恋し、春待ち人
第九話 垂雪 弐




 裏の大巫女は春めいてきた空気を感じて、ひとつため息をついた。庭にみえる梅の木が花を終えて、若葉をしげらせている。
 紅葉が旅立って、一年がすぎた。
 荒れた一年だった。
 大宿司は紅葉がいなくなったのをいいことに、〈宿禰選択の儀〉のやりなおしを強行した。だが準備が終わらないうちに、宮里に戦の火の粉がとんできた。南から日乃出里の軍勢がおしよせたのだ。
 すぐに〈宿禰選択の儀〉をやめさせると、まもなく、軍勢は里から撤退した。
 大宿司も里人も、天座大神の怒りにふれたのだと気がつき、ようやく紅葉を宿禰だと認めたのだった。
 浅葱のいうとおりだった。いまでは彼を守別としたことは、まちがいなかったと断言できる。
 その浅葱の代理と名のる男が、ひと月前、紅葉は無事に霊山へたどりついた、と知らせてくれた。
 常盤というその男は、紅葉と道中を共にし、兵に襲われ母をなくした菫という少女をつれていた。紅葉に菫を御社へ届けるようにいわれたらしいが、菫は常盤からはなれることを嫌がり、結局ふたり共に去っていった。
 紅葉が霊山へたどりついたという報告に、婆は安堵し、同時に不安も抱いた。天座大神に受け入れられなかったら、紅葉は死んでしまう。それくらいなら、霊山などにいかず、どこか別の地で生きのびてほしい。
 大巫女としてあるまじき考えかもしれない。紅葉のことを忘れようとしても、思わぬようにしようとしても、ぽちとともに縁側でぽつん、と座っていた紅葉の姿がうかびあがってくる。
 せめて、人並みのしあわせを知ってほしかった。
 春にしてはめずらしいほどすみきった空を見上げる。雲ひとつない空は、その字のごとく空虚に感じられた。
 と。
 突然空が光った。雷鳴のごとく、光は婆の目をさしぬいた。あまりにも突然なことに、目がくらんでひらくことができない。
 バタバタ、と足音が聞こえてきたかと思うと、襖の前でぴたりと止まった。
「婆様、葵でございます」
「よい、はいれ」
 光にやられた目は、まだひらくことができなかった。
 襖がひらき、足の擦る音で、婆は葵がはいってきたことを確認した。冷静な彼にしてはめずらしく、息をきらしている様子だった。
「失礼致します。婆様、先ほどの光をご覧になりましたか?」
「見た。つよい光だった」
「はい。……あれは、霊山から放たれた光ではないでしょうか?」
「なんだと?」
 興奮するあまり葵は口ごもった。
「ただの想像です。ここからでは霊山を見ることはかないません。あの光を見たときに、紅葉の姿がぱっと浮かびあがったように見えたのです」
 ようやく見えるようになった目で、婆は空を見上げた。快晴の空が何事もなかったように、ひろがっている。
「〈魂もらい〉に成功したのか……?」
 問いかけても、答えられるものはだれもいなかった。裏の大巫女を務める婆でさえ、〈魂もらい〉の成功とはどんなことなのか、知らない。ただ、成功すれば、紅葉は無事に御社へ帰ってくるだろう。天座大神から授かる和魂をもって。
「宿禰様の帰りを待つしかなかろう」
 葵は深くうなずいた。



