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このコーナーは普段の生活の中でいただいている神様からの恵みに、感謝の気持ちをこめた、小さな証し集です。
7月7日
野薔薇ーーーその2
わーい!薔薇が咲いた♪薔薇が咲いた♪♪真っ白い野薔薇がぁ〜♪♪♪〜
苦節13年目。ついに咲いたぞぅ〜!!(喜びの舞)
これであの何にも役に立たない邪魔者をわざわざ植えて・・という
冷たい視線から解放されるのだ。神様ありがとう。
肥料をやるどころかほったらかしで、日当たりの悪いジャングルの
ような我が家の庭では、花は咲かないのだとあきらめていたのに。
人は見捨てても、神様は見捨てる事なく見守り続けて、そして時が来たら
ちゃんと花を咲かせて下さるんですね。
でも13年は長い。野薔薇にとっても忍耐の年月だったんだろうな・・・
やっと咲いた たった1輪の野薔薇が雨を受けて揺れている。
それを見ているうちに テレビに出ていた人間国宝の人の言葉が思い出された。
アナウンサーがその職人技に感嘆して「本当に器用なんですねぇ」と褒めた。
すると「いやいや、私は人一倍不器用で、他の弟子が1度で出来る事ができない。
何度もやってやっとできるのです。他の人は器用なのでどんどん他の事に手を出し
いつのまにか居なくなってしまった。私は不器用でこれしかできないので、他の
事などする余地もなく、ただひたすらこれ一つをしてきたら、いつのまにか
人間国宝と言われる様に成っていたのです」
神様あなたは本当に真実な方ですね。小さな野薔薇にも人間にも。その忍耐を
決して軽んじられる事なく報いてくださる。

「あなたがたが 神のみこころを行って 約束のものを手に入れるのために
 必要なのは 忍耐です」
                    ヘブル書10章36節
       

4月28日
宇都宮のグレースさん、都内他教会に招かれてコンサート出演

07年4月8日、都内他教会に所属するクリスチャン女性が主催した第一回ゴスペルコンサートは、その教会を会場として友人、教会員、通行人が自由に参加する中で、心楽しいまさにイースターの祝
いの宴となった。
この第一回ゴスペルコンサートには主催者の古くからの友人ということでグレースさんもゲストの1人として招かれた。
グレースさんは毎回やすらぎに応募するも落選し続けたが、その落選したオリジナル曲を聞きたいという前代未聞のリクエストに応じたもの。およそ20分弱のオリジナル賛美3曲と各曲の証をトークするコーナーを与えられて出演した。
それが人の栄光ではなく神の栄光を現わして大変良かったという評判を得たので、その会場で不定期で行われるゴスペルコンサートにレギュラーとしてコーナーを与えられてしまったからサプライズである。ハレルヤ!
紹介したいグループを案内してジョイント形式のコンサートを開いて欲しいと主催者の女性から要請を受けた。 
ちょうど、教会のメッセージでは「相応しくない、力がないがスタート台」と語られており、グレースさんは「だから私はぴったりなんだ」と主のおことばを喜んでいる。
次回に向けて、自分は楽器が出来ないので私を演奏で喜んで助けてくださるグループと一緒に行きたい、と願いを語った。全て主に栄光!

