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(故安藤政武氏の追悼文) 

共に過ごした熱く燃えた日々

高橋(立谷) 雄三

 

 1959年春、大学に入学した若者たちの前には「60年安保」の大きなうね

りが待っていた。

 祖国日本が、まちがった道に進もうとしている、安保改訂を機に再びアジア侵

略への道を歩み出そうとしている、そんな思いが若者の心を強くとらえる時代で

あった。

 心ある若者はそれぞれの部署で隊列をくみ配置についた。

 大学生協に安藤という活動家がいる、からだつきはキャシャだが弁は立つし行

動力が抜群だということだ。政経学部地下の学友会室を拠点にしていた我がグル

ープにも、そんな情報は早くからもたらされていた。

 運動を一まわりも、二まわりも大きくし、困難な局面にもひるまないリーダー

が求められていた時であった。

 「時代が君を必要としている」「安保のヤマ場はまったなしでやってくる」「第

一政経学部の学友会は君の全能力を必要としている」こんなころし文句で、我が

グループは安藤君を口説き落とした。

 1960年4月、第一政経学部学友会(学生自治会)クラス委員総会は圧倒的

多数で、安藤政武君を委員長に選出した。

 君は120%期待に応えてくれた。君のアジ演説に心を高ぶらせ、あすの行動

への勇気、運動への確信を深めた学友は多い。自分などは、今でも「安藤教」の

信者の一人である。

 「60年安保」とは何であったのか、そこで問われたものは何であったのか、

自分はまだ総括を終わっていない。しかし、個人レベルでいえば、あの熱く燃え

た日々を君と共に過ごしたことを、心から誇りにしている。又、国内政治として

は、あれほど多くの国民が祖国の進路を憂い、目先の利害・得失や私利私欲を離

れて行動したことは、我が国の歴史上もまれな出来事であったし、日本の民衆

パワーが地力を見せつけた一局面であったと考えている。

 国際政治史のレベルでも、日米共同によるアジアへの軍事的進出路線は、大き

な制約を受けたことは否定できない事実であろう。

 昨年5月、君が病に倒れ、入院していると聞いた時、自分はベトナムへの出発

の日が近づいていた。何をさしおいても、見舞いに行くべきか、予定通りベトナ

ムへ旅立つべきか、迷わなかったといえばうそになる。だが、おれ達の友情は

「戦士の友情」ではないか、戦いの途上で傷ついた戦友のそばにすぐに駆けつけ

るのが友情か、任務を遂行するため前進するのが友情か、ためらいつつも、自分

は旅立った。

 安藤なら、必ず、わかってくれる、安藤は戦士の中の戦士だ、と自分に言い聞

かせて、旅立った。

 

         (不動産鑑定士、元早稲田大学第一政経学部学友会委員長)

 

 

安藤さんを偲んで

高橋 ひろえ(高橋雄三の妻)

 

 1960年、私は青山学院の社研の友人たちとたびたび安保反対のデモに参加

しました。デモに行けば、必ずマイクを手にやや背をまるめてデモ隊の脇を行き

つ戻りつしながら、私たち新米のデモ隊に熱心に語りかけている小父さん風の人

がいました。それが安藤政武さんでした。

 それから10年後、福島で開催された生協大会に出席の折、私共の家にもお寄

りいただきそれ以来何度か訪ねて下さいました。デモの時の印象より、若々しく

お元気でいつも張り切っていらっしゃいました。

 不二家のミルキー、ペコちゃんのような童顔をほころばせて、夢を語り、明日

を信じて、楽しい話題はつきませんでした。

 当時、八方ふさがりの私は、おはなしを伺っているうちにすっかり元気になっ

て、なけなしのお金をかき集めて、安藤さんが新しくつくるという研究所へのカ

ンパとしてよろこんで差し出したりもしました。

 またいつの日か笑顔で、やあ……と手をあげ、明るく夢を語る日があるような

気がしてなりません。



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