(故三階徹氏の追悼文)
三階徹君と相馬で過ごした4年10ヶ月
高橋 雄三
三階徹、朝鮮・韓国名金鐘徹。1938年ソウル生まれ。38度線で「熱戦」
が始まった2年後の1952年春、母親の祖国日本に母・妹・弟の4人で帰国。
母親の郷里である福島県相馬郡中村町の中学2年に編入学。この中学で熱血教師
「大野博久先生」に出会う。
熱血教師は「優れた素材」を見逃さなかった。その年の夏から週一回のペース
で大野宅で矢野健太郎著『初等代数幾何学』をテキストに中学2年生6〜7人が
「初等数学」について特訓を受けることになる。今思えば、大野先生が「鉄は熱
いうちに打て」とこの特訓を始めたのは、三階という「素材」をどこまで伸びる
か育ててみたいというのが主な動機だったのではないかと思う。
私とは中学時代はクラスは一緒になったことはなかったが、この勉強会を通し
て個人的に親しくなり、昨年7月3日東京医大の病室で「最後の別れ」(自分とし
てはそう予感していた)をするまで52年余りの付き合いであった。
全く別々の人生を歩んでいながら、言葉にしなくとも何でも分かりあえる、お
互いに何でも話せる友人として付き合ってきた。
三階君親子が帰国して約1年後、後を追うようにして父親が日本に「帰国」し
た。ソウルの名家の一員として生まれ、日本の中央大学で学んだ父親であるから
日本に「帰国」したといっても大きく間違ってはいない。中学3年の夏の夜、こ
れから舞鶴に上陸した父親を出迎えに上野駅まで行ってくると、我が家に顔を出
した三階君のうれしそうな表情が目にうかぶ。
中学2年の春から高校を卒業するまでの4年余りの少年時代を相馬市で送った
ことになる。母親一人の働きで一家5人を支えていたわけですから、経済的な余
裕はなかったはずですが、そんなことは何も感じさせない振る舞い、雰囲気を持
った少年でした。ソウルでの生活が心豊かな少年を育てたのでしょう。クラシッ
ク音楽を愛し、相対性理論を論じ、ユークリッド幾何学次元の「初等数学」を本
気で勉強しながら、腕に覚えのある大人を囲碁でコロリと負かしてくやしがらせ
たりすることもあったようです。高校2年ぐらいまでは三階君を含めた私たちの
仲間は、自然科学への道、できるならその研究者の道を進むことが当然のことの
ように考えていました。しかし、時代の波は若者を世の中の動きに目覚めさせ、
心ある若者は世界を、現実の社会を、深く理解したいという思いがつのるそんな
時代でした。高校を卒業するころには、進路は、人文科学・社会科学への道を進
むと決めたようです。
上京後は、後楽園に近いヤクルトの販売店に住み込みで働きながら、2年間の
受験生活・入学資金獲得のための生活を送っていました。この2年のあいだに、
芝田進午先生のいる法政大学社会学部への進学をはっきりと決めたようです。
中学・高校・大学と経済的には人一倍苦労をしながら、社会科学の研究者への
道をしっかりと歩んでいたことを改めて思いしらされました。
大学入学後は、武蔵境駅に近い新聞販売店で働きながら大学へ通っていたわけ
ですが、その頃、三階君と会うのはデモの現場でした。お互い文字通り「デモク
ラシー」を実践していたわけで、三階君に会えるというのはデモに行く楽しみの
一つでした。
あと20年ぐらい長生きしてくれれば、激変・激動の世界を肴にして旨い酒を
酌み交わせたのにとの思いが残ります。