「しかし常盤様も変わられたな」
「ああ、ふらっと旅にでちまったかと思いきや、今じゃあ、荒れた農地の耕作を自らされてるんだからな」
「何があったんだかなあ」
「なあ」
 うなずきあったふたりを、常盤は睨みつけた。
「おい、人の噂をしている暇があったら、働け。全然すすんでないじゃないか」
「いやあ、常盤様もご立派になられて、わしらは感動しとるんですよ」
「まったくだ。これで戦が終われば、山越里も安泰だ」
 いいながら、ふたりは鍬をふるって溝をほった。
 常盤はその背を見ながら、やれやれと息を吐いた。
 紅葉たちには特別話をしなかったが、常盤は山越里の里長の嫡男だった。
 もともと相当な放蕩息子で名を知られていたが、葉月が〈魂もらい〉にでて死んだと聞いたあと、それはますますひどくなった。
 戦で徴兵されようと、隠れてでてこようともしない、里長の恥だと勘当された。
 紅葉たちと別れたあと、常盤はまっすぐ山越里へ帰郷した。その頃にはもう里にも雪が積もっていた。
 菫にはあたたかで安全な場所が必要だったが、常盤に頼れるのは故郷しかなかった。紅葉に花火を見せるという約束も手伝って、常盤は両親に頭を下げた。
 一度勘当した息子を、父は許そうとはしなかった。
 それでも菫がいたことで、母が父を説得し、門をくぐることを許されたのだった。
 しかし父は厳しく、春になったとたん、常盤に荒れた田畑を耕作し、実りがでるまで屋敷にはもどらぬよう命じた。
 そうして、常盤は住むもののいなくなった家を、なんとか住めるくらいに改築し、そこで暮らしながら毎日鍬をふるっているのだった。
 里の民家のまわりには、戦中でも細々と田畑は耕され、実りをつけていた。だが、家からはなれればはなれるほど、田畑は荒れ、雑草のひろがる荒野となっていく。
 常盤は手はじめに、民家にほどちかい田畑を耕した。雑草をぬき、土を起し、溝をほり、畦をつくれば、すこしずつ田畑はもとのかたちをとりもどす。
「こうしてると、平和になったような気がするな」
「ああ。そういや〈魂もらい〉にでた宿禰様がいるんだろう? もう平和になったんじゃないか?」
 ふたりはまた話をはじめた。
 農家連中の中でも、特に怠けぐせのあるふたりが、常盤に唯一与えられた仲間だった。丁字(ちょうじ)と刈安(かりやす)という。
『怠けてばかりいたおまえには、似合いだろう』
 と皮肉の混じった口調で父に告げられたときには、多少の苛立ちもあったが、ひとりで作業するよりは幾分ましだった。
「そうかもしれねえな。戦も知らないうちにはじまってたしな」
「ちげえねえ」
 ふたりは笑い声をあげた。
 のんきな奴らだと呆れながら、常盤は草をぬいた。
 丁字と刈安がやってくれるのを待っていたら、紅葉が帰ってきたときに、こんな情けない格好を見せることになる。それだけはさけたかった。
「おっと、あれに見えるは、おれたちの飯じゃないか?」
「ああ本当だ、ちっこいのが駆けてくる」
 ふたりの声に、常盤は顔をあげた。なだらかな道を、風呂敷包みを抱えた菫が駆けてくる。
 常盤は紅葉にいわれたとおり、菫を宮里の御社へ送り届けた。
 だが、冬のあいだ共に過ごしたせいか、常盤からはなれようとしなかった。仕方がなく、常盤は菫をつれて帰り、いまでは母の手伝いをさせている。
 はじめは、ひとり暮らしをはじめた常盤についていかなければならぬと、駄々をこねていた。母の提案で、昼餉の配達役となってからは、ようやく大人しく屋敷で寝泊りするようになった。
 菫は、常盤の三人目の妹となった。
 とびはねるように駆けてくる菫に、常盤が手をふると、にこりと笑った。
 と、突然、光が走った。一瞬のことだったが、思わず常盤は受身をとってしゃがみこんでいた。
「な、なんだあ、いまの?」
「雷か?」
 空を見上げても、雲ひとつない。何が起こったのか、わかるものはだれもいなかった。
 菫が蒼白な顔でかけてきて、常盤にとびついた。風呂敷包みが、道にころがっている。
「大丈夫だ」
 頭をなでてやると、菫は頭をぶんぶんふって、うったえるようなまなざしを見せた。菫は、まだ口をきけなかった。
 空にむかって指をさす。ちいさな指の先には、緑の濃くなってきた山が見えた。
 その山、その方角に気がついて、常盤は、はっと意味するものをさとった。
「紅葉ちゃん」
 つぶやくと、菫はうなずいた。
 呆然と見つめあって、ふたりはやがて口元をほころばせた。抱きしめあって、歓声をあげる。
「成功したんだ! 紅葉ちゃんは、成功したんだ!」
 菫は話せないかわりに、さかんに手をうち鳴らした。
「やった、やったぞ!」
 畑の中央で、よろこびあう常盤と菫を見ながら、丁字と刈安は首をかしげた。



 浅葱は立ちつくしていた。
 靄に消えた紅葉が、半年ものあいだ、飲まず食わずで生きているとは思えなかった。
 それでも、靄の中には紅葉がいて、いつかでてくるのだと待っていた浅葱にとって、目の前にひろがる景色はあまりにも無情だった。
 つよい山風が小石をころがし、お釜の水面に波をたてる。
 浅葱はこれが本当にたしかな景色なのか、確かめるために鳥居をくぐった。
 もしかすると、本当はまだ靄の中にいて、〈三途の川〉のように別の景色を見せられているだけなのかもしれない。
 突然、ぽちが吠えた。浅葱の行く手をはばむようにまわりこんで、鼻面でしきりにもといた場所へ戻るようにうながす。
「ぽち、おまえは紅葉が心配じゃないのか?」
 たずねても、ぽちは戻れ、戻れとくりかえすばかりだった。
 しかたがなく鳥居をくぐり、もとの場所へ戻る。ぽちは鳥居の下で、だれもはいらぬようにどん、と腰をおろした。
 気がつけば、あたりはうっすらと靄がただよいはじめていた。
 もう、紅葉はいないのだろうか。
 浅葱は途方にくれて、集まりつつある靄をただながめた。