恋し、春待ち人
色なき風 壱




  ツクツクボウシの鳴く声が、山里に名残惜しく響いていた。日は傾き山の向こうへと姿を消し、茜空に蜻蛉の影。
 狩りからもどってきた浅葱は、今日の収穫物を土間に置いた。茸と山菜がいくつか、それに山鳩だ。
 遠い東の里、日乃出里と夜乃出里が起こした戦を静めるため、数多の神を崇め祀る宮里の大社は、巫女から選ばれた宿禰を<魂もらい>の旅に出した。霊山に住まうという天座大神は、その山に集った御霊から世の流れを決める。<魂もらい>に出た宿禰は、大神に平和を祈り、聞き届けられれば世は平和になり和魂を持って、帰ってくる。
 その<魂もらい>の旅に出た宿禰紅葉の守別として、浅葱は旅を共にした。和魂を得た紅葉を大社に無事に帰したのは、一年程前になる。
 旅を終えた浅葱は、故郷の森村へもどった。そうして自分用の小屋を建てて、そこで暮らすようになった。土間と板の間だけの、ちいさな自分の城だ。
 土間に差し込む陽射しが消える前に、浅葱は急いで山鳩の羽をむしる。これがあれば、しばらくはまともな食事にありつけそうだ。
 わずかな残り日が、足音共に遮られて、浅葱は顔を上げた。逆光だが、誰だかわかる。よく見知った男、兄の楝(おうち)だ。
「やっと帰ってきたか」
「何かありましたか、兄上」
 言えば、楝はがたいの良い肩を怒らせる。
「何かありましたか、じゃない。すぐに家に来い」
 大股でその家に帰っていこうとする兄のあとを、浅葱は訝りながら追う。
「まったく、先日の見合いを断わったかと思えば、今度は宮里からおまえを慕って娘が来たもんだ。里に出て何をしていたんだ、おまえは」
 怒りながら呆れてもいる楝に、浅葱は言う。
「先日の見合いは、おれにはまだ所帯を持つような力はないと思ったから、お断りしただけです。それに宮里から娘だなんて、おれには心当たりがない」
「だが彼女はまっすぐに我が家に来て、おまえの名前を出したそうだぞ」
 誰だ、と浅葱は嘆息する。村に帰ってきてからというもの、やたらに所帯を持てと急かされて、うんざりしているところだった。
 村のあちこちから、夕餉の支度をしている煙やら、飯の炊ける匂いがしてくる。腹がすいているのを強く感じながら、浅葱は実家の門を潜った。
「浅葱、待っていた」
 入って早々、母千歳が待っていた。
「早くおあがりなさい」
 母は浅葱を急かした。まるで父を待たせているときのような急かし方だ。
 一体誰がやってきたのだ?
 急かされるがまま、案内されるがまま、浅葱は父の部屋へと入った。そこにちょこんと所在なさげに座っている人物を見たとき、浅葱は目を丸めた。
「紅葉……!」
 すこしクセのある黒髪を揺らして、紅葉は浅葱を振り返った。
「お久しぶりです、浅葱さん」
 感情の薄い顔に、ほんの少しの笑みを浮かべてから、紅葉は手をついて深く頭を下げた。浅葱はあわてて顔をあげさせる。
「どうしたんだ、こんなところまで」
 紅葉は和魂を受けとった巫女だ。大社では表の大巫女に据えるという話をしていたはずだった。それが何故、里娘のような格好をしてここにいるのか、浅葱にはわからなかった。
 顔をあげた紅葉は、口を閉ざしてうつむいた。
 浅葱は振り返り、まだそこにいた母と兄に目で退室するように促がした。ふたりの足音が消えるまで、浅葱はうつむいたままの紅葉をじっと見ていた。
 役立たずな巫女だと、紅葉は宿禰に選ばれたとき、大社でも宮里でも人々に認められなかった。だが、大業をなして、誰もが彼女のことを認めるようになったはずだ。人に認められたいと願っていた彼女の願いはかなったはず。
「ぽちはどうしている?」
 あえて別の話題を振ると、紅葉はようやく顔をあげた。ぽち、とちいさく名を呼ぶと、獰猛な顔つきの大ぶりの犬が庭の影から駆けてきて、紅葉の横に座った。紅葉は狛犬の耳の付け根をなでた。
「ぽちも元気そうだな」
「はい」
「それで紅葉はどうしてここに? 御付きの者はどこにいるんだ?」
 紅葉はまたうつむいた。
「……御付きの者はいません。ぽちと一緒に来ました」
 浅葱は顔色を変えた。
「大社から抜けてきたのか?」
 紅葉は答えなかった。だがその横顔に既に返事が出ている。
「どうして――」
 黙ってしまった紅葉は、膝に置いた手を何度も組みなおした。
 日が沈み、暗くなった室内に、母が灯りを持ってきた。その足音が聞こえなくなって、ようやく紅葉は口を開いた。
「わたしは巫女を辞めました」
「……なんだって?」
 浅葱は驚きのあまり、紅葉のほうに身を乗り出した。紅葉は床に手をつくと、まっすぐに浅葱を見た。その眼差しの強さに、乗り出した分の身を引く。
「実は浅葱さんにお願いがあってやってきました」