1月24日
「主のみ顔を避けて」という題名の小説があったが、ヨナのように
神様の前を逃げ出した事がある。
あれは洗礼を受けて3年後、社会人になってからの事だった。
私の勤めていた会社は、いわゆる中小企業で土曜日が休みではなか
った。月曜から土曜まで1時間かけて会社に通い、日曜日には又
1時間かけて教会へ通う。当時母教会は神学校を卒業したばかりの
独身の牧師が着任していて、伝道に燃えていた。朝から夕方の5時
ぐらいまで、ビッシリと予定が組まれていた。1日中教会で過ごす
のが、普通の事だった。学生時代には、当たり前であったその習慣
が、社会人となり 負担になってきていたのだ。
さらに教会の他にも月曜日の夜に「聖書基礎講座」に 水曜日の朝
7時半から「御茶ノ水朝食祈祷会」に、金曜日の夜には 「ナビ
ゲーターの社会人女性のための聖書の勉教会」に出席していた。
(いずれもO S C C 内で無料であり、その学びを続けられるように
と、就職先を決めたのだ)
その結果 あまり丈夫なたちではなかったので、月に1度は有給を
使って寝込むというような状態になっていた。
見かねた両親に涙ながらに 「もう止めてくれ。こんな事では お
まえの体が持たない。病気になったとしても、教会が面倒をみて
くれるものでもない。1番お前の事を考え心配しているのは私達な
のだから 言う事を聞いて欲しい。」といわれた。
自分が神を求める事ばかりに熱心で、全然証になっていなかったのだ。
目の前で親に泣かれたのは始めてだったので、さすがにショックを受け
そこで立ち止まった。
そして週に1度の安息日と言うことで 日曜日を休むようにした。
さらに、会社の女子に付き合って遊びに行ったり 母親の勧める習い事
を始めたりもした。
その頃からだろう。どこへ行っても心の奥底の方から
「そこは あなたのいるところではない」
という神様の声が聞こえて来るようになったのは。
1時的にどんなにおもしろく楽しくてもその後には虚しさしか残らず 
そして又 あの神様の声が聞こえてくるのだ。
・・・そこは あなたのいるところではない・・・・と。
もう駄目だ。と思い奈落の底に落ちて、立ち上がれないと思った時に
その奈落の底のさらにその下に、神の御手が置かれており私を支え
続けているのを見た。
「わたしはけっしてあなたを離れず、あなたを見捨てない」
と、救いの時に約束してくださったみことばのとおりに 主の御手が
常に私の上にあり 置かれ続けていた。いつでも。どこでも。どんな
時にも。
そして神様は私のその放蕩の期間さえも益に変えてくださり祝福へと
変えてくださった。1人で教会をさった私は2人で教会へ戻る事と
なる。後に夫となる人を連れて。神様の御手の不思議さにプレイ
ザ ロード!

1月20日
女は騙されやすい?

旧約聖書によれば、女性が出産で苦しむようになったのは、エバが
蛇に騙された結果のせいだと書かれている。
母教会の人で、陣痛微弱で24時間も分娩台の上で苦しんだという
体験を持つ姉妹は、「思わずエバを恨んじゃった。エバさえ罪を犯
さなければ、私がこんなに苦しむ事がなかったのに」と話してました。
今まで ここの聖書の箇所を、いつも「女は騙されやすいから」と
メッセージで聞いてきました。けれどこの間本当にそうなのだろうか?
と、始めて疑問に思いました。
昔は男性が外に出て働き、テレビもラジオも無く情報も社会経験も男性
に握られていたから、そうだったかもしれないが、現在はどうなの
だろう。生まれながらに、機能的に女の方が騙されやすいという事が
あるのだろうか?
そこで、聖書を読み直してみて気が付かされた事があった。
エバは直接 神様からことばを受けていた訳ではなかったのだ!!
アダムが神様から聞きそれをエバに伝えたのであろう。だからエバの
蛇に対する答えが、神の言葉そのものでなく自分の解釈や憶測が付け
加わったものになっていたのだ。そして神の言葉がしっかり根付いて
いないからこそ、蛇に狙われる事になったのだ!
エバも自分自身で神様に聞き、神様から言葉を与えられていたら
おめおめと騙される事は無かったのではないだろうか?
人に言われた事を鵜呑みにするのではなく1つ1つ神様の前にでて
確認し、神様からのことばを受ける時に 蛇に付けいれられる隙が
無くなり騙される事がなくなるのだ。女であろうと男であろうと。
神様に直接聞く事が1番大切なのだとあらためて教えられました。
感謝します。
(でも神様、女は素直で純真で相手を信じやすいから騙されやすい
と思ってもいいでしょう?・・・ね )
12月31日
育児休業

