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2012年2月5日付の

NYタイムズへの寄稿記事

壇上でのやり合いから学ぶ

 

Jennifer Lind

50年前の月曜日、東京の早稲田大学の講堂でロバート・ケネディのマイクのプラグを何者かが引き抜きました。ロバート・ケネディ司法長官は、2年前に重大な危機に直面した日米同盟を回復する使命を帯びて日本へやって来ました。

 

その直面した危機は、そしてケネディの日本への旅は現在の同盟問題にとって、いやそれどころか、世界中の米国との同盟関係にとって学ぶべき重要な教訓を与えるものです。

 

1960年安保(条約)の危機は、ほぼ日米同盟を押しつぶしてしまいました。

日本人は、保守的政治家に対するアメリカの支持・支援に失望し、核兵器の危機における紛争のリスクに怯え、米国の沖縄支配に心から怒っていました。

 

首相は、野党を力づくで議場から排除したあと、むりやり国会を通過させやっと日米安保条約を改正できたのでした。抗議の波が東京を揺るがしました。ショックを受けたワシントンは、予定されていた大統領の訪問を安全性の懸念からキャンセルしました。

 

不安定な日米関係に危機感を募らせた両国の指導者たちは、引き続き同盟関係を修復しようとしました。ジョン・F・ケネディ大統領は、日本大使に、尊敬されているハーバードの学者エドウィン・O・ライシャワーを起用しました。教養の高い日本人の妻、ハル・ライシャワーと一緒に、ライシャワーは孤立していて傲慢な米国大使館を双方が互いに理解しあう関係に変えました。ライシャワーは、アメリカ国民がなかなか「精神的な占領」を止めないことに反対し、アメリカの同盟国との対等な協力関係を提唱しました。

また彼は、次第に大きくなっていくナショナリズムと沖縄に対する怒りは、いつか同盟関係を壊すだろうと憂慮し、米軍とケネディ政権に沖縄を日本に返還するように説得しました。更にケネディは、彼の最も信頼するアドバイザーである弟のロバートを、両国関係を修復するために日本へ派遣しました。司法長官はおきまりの(皇居への)表敬訪問や写真撮影は断りました。(儀礼的な晩さんで本質的なことにいまだかつて出合ったことがないとロバートは断ったのです)ロバート・ケネディは社会党幹部と議論し、連合や労働者の指導者達と会い、農場や工場を見学して回り、大学生達へ語りかけ、女性グループと会い、相撲や柔道を観戦しました。ロバートとエセル夫人は優れたスター性と親しみやすさで群衆を喜ばせました。

 

2月6日、早稲田大学講堂は聴衆と騒音で大混乱していました。ソビエト派のグループと中国派のグループは司法長官にむかって大声で叫び、ケネディの支持者たちはそれに対して怒鳴り声でやじり返しました。しかし、ケネディは、マルキスト達の群れの中でも特に興奮して大声で叫んでいる一人の学生を見ても慌てませんでした。彼は、立谷雄三というその学生に質問をするようにと促しました。それが、彼の云う民主主義のやり方だからです。そして彼は大勢の黒い(つめえりの)制服を着た学生たちの中へ手を差し伸べて立谷を壇上に引っ張り上げました。ケネディが礼儀正しくマイクを差し出しているのに対し、その青年は沖縄を皮切りに米国の政策を激しく非難しました。そしてケネディが答えはじめたときに何者かが彼のマイクの電源を切りました。テレビでそれを見ていた多くの日本人は日本の若者たちが大声を出して一人の外国の高官を黙らせたのをみて驚きました。ライシャワーが流暢な日本語で聴衆を静めるまで講堂では大混乱がつづきました。誰かがケネディに拡声器を手渡しました。

 

ケネディは聴衆と国民に、民主主義社会でのみ可能である対話の重要性について語りかけました。「彼はいらいらもせず、怒りもしなかった」とスタッフの一人ブランドン・グローブが回想しています。「彼は自分が何を云いたいかわかっていたし、自分が考えていることが正しいということを心の底から語りかけた」と。

 

そのあと一人の早稲田の応援団員がお詫びをしたいと云って壇上にかけ上がり、早稲田大学校歌の大合唱が観客席全部にとどろきわたりました。ケネディのグループは通訳が周りにいてすばやく音訳してくれたのでその合唱に参加しました。その夜は、またその訪問は勝利のうちに終わりました。

 

その後数年間、東京とワシントンは日米関係の修復を基本とした努力を続けました。日米の軍事的結びつきが強くなるにつれて、日米関係は経済、文化、技術、教育にも及びはじめました。ライシャワーは沖縄を日本支配に戻すという目標を達成することができました。沖縄返還は1972年に実現したのです。

 

1960年代の日米同盟の決裂と修復は米国の外交に重要な教訓をもたらしました。安保危機の時代には、同盟はあやふやな狭いもの――つまりワシントンとほんの少数の日本のエリートとの便宜的な「軍事結婚」のようなものでした。ロバート・ケネディの訪問から50年たちアメリカ国民は同盟が永続的な多様な階層の関係に変化したことを祝福すべきです。同時に前の失敗からも学ぶべきです。

 

ケネディ、ライシャワー時代のあと、ワシントンはやはり日本の反対勢力との関係を発展させるのを怠りました。それはライシャワーがよく嘆いていたことであり、2009年に野党である日本民主党が政権についた時に日米関係を「打ち壊した」ことです。さらに日米両国が沖縄の米軍基地への不安を解決するために努力をしているように、アメリカ国民も普通の日本人の心配事、――この場合は沖縄の人々の懸念に耳を傾けるという重大な役割があることを心に留めておくべきです。

 

もっと大きく云えば、ワシントンは驚くべき数の今日の同盟国が1950年代の日米同盟に似ていることに気づくべきです。バーレーン、パキスタン、サウジアラビア、イエメンに於て、ワシントンは、米国に悪意を持っている住民を統治しているほんの少数のエリートと手を組んでいます。もっと広く、もっと深い関係を築けないことがこのような同盟を危うくしているのです。

 

早稲田大学での対決から50年たち立谷氏(現在は不動産鑑定士で3人の孫の祖父)はこう回想しています。自分は当時のアメリカの政策に怒りを感じていたにもかかわらず、ロバート・ケネディが喜んで相手との議論に応じたことは称賛せざるを得ない……と。

今日でもアメリカを酷評する人たちと対決するという同じような試みは失敗に終わる可能性があります。しかし彼らもまた歌をうたって終わり、更に恒久的な同盟を達成するのかもしれません。

 

(ジェニファーリンドさんはダートマス大学の政治学の助教授で “Sorry States(謝罪国家): Apologies in International Politics.(国際政治に於ける謝罪)”の著者です。

 

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