「願い……?」
「はい。どうかわたしをこの村に住まわせてください」
 浅葱は目を見開いた。
「わたしはふつうの暮らしがしたいんです」
 どうかお願いします、と紅葉は頭を下げた。
「お社では、おまえを大巫女にするという話が上がっていたんじゃないのか?」
「わたしには大役すぎます。それに<魂もらい>が成功したのは、その場その場の人々の想いがあったから。決してわたしの力ではありません」
「それはちがう、紅葉。おれはおまえと旅をして思った。おまえが願った、人に認められたいというささやかな願いが、この世を平和に導いたんだ。おまえには力があった。旅のあいだで会った人々の想いを感じとり、それを天座大神さまに伝えられる力があったからこそ、成功したんじゃないか」
 紅葉は黙った。
 灯火が揺れて、じじ、と油芯がはぜた。カナカナカナと虫の音が、さざなみのように押しよせ、引いていく。
「浅葱さん、わたしは<魂もらい>が成功することは、考えていませんでした。ただ、祈踏をした村々の人の想いを大神さまに伝えたいと思っただけです」
 浅葱は黙る。彼女自身が言うとおり、旅のあいだ<魂もらい>を絶対に成功させるという気持ちを見ることがなかった。あのときの紅葉の顔は、死を受け入れた顔だった。
「生きて帰ってきて、争いが減り、すこしずつ世の流れが変わっていると聞いて、よかったと思いました。菫さまが常盤さんと平穏に暮らしていける、千草さんが村を再興させられる。けれど世の中は変わっていくのに、わたしは何も変わってない」
 紅葉はぽちに手を伸ばすと、身を寄せた。
「そしていつも思い出すんです。<魂もらい>であったこと。浅葱さんと出会ったこと、初めて成功した祈踏のこと、きれいだった桜、静かすぎる海、谷あいの村で見た星空。常盤さんの笑った顔、菫さまのちいさな手のぬくもり、桜と花火を見ようって約束したこと」
 ぽちに顔を押し付けた紅葉の表情を、浅葱は見ることができなかった。
「ぜんぶ、全部、何もかも。思い出して、我に返るんです。ここには何もない。浅葱さんも常盤さんも菫さまもいない。大巫女になれば、約束した桜も花火も見られない。生きて帰ってこれたのに」
「紅葉……」
「大社から出たくなりました。大巫女になれば、大社から中小里に降りることもできなくなります。だからその前に、巫女を辞めて、外に出よう。里の人たちのように、ふつうに暮らしていきたい。そう思ったんです」
 感情が静まるまで紅葉は顔をあげなかった。浅葱は何も言うことができずに、そんな紅葉を見ていることしかできなかった。
 やがて顔をあげた紅葉は、そっと両手を床にそろえると、深く頭を下げた。
「ごめんなさい、浅葱さん。守別の任を解かれた浅葱さんを頼るのは、迷惑なことだろうと重々承知しています。わたしにできることならば、何でもします。ですからどうか、わたしをこの村に置いてください」
「……だめだと言ったら、大社に帰るのか?」
 紅葉は伏せたまま首を振った。
「常盤さんと菫さまに会いにいって……、そのあと、どこか置いてくれる場所を探そうと思っています」
 浅葱は困って嘆息した。とりあえず紅葉に顔を上げさせる。
「おれは長ではないから決められない。父上と話したいところだが、父上はいま鹿狩りで山にこもっている。二、三日中にはもどるはずだ。話が済むまで、この屋敷においてもらえるよう母上に話してみる」
 紅葉は頭を下げた。


「まったくおまえというやつは、ただの娘ではあきたらず、宿禰さまにまで色目を使ったのか」
 穂のつき始めた田の中で、草取りをしていた浅葱は、楝の言葉に顔をあげた。
「人聞きの悪いことを言わないでください、兄上」
 畦にしゃがんだ楝は片膝に肘をついて顎を乗せ、半眼になって目をつりあげた弟を見ている。
「母上に聞いて驚いたぞ。あの紅葉という娘は、先の<魂もらい>に出て和魂を持ち帰った娘だというじゃないか。あのとき俺は山にいて顔を見なかったが、おまえが守別となったと聞いてそれは名誉なことだと思ったのだぞ。なのにおまえときたら、宿禰さままでその気にさせて、巫女を辞めさせるなど」
 考えられん、考えられん! と楝はどこへとも誰ともなく叫んだ。浅葱とおなじ作業をしていた村人たちが、顔をあげて彼を見る。
 浅葱は田から畦へと出ると、むしった草の束を兄に押し付けた。
「おい、何をする」
「無駄話をしていないで、兄上も手伝ってください」
「無駄話ではないだろうが。これは大問題だぞ」
 再び田の中に分け入った浅葱は、兄を振り返った。
「紅葉は捨て子でした。大社で育ち、外に伝手がない。だからここに来ただけだ」
 むっ、と楝は黙る。
「あまり紅葉についてあれこれを言うなら、おれは兄上でも許しません」