日曜日が嫌いだった。
昔からそうだったのではない。クリスチャンになり 結婚して、
子供ができてからだ。
当時は教会まで車で一時間かかる所に住んでいた。洗礼を受けた
教会が 通っていた高校のある市にあった為に、そうなったのだ。
日曜の朝は忙しい。朝食を作り子供の面倒をを見て、洗濯や何やかや
で朝ご飯を食べる時間も取れない。主人はゆっくり新聞を読んで
まだ仕度ができないのか?と時計を見て時間を気にしている。
10時半から始まる礼拝に遅刻したくないのだ。そのうち準備が悪いと
怒りだす。いつも喧嘩だ。
同年代の他のクリスチャンホームの家庭は、皆、ご主人と奥さんが
別々に来ていた。ご主人は10時半に、奥さんは子供を連れて11時ごろ
に母子室に入るというような具合になっていた。しかし 私が
まだ免許を持っていなかったので、それは我が家では不可能だった。
神様、忙しくてやる事が多すぎて、祈る事も聖書を読む事もできません。
おまけに 日曜日はいつも教会へ行くために喧嘩になり もうやって
られません。いっそクリスチャンでなかったら どんなに楽かとさえ
思います。私は神様に訴えた。
そんな時に旧約聖書の預言者サムエルの母ハンナの箇所を読んだ。
祈りが聞かれサムエルが生まれてから乳離れするまでは、礼拝に上って
行かなかった。とある。当時の乳離れとは2〜3歳なので、最大3年も
行かなかったのだ。でも神様は怒ることなくさらに祝福のしるしとして
の子供をハンナに授けている。
私はこの聖書の箇所を根拠に神様に祈った。
「神様、子供が手を離れるようになるまで 育児休業をください。
きちんと祈れなかったり、聖書を読めなくても大目にみてください
あなたが ハンナに対して寛大であられたように私にもしてください」
そして、安心して育児に専念するようになった。
三女が3歳を過ぎたある日
「あなたの育児休業は 終わりました」
と、神様からの語りかけがあるまで それは続いた。
実に8年間も育児休業をしていたのだ。神様の懐の広さに驚くと同時に
その深いいつくしみに感謝した。神様ありがとうございます。私の我儘
を聞いてくださって。
12月24日
夏休みのご褒美

ご褒美頂戴、ご褒美ちょうだい。とあまりにしつこく言ったので 
ついに根負けして イエス様が聞いてきた。
「何がほしいのか?」と。
こうなればしめたものである。何を貰おう。イロイロ考えた。
でも、悲しいかな!自分の事は何も思い浮かばない。
出て来るのは子供の事ばかり・・・これが親と言うものなのだろう
「神様、娘が推薦で、希望の大学に入れるようにしてください」
我が家は今年 5度目の大学入試を迎える。
6年前の時にはあった体力と気力が今はない。
同じ子供なのに同じように面倒を見てやる事ができない。
おまけにこの娘に対しては、幼稚園の時から働きだしてしまい、
充分に手をかけて勉強を見てやれなかったという負い目があった。
勉強に対する基本的な姿勢を作ってやる事ができなかったのだ。
その私のミスを神様は憐れんでくださり、補ってくださった。
娘は無事、希望する大学への高校の学内推薦に通り、試験を待つように
なった。
ところが!そこに 降って沸いたような必修科目未履修問題の騒動。
推薦入試は内心書の配点が高く、どうなってしまうのだろうと不安
に、苛まれた。こうなったら徹底的に感謝するしかない。
すべては神様のみての中にあるのだから。祈っていくなかで神様からの
語りかけが与えられた。
「わたしは主、あなたの罪をおおうものである」
私の過ちや失敗を神様は覆ってくださり、益に変えてくださるというのだ。
同時になんとも言えない平安に包まれた。大丈夫。きっと受かる。
そして娘は無事、合格通知を受け取る事になった。
神様、尽きる事のないあなたの愛とあはれみを心から感謝します。
12月11日
じんましん

