時間を味方にする
(鑑定のひろば’93.3)
時は金なり・時を得る・時を待つ・あたりまえのことだが、人は時間とのかかわりの中で生きている。人生は、浮き沈みもあれば、晴れたり曇ったりはつきものだ。
自分は、先月誕生日を迎え、54歳になった。生来、ナマケモノで、不器用なたちだが、楽しく手応えのある生き方をして来たと思っている。人に恵まれ、幸運にも恵まれている。
10数年前に不動産鑑定士として独立開業することを決意したときに、上司から、組織を離れることの困難さをさとされた。むろん、好意からの言葉ではあるが、いささか反発を覚えながら、自分は、時間を味方にした生き方をして来ましたから、たぶん何とかなるでしょうと、軽く応じた。ところが、その上司は、「時間を味方にするなんて大した自信の持ち主だ。君なら大丈夫だとおおいに感心された。はなむけの言葉として、おせじ半分としてもうれしかった。と同時に、自分にとってはあたりまえの生活信条が、その上司には、そんなに新鮮に聞こえたのかと、その方が驚き、新たな発見であった。
考えてみれば、金もない、能力もない、あるのは気力と時間だけの自分にとって、時間を味方にするというのは、誰から教わったわけでもないが、物心ついてからの生き方になっていた。
時間を味方にした生き方とは、どんなことなのか、以下、体験的に記してみたい。
時間を味方にするというのであるから、まず第一に、時間といかにかかわるか=時間をいかに使うかである。今、当面の問題のために、今の時間を使う。これでは時間は味方にならない。言うまでもなく、将来のために、今の時間を使う。そうすれば、時間の経過につれて、展望は開け、末広がりになることはまちがいない。
金の使い方にしてもしかりである。目先の利益のために、副総裁のもとに多額の現金を持ちこむなどは、愚の愚である。政治家に経済的な支援をするならば、額は小額でも無名の時代に応援してこそ、時間は味方してくれる。情は人のためならずである。
親の意見と冷酒は、あとになってきいてくるというわけだ。親の意見と言えば、子供の頃、母親がよく「その日暮らしの生き方をしてはだめだ」と言っていたのが思い出される。その日の稼ぎで、その日のコメやミソを買うような生活をしてはだめだ、と言った程度の意味なのだが、自分は、将来のために今の時間を使う(暮らす)ことの大切さ、つまり、時間を味方にする生き方が大切だ、と説いているものと受け止めていた。考えてみれば、時間を味方にするという生き方は、親譲りだったのか。
人物評価で、あの人は徳があるとかないとか言われることがある。徳のある人とは、人のためとか世のために善行を行っている人のことらしい。それも、人知れず行う、つまり、陰徳を積むというのが奥ゆかしくていいらしい。時の経過と共に、その善行が他人の口からもれ伝わる…。時間を味方にする典型ではないか。
言うまでもないことだが、時間を味方にすることと、時間を効率よく使う。つまり、ムリ・ムダ・ムラをなくすこととは、本質的に異なることである。効率化は、時間を大切にすることではあっても、決して時間を味方にすることではない。経験的には、むしろ、回り道こそ、時間を味方にする生き方だと思われる。
小さな目先のソロバンでなく、時間を味方にする大きなソロバンがはじけなくては、長い人生おもしろくない。