 浅葱から立ちのぼった怒りを感じてか、楝は手と首を同時に振った。
「何もそこまで怒ることはないだろう。俺はただ心配しているだけだ。大業をなした宿禰さまが、どうして巫女なんて辞められる? 大社から宿禰さまをそそのかしたと難癖つけられるかもしれんぞ」
 紅葉は黙って抜け出してきたようだった。役立たずだといわれていた紅葉といえど、大業をなした彼女はもう立派な巫女だ。そうかんたんに辞めさせてはもらえないだろう。
 大社では紅葉を捜しているにちがいない。そして彼女が身を寄せたのが守別だった者の村となれば、そそのかしたと言われ、罪を着せられないとも言い切れない。
 だが浅葱は、紅葉に帰れとも言えなかった。
 紅葉が宿禰に選ばれたとき、大社だけでなく中小里の里人さえ、やりなおしを求めたのだ。それは自身を否定されたことと同じ。歓迎されればされるほど、以前の態度との差に不信感が膨らみ、居心地も悪いだろう。
 一日や二日でもいい、紅葉の心が休まる時間になればいい。そうすれば、迎えがきた時に、思いなおして大社に帰るだろう。
「そのときはそのときだ」
「……おまえな」
「それよりも兄上。あまり油を売っていると、桔梗さまに言いつけますよ」
 楝はぎくりと身体を揺らした。桔梗は兄の女房で、しとやかながら耳の痛いことをずばりという人だ。細面の美人でひと目ぼれして結婚したものの、尻に敷かれてはやまったと嘆いている。そういうこともあって、楝はひとり身の浅葱にかまうのだ。
「おまえには兄を思いやるという気持ちはないのか」
「だから次期村長が、草取りも手伝わない怠け者だと、村人の噂に上がらないよう思いやっています」
 苦々しそうにしながら、楝は立ち上がった。
「まったくおまえはできた弟だよ」


 草取りを終えて、夕刻よりは少し早い時間に家にもどった浅葱は、その家の窓から湯気が上がっているのが見えて、あわてて中を覗いた。
「おかえりなさい、浅葱さん」
 竃の前にしゃがんで火を焚いていた格好で、紅葉が顔をあげる。土間の片隅ではぽちが腹ばいになって眠っていた。
「何を……」
 驚いて、それ以上言葉が続かない。
「千歳さまが野菜を届けてほしいと」
 言って、紅葉は板の間においてあった、夏野菜の入った籠を手に取った。
「浅葱さんがおひとりで暮らしていることもうかがいました。それで、何かできることをと思ったんです」
 表情の少ない紅葉にしては珍しく、頬がゆるんでいる。
「実家を出ていたんですね、知りませんでした」
 言って、薪をくべる。竃では湯が沸いていた。傍に切った茄子があり、紅葉はそれを湯の中に入れた。
「紅葉、そんなことはしなくていい」
 持っていたまな板を取りあげると、紅葉は眉をひそめた。
「これでも御饌の用意をしていました。食べられるものは作れます」
「そうじゃない。父上との話が済んでいないいま、おまえはまだ巫女だ。こんなことはさせられない」
 途端に紅葉から感情の一切が消える。
「巫女はもう辞めました。それに巫女も、料理や掃除はします」
「ここと大社は違う」
 紅葉は口を閉ざし、うつむいた。ぽちがむくりと起き上がって、紅葉の足に擦り寄るようにして座る。
 その姿を見て、浅葱は突然<魂もらい>の日々を思い出した。雨の続く梅雨、見つけた山里の民家で、ぽちが狛犬だとわかり、宿泊を拒絶されたときの姿。
――ここでも、認められない。
 決して口にも表情にも出さない紅葉の想いは、あのときから何ひとつかわっていないのだ。
 わたしは何も変わってない、と言った紅葉の言葉の意味が、唐突に実感となって浅葱に押しよせ、胸が詰まった。
 大業をなしてなお、紅葉の願いはかなわなかったのか。
「……すまなかった」
 言うと、紅葉はわずかに顔をあげた。
「おまえは巫女を辞めたんだったな。どうもまだ、守別だったときの感覚が抜けないらしい」
 浅葱は腰につるしてあった鎌や竹筒を外した。
「それで、何を作るんだ?」
 沸いた湯の中で泳ぐ茄子を目で指すと、紅葉はちいさく答えた。
「汁物を……」
「そうか。では、楽しみにしている」
 紅葉は戸惑った顔で、言った浅葱を見つめた。
 大社からの迎えがきたら、紅葉を帰そうと思っていたが、やめた。紅葉は巫女を辞めたのではなく、逃げてきたのだ。
 紅葉の言ったふつうの暮らしとは、誰かに必要とされ、誰かを必要とする暮らしなのかもしれない。
 浅葱は土間の片隅にある水甕までいくと、桶に水を汲んだ。外に出てその水で顔を洗う。
「ありがとうございます」
 背にかかった声に、手ぬぐいで顔をぬぐいながら、浅葱は振り返った。
「気にするな」
 紅葉は頬を緩めた。
 彼女の作った汁物は、少々時間はかかったがおいしかった。