30年ぶりに、じんましんがでた。何に当たったのか見当がつかない。
確かに、毎日の仕事と 子供の塾の送迎で疲れきっていたところに
お餅を4個も食べるという暴飲暴食をした・・という身に覚えはある
のだが。
頭の中から足の先まで全身、果ては体の内側の食道から喉まで、炎症
を起こして腫れ上がり、痒みと痛みでひどい有様だ。
必死で癒しの祈りを繰り返す中で、思い起こされて来た事があった。
最初にじんましんが出たのは、小学校5年生の時。
体が第2次成長期に入り、子供から大人へと変化する変わり目だった。
次にじんましんが出たのは20歳の時。
短大を卒業して会社に勤め始める4月。環境も精神的にも成人として
の歩みを踏み出さなければならない変わり目だった。
そして今回。来年4月に娘が大学に入り上京すると、我が家は夫と2人
の生活に戻る、という大きな人生の節目を迎える。
アクセルを噴かして飛ばし続けてきた生活から、アクセルを離して
エンジンブレーキをかける 生活の変化を捉えなさい。
その為の備えの祈りに入りなさい。
と、神様が語りかけて来ていたのだ。
じんましんという手段をとうして、身をもって分からせようとしていたのだ。
何ひとつ無駄に成る事はないんですね。過去の辛かった体験さえも用いて
神様は語られるのだ。
でも神様こんな苦しくて分かりにくい方法ではなく、もっと簡単でやさしい
方法で語ってください。全てが益になっているという事はもうわかりました
から。感謝します。
11月14日
こころの傷

マザーテレサの創った「聖母の騎士団」の働きの一つに インドでの
孤児院の働きがある。
そこで スタッフの女性を雇う時に気をつけている事がある という
話を テレビでやっていた。
いったい何なんだろう?と興味を持ってみていたら こんな風に話され
ていた。
「スタッフになる女性のこころの傷が完全に癒されているかどうか?
を見るのです。インドは貧しく子供の時に、その貧困に傷ついた人
が孤児たちの世話をすると、ここの貧しさに耐えられないのです。
貧困の経験のない人の方が、貧しさに平気で耐えられるのです」
その話は意外だった。経験的に貧困を体験した人の方が、その対処法
も心得ており、貧困に対して強いのではないか?と思っていたからだ。
しかし 現実は 孤児の置かれた厳しい状況に昔の自分の姿を重ねて
しまい 耐えられなくなってしまうのだと言う。
その話を聞いていて ふとある事に気づかされた。
自分では傷ついていると言う事さえ認めることのできなかった 
心の傷に。そして、それがすでに癒されている事に。
我が家には娘がいるのだが、その子が成長するに従い、当然の事である
が お化粧に興味を持ったり、洋服に関心を示すようになった。
身に着ける服は自己表現の1つであり、自分自身の一部なのだ。
その姿を横目でみているうちに、ひとつひとつ薄皮をはぐように 自分
の中の「貧しかった子供時代の傷」が癒されていっているのを感じた。
「人は見かけではない、中身が大事なのだ」と自分に言い聞かせて
なり振り構わず化粧もしないで 頑なに歩んできた自分を、
くったくなく 化粧をし、着飾る娘の姿に重ねあわせる事により、
抑圧されていた過去の自分が解放されていったのだ。
「こうでなければならない。こうあるべきだ。」と自分を縛っていた
鎖が解けていきフレキシブルに自由に物事を考えられるようになった。
「キリストは自由を得させるために来たのです」
と書かれているが、過去の心の傷からの解放と自由を 神様は与えて
下さいました。今の私だけでなく、私が生まれてからの全てに心を配って
くださり愛を注いでくださる全能の神様に感謝します。
11月3日
月夜

百人一首に「月夜はものをおもわする」と詠まれているが
確かに同じ月を見ても 人の思う事はそれぞれであるようだ。
母教会にいた時、ある姉妹がこう言っていた。
「月を見ると、2千年前にイエス様もこれと同じ月を見られて
いたんだなぁと感激するのよね」
・・・彼女は月を見て人として歩まれたイエス様を思うのだ。
一方 私は月を見るといつも この月を創られたイエス様を思った
その創造のくすしい御業と御力を。神としてのイエス様を。

    もろもろの天は 神の栄光をあらわし
    大空は 御手のわざをしめす
    この日 ことばをかの日に伝え
    この夜 知識をかの夜に送る
    語らず いわず その声聞こえざるに
    そのひびきは 全土にあまねく
    そのことばは 地の果てにまでおよぶ

たれか おのれの過ちをしりえんや
    願わくは 我をかくれたる咎より
    解き放ちたまえ

           詩篇19:1〜4・12(文語訳聖書)

(天然ちゃんはこの聖書の箇所をクリスチャンになる前に萩尾望都の
 「ポーの一族」という漫画の中で覚えました。十代の記憶はしっかり
  残っていて詩篇19編と言うとこの文語訳が出てきます。)
10月27日
封印された祈り

こんなはずではなかったのに、と思う事が人生には沢山ある。
特にそう思わされるのが、結婚生活においてではないだろうか?
「釣った魚に餌はやらない」とはよく言われる言葉であるが、
確かに、結婚前と結婚後では違ってくる事が多々ある。
例えば、結婚前には「僕は面倒を見てあげるのが好き」と言って
いたのが、結婚後には「面倒をみてもらうのが好き」に変わって
いたり・・・それはお互い様なのだろうが・・・
もう我慢できない!!と神様に訴えたことがある。
というのは 誰と結婚したらいいのか判断できなかった私は 神様に
あなたの言う通りの人と結婚しますから責任を取ってくださいね。
と念を押して結婚したからだ。
それなのに・・・・
「神様あなたがこの人だと言うから結婚したのに もう我慢できま
せん。なんとかして下さい!」
ーーーわたしは 彼を愛している。わたしが愛している人をあなたも
愛しなさい。わたしを愛すると言うなら、彼を愛する事でわたしに
対するあなたの愛を示しなさい。−−−−
神が愛する人を私も愛する。神様の視点で。神様を愛するが故に。
なんとなく納得して その時は引き下がりました。
けれど4〜5年の後、私は又 同じ課題を抱えて神様の前に出ました。
「神様、もう駄目です。これ以上 主人に我慢できません」
しずかに、本当にしずかに主は語られた。
ーーーわたしが どれだけあなたを我慢しているかあなたは知って
いますか?−−−−
えっ?二の句がつげず思わず顔をあげてしまう。冷や汗が流れるとは
こういう事なのだろう。ごめんなさーいと慌てて逃げ出した。
確かに私が主人の事を我慢するより 神様が私の事を我慢しなければ
ならない事のほうがはるかに多くて大きいだろう。
それ以来 怖くてこの祈りは2度とできない。
封印された祈りとなった。
10月18日
無益な争いを避けなさい

