恋し、春待ち人
第十話 風薫る




 いくつもの笑い声が、山に響いた。満開をむかえた山桜が笑い声に呼応するようにゆれ、はらはらと花が舞った。
 茶器がぶつかりあい、歌や舞が披露され、春のおとずれをにぎやかに祝っている。
 山桜をながめる高台は、里長の特別席だ。そこへむかう、一組の男女と犬がいた。高台の手前で、思い思いに花見を楽しむ里人を、微笑ましく見ている女を、先導するように犬が、守るように男がうしろをいく。
「やっときたな!」
 高台にいた男が、ふたりに気がついて手をふった。女がそれに気がついて、ちいさく手をふりかえす。
「紅葉様!」
 少女の明るい声が、山に響いた。
「……菫様?」
 駆けてくる少女は、すっかり背がのびて、身体にもまるみがでていた。声がかかれば、嫁にいってもおかしくない年頃の娘は、紅葉に思いきり抱きついた。
「紅葉ちゃんがあまりにも遅いから、待ちくたびれて声がでるようになっちまったよ」
 遅れてやってきた常盤がいった。こちらも随分としっかりした顔つきになっている。
「お待ち申しておりました」
 菫のふるえる目元に、紅葉もつられて涙ぐむ。
「こいつは紅葉ちゃんの帰りを、毎日神宿に祈ってたんだ」
「と、常盤様、あまりなんでもお話なさらないでくださいませ」
 真っ赤になって、菫は常盤を非難する。
「そうか? だけど紅葉ちゃんはよろこんでるぜ」
 な、と共犯めいた笑みを見せられて、紅葉は笑った。
「はい。忘れられていても、おかしくはありませんでしたから」
「そんなこと、ありません! 紅葉様に助けていただいたこと、忘れたことは一度もありません」
 紅葉は菫の手をとった。言葉なく、見つめあう。流れた年月の隙間をうめるように。
「紅葉様、今日はたくさんお話ができますよね?」
「もちろん」
 ふたりは笑みをかわした。
 紅葉はあらためて常盤の前に立った。
「常盤さん、約束、ずいぶんと遅くなってしまい、すみません」
 頭をさげる紅葉に、常盤はあわてて顔をあげさせた。
「何をいってるんだ。こうやって、また会えただけで十分だ」
 紅葉ははにかんで、背後に立つ浅葱を見あげた。
「浅葱さんのおかげです」
「おれはなにもしていない」
「でも、待っていてくださいました」
「それだけだ」
 黙ってしまった紅葉を、浅葱もまた黙って見下ろす。
 ふたりのやりとりを黙ってみていた常盤と菫は、ふたりのあいだに流れる、微妙な感情を察して、笑みをうかべた。
「ま、なんでもいい、よろこばしいことなんだ、祝宴といこうぜ」
「ささ、紅葉様はこちらへ。花見の特等席へご案内さしあげます」
 菫に腕をひかれて、紅葉は高台の先端へとむかう。その背を見ながら、常盤はふたりに聞こえぬよう、浅葱に話しかけた。
「あれから五年か? 長かったな」
 浅葱はうなずいた。紅葉が霊山へはいり、でてくるまで三年の月日があった。
 あきらめながらもあきらめきれずに、樹海での暮らしをつづけていた浅葱の前に、ある日ひょっこり紅葉が姿をあらわした。
 和魂を授かった紅葉を御社へと送り届け、それから一年半、浅葱は紅葉と顔をあわせることはなかった。浅葱は金角の鹿隊の再入隊の誘いを断り、森村へ帰った。
「巫女をやめたって話、本当か?」
「ああ、本当だ」
 だがこれまた唐突に、紅葉は森村の浅葱をたずねてきた。そうして、森村に住まわせてほしいといった。巫女はやめたから、と。
「よく御社が許したな」
「くわしいことは話さないが、黙ってぬけだしたようだ」
「何だって?」
 素っ頓狂な声に、紅葉と菫が目をまるめてふりかえった。常盤は手をふってごまかした。
「あとから、御社の人間がきた。連れ戻そうとしたんだが、紅葉が嫌がっていたから、おれが追いかえした」
「おい」
「紅葉は、ふつうの暮らしがしたいといっていた。家族がほしいのだと」
 常盤は黙った。久しぶりに見た紅葉のまなざしは、宿禰として会ったときよりも生き生きとしている。肩の荷をおろしたこともあるのだろうが、ひとりの人として受け入れられている安心感もあるのだろう。そして、それを与えているのは、他ならぬ浅葱なのだ。
「おまえこそ、里長になったそうだな」
 常盤は舌打ちした。
「どこで聞いた?」
「ここまでくる道中に、里人が話してくれた。昔の怠けぐせからは到底想像がつかないほど、よくしてくれるといっていた」
「ふん、一昨年、親父があっけなく病に倒れたからしかたなくなったんだ。まったく、ようやく平和になったってのに、何やってやがるんだか」
「菫もうつくしい娘になった。おまえの嫁になると聞いたが?」
 常盤は何もない場所でつまづいて、ころびかけた。
「な、なにいってやがる! あんな餓鬼……!」
「里人の噂だ」
 さらりといって、浅葱は真っ赤になった常盤を横目に追いぬいた。
「おまえな!」
「常盤様、早くいらしてくださいませ」
 菫と共に紅葉が常盤の到着を待っている。常盤は頭をかいた。
 高台からは、山の起伏にあわせて花のほころびのちがう山桜が、さまざまな顔をみせているのがよく見えた。あいまあいまの杉やケヤキなどの緑もまた、桜のうつくしさをよりいっそうひきたてている。
「きれい……」
「ああ」
 いつのまにかとなりに浅葱が立っていた。
 紅葉が見あげると、浅葱もまた視線をむけた。
 目があうと、くすぐったいような気持ちになって、紅葉は目を細めた。
 春。
 うららかな空気に誘われて、風が笑う。その風が紅葉の髪をくすぐり、とおい空へと舞っていく。
「紅葉」
 穏やかな声に、紅葉は我にかえった。ふりかえった先で待っていた、みっつの視線に、紅葉は笑みをかえした。


おわり

2010/07/23