにひろがっていたのは花畑ではなく、一面の荒野だった。麓には樹海の萌ゆる緑。奥には日乃出里に戦場ヶ原、遠くかすむ海原。
 そこには、雲ひとつない下界の姿があった。
 こんなことははじめてだった。
 だがおどろくのはそればかりではなかった。
 鳥居のむこうにひろがっていた白い靄が、山頂の中央に集まり、ゆるく渦を巻いていた。それは天にむかってのびている。
 渦はごうごうと音をたてていた。上空ではすさまじい風が吹いているのだろうが、浅葱のいる場所には不思議なことに風がなかった。
 ぽちも巨大な渦を見上げていた。
 突然、浅葱はひらめいた。全身に鳥肌がたつ。
 天座大神が降臨する。
 紅葉は〈魂もらい〉に成功したのだ。
 カッ、と渦が光を放った。
 あまりのまぶしさに、目を覆う。目の裏で光がちかちかと飛んだ。
 光がおさまったあと、目をひらいて、浅葱は愕然とした。
 渦が消えていた。
 ぽっかりとお釜のような山頂が見え、そこに乳白と空色をたしてわったような、うつくしい湖があった。
 紅葉の姿は、どこにもなかった。