今月も又 全市一斉清掃の日がやってきた。朝8時の集合で、班会の後
各自が自宅の周囲を草むしりする事になっている。
我が家の前の側溝に沿って、マーガレットやほたるぶくろが自生してい
るので、いつもそれを引き抜かないように気をつかって草むしりをして
いた。
ところが、それが気に入らない隣人がいて 何も残さず全部むしるよう
にと班長を通して申しいれてきた。他は皆きちんと草むしりをしている
と。
確かにその人の家は買ってきた綺麗な花で飾られている。雑草の花など
目障りなのだろう。でも私にとってはこの花々が心の喜びだったのに・・・
「神様どうしたらいいのでしょう?」
憤懣やるかたなくて、神様に聞いてみた。
ーーー譲れるものは譲りなさい。そして本当に大切な物、妥協しては
いけない物だけを守りなさい。それはあなたにとって根本的な生き方に
関わる事ですか?そうでないなら、すべて譲りなさい。ーーー
つまらない無益な争いは避けなさい と主は語られました。
はい、わかりました。マーガレットもほたるぶくろも又来年 生えて
きますよね。少し心が痛みましたが、神様の語りかけがあったので
平安のうちに草むしりを終える事が出来ました。
神様ありがとうございます。私の肉の性質では考えられない事です。
あなたの導きによって 自分の立場を主張して事を荒立てることなく、
自分を納得させられました事を感謝します。
10月17日
7月の白馬以降、宇都宮教会の賛美隊「喜びの油」も祝されています。9月8日(金)デイサービスセンターで45分のコンサートをしました。主の臨在が強く現れたので老人たちも若いスタッフたちも感動していました。歌う私も涙がこみ上げました。 レクリエーションの責任者は「きれいなコーラスですね!聴いていて癒されました。これからも続けて来てください!」私たちのリピーターになってくださいました。ハレルヤ!
 そして、その帰り、孤児たちのパネル展示をするためにボランティアサポートセンターに出かけて行ったところ、主はもう次の素晴らしい仕事を備えておられました。担当者に突然、「ニート対象のフェスティバル」を催す会の責任者を紹介され、「20分ですがコンサートをしてくださいませんか」と依頼されました。ハレルヤ!
 そして、新しく知り合ったギターのお友達が、路上コンサートを聞きに来てくださって感動した!と、度々ギター教室で宣伝してくれるので、教会に誘ったら「私、教会に行きたかったんです。誘ってくださってありがとうございます。」と、かしこまってお礼を言われてしまいました。そして約一ヵ月後本当に教会の礼拝に来られて後日、「11月になったら皆さんの教会に通いたいです」とおっしゃった。ハレルヤ!
 またそのギター教室に通うようになって半年ですが、ゴスペルコンサートのチラシなどを配って時々皆さんをお誘いしていましたが、コンサートに来てくださった男性の一人が、今度は話を盛り上げてくださって今月ギター同好会を立ち上げてくださった。「これからホームなど慰問してコンサートをやりましょう。私たちがギター弾きますから、あなたは時々歌ってくださいね。」   
えーっ!
私は驚いています。昨日のクラスでは以前から私が弾き語りを勉強したいと思っていた「上を向いて歩こう」の楽譜が何処からともなく持ち出されて、弾き語りバージョンのタブ譜を先生が作ってくださることになってしまった。そして皆さんで仕上げていくことになった。たしか私はギターを習いに来たはずでしたが皆さんの前で歌っている。そして先生がその横で決して濁ることのない澄んだ音色を響かせながらタブ譜を作っておられる。私が弾くのでは未だ出てこない美しい音色で!
私はイエス様と共に居ることは本当に楽しいことだとつくづく感動する。今度はどんな素敵なことになるのだろうかと胸がわくわくして来る。私はイエス様が大好きです!感謝と喜びささげて、主に期待します。
                                                      GK   
10月14日
悔い改めの完成

どうして同じあやまちを犯してしまうのだろう?
悔い改めたのに・・・
そう思った事が何度もある。
この間、テレビで「チャングムの誓い」を見ていたら、チェ女官長が主人公の
チャングムに赦しを請う場面があった。罪を告白して反省するから赦してくれ
と言うのだ。
それに対してチャングムは 真相を知っている自分にだけあやまって後は
うやむやにしてしまうのではなく、きちんと役所に出頭してそこで あった事
のすべてを明らかにして処罰を受けるのでなければ反省している事にならない 
と答えた。
中途半端な反省は その場を言い逃れるための口実の手段で、心からの真摯な
本当の反省ではない。と言うのだ。本当に反省したならば それには必ず
それにふさわしい行動がともなうはずだと。
それを見ていてハタと思い当たった。私の悔い改めは口先だけのものではなかった
のか?と
悔い改めなさい。と教えられているから悔い改める。悔い改めなければ祈りが
聞かれないから悔い改める。習慣になっているから、深く考えもせずに反射的に
悔い改める。
本当に悔い改めるという心の状態からは程遠い、浅い中途半端な悔い改め。
神様に告白して自分が赦してもらえば、それで安心して後は知らんぷりの悔い改め。
自分が行った事で傷ついた人や迷惑をかけた人への謝罪もせず、責任を取って
後始末をしようともしない悔い改め。
行動を伴わない自分の中だけで完結してしまっている自己中心のそんな悔い改め
だったのでは・・・・
だから、同じ間違いを繰り返して そこから抜け出せなかったのではないのか?
悔い改めには行動がともなう。行動が伴った時に始めてその悔い改めは本物になり
完成されるのではないだろうか?とテレビを見ていて教えられた。
「カイザルのものは、カイザルに」と書かれているが 神様に対して犯した罪は
神様に 人に対して犯した罪はその人に赦してもらう必要があるのだろう。
神様、悔い改めって奥が深かったんですね。
どうぞ鈍い私ですけれど、本当の悔い改めを教えてください。そして御心に適った
悔い改めをあたえてください。

10月6日
人はそれを偶然とよぶ

ズーッと心にかかっていた疑問があった。
三原順という漫画家が書いた「はみだしっこ」という作品の中で主人公の
一人が牧師にむかって言うセリフにこう書かれてあった。
「そのイエスという人は笑った事があるの?僕は精神衛生上、笑わない人
とは付き合わない事にしているんだ」
その言葉は私の心に刺さった。
何度も福音書を読み返したが、確かにイエス様が笑ったという記事は
なかった。イエスは泣かれた。イエスは憤られた。という記事は見つけたが
イザヤ書にも「悲しみの人で病を知っていた」と書かれている。
イエス様の人生は辛く悲しい事ばかりだったのかしら?十字架にかかる為に
生まれてきたのだから、それは仕方の無い事なのかもしれないけれど・・・
十代の時に持ったその疑問の答えを貰ったのは、三十代も半ばになってから
だった。
当時、義母が胃の全部と大腸の八割を摘出するという手術を受けたが、子供
達が皆アパートや社宅住まいで同居できない状態だった。そこで長男である
主人が、慌てて家を買ったのであるがバブルの頂点で家も金利も最高に高い
時だった。そして借金の返済に苦労するようになるのであるが・・・
ある日、新聞の住宅ローン金利を真剣に見ていた私に聖霊様が語られた。
「ずいぶん熱心にみているんですね」
-----それは そのくらい熱心に聖書を読めと言う嫌味か?ムッとして私は
答えた。
「イエス様、あなたにとってはこんな金利は如何でもいい事でしょうが、私
にとっては大問題です」(生きて生活しているんですからね!)
するとイエス様は笑われたのだ!!本当に!
あなたはその問題を一度もわたしに祈りませんでしたね。わたしにはそれを
解決する力が無いと思っているのでしょう。
そう言うと主は去っていかれた。
それからだ。6パーセントに張り付いていた金利が下がりだしたのは・・・・
他の人にとっては、それは偶然だろうが、私にはあの時笑われたイエス様の
あの何でも出来るんだよという自信が思い起こされてならない。
そしてイエス様の微笑みが今も思い返す度に心によみがえって来る。
ああイエス様、笑われるんですねあなたは。それがとても嬉しい。
9月24日

恵みによって

子供が生まれた時、子供は是非キリスト教の幼稚園へ通わせたい

と思った。私自身がそこで始めて神様の事を聞き祈りを教わったからだ。

念願かなって次女と三女はキリスト教の幼稚園に通う事が出来た。

その幼稚園ではクリスマスの度に子供に違ったクリスマスリースを作らせて持ち帰らせてくれた。それが家での楽しみにもなっていた。

パッチワーク風の布でできたリース、様々な形のマカロニでできたリース、木の枝でできたリース。松ぼっくりが付いていたり鐘が付いていたり・・・

しかし、ある時幼稚園の先生がポツリと言った。

今年はどんなのを作ったらいいのかとアイデアが無くなって来てクリスマスがクルシミマスになってしまっているのよね。

最初は楽しみだったり喜びだった事が重荷となってしまう、そんな事が、よくあるような気がする。

恵みで行っていたものが、恵みでは無く義務となった時にそれは重荷になってしまうのではないだろうか?

昔、よくこんな祈りをしていた。

神様、救いはタダだったはずです。今さら「行い」と言う請求書をつきつけないで下さい。良い行いをしなければならないといわれるなら、私はクリスチャンにはなりませんでした。良い行いができない罪人だからこそクリスチャンになったんですからね。そこの所をお忘れなく。

今さら「良い行い」を云々するならそれは詐欺ですよ!あなたは私がどお言う者かよくご存知のはずです。

恵みによって救われたのですから、恵みによって成長させて下さい。

あなたの責任で、恵みによって救いを完成させて下さい。どうぞよろしく

・・・・その祈りほ今も続いている。

9月22日
栗の木

ここに引っ越してきて始めて庭というものを持った。アパートや
マンションでは、ベランダに発泡スチロールの箱を置いてその中に
土をいれて、おままごとのような家庭菜園?を試みたりしていた。
だから庭ができた時、とにかく食べられるものを植えたいと思い、
栗の木を植えてみた。桃、栗、3年,柿8年というけれど本当に3年
目ぐらいから実をつけるようになった。でも小さくてイガばかりで
中身がほとんどない。そのくせイガはしっかりしていて刺さると痛い。
この栗の実の始末がなかなか大変だった。燃えるゴミにだすか、集めて
焼却していた。
農家出身の近所の人には、「栗の木は大きくなると大変だよ。木の下には
何も植えられないし、イガは腐ってもささると痛いし。うちなんてこの間
面倒だから切り倒したばかりだよ」と言われた。
5年くらい前からやっとしっかりした実の入った栗が生るようになり、
喜んでいるのではあるが・・・農家の知人の言葉は真実だった。
毎年、前年やもっと古い?取り除きそこない捨てそこなったくりのイガに
刺されて痛い目を見る羽目になった。それは土の中に隠れていたり雑草の
影になっていたりで、すぐにそれとは気がつかない場所にあり、手を傷つ
けてしまうのだった。
・・・・・その時ふっと御言葉が浮かんできた・・・・
「苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたり
することのないように・・・」ヘブル12章15節
取り除きそこなったイガ栗のトゲが普段は地中や草の陰に隠れていても、又
腐る程の時を経ていても、何かのきっかけで表面に出てきた時に、それは
十分自分を傷つけ人を害する力があるのだと神様が語りかけてこられました。
ーーーあなたのイガ(罪・心の傷)は処理されていますか?と。
深く心を探られる時となった。
今年もまた栗の木の実る季節となった。栗を拾うたびにあの時の神様の言葉
が心をよぎる。神様、自分の力では 罪を取り除く事も傷を癒す事もできま
せん。それはすべてあなたの御手の中にあります。主よ、御心のままに
あなたがそれを取り扱い取り除いて下さい。私はいつもあなたの御手の中に
います。
9月3日
夏休み

子供の頃は夏休みが待ちどうしかった。40日ものお・や・す・み!
何をしよう。どこへ行こう。と宿題は嫌だったけれどルンルン♪だった。
・・・それが今は、早く終わってくれ〜と心秘かに願っている。
家を出た娘達は自由な生活を満喫していて、○○へ旅行に行くよ〜。とか
おいしい○○を食べに連れて行くから、と餌をぶら下げないと帰って来ない。
夏休みはバイトのかきいれ時で、バイトをして稼がなければならないからだ。
主人は子供たちが帰って来るのを心待ちにしている。一家団欒がしたいのだ。
その結果、私には夏休みのプランをたてるのから手配まで全て余計な仕事が
増える事になる。神様安くて、近くて、行ったことがなくて、皆が楽しめる
場所を教えてください。この祈りを毎年する事になる。
おまけに食事のしたくも洗濯物も3人分から5人分へ増え家事の量も増える
というダブルパンチ。50歳を超えた身には今年の暑さも加わり堪えました
・・・主婦にも夏休みを! 
なぁんにもしなくて良くて、ご飯が出てきて、ユックリ休めて、神様、主婦
にも夏休みをください。夫に仕え子供に仕えで、仕えるばかりの人生はもう
嫌です。こんな事を思うのは私だけかと思っていたら、こんな言葉を見つけた
 「頑張った自分へのご褒美」お菓子のメーカーが女性向けの広告のキャッチ
コピーに使っていた。気をつけてみると女性誌にもよく書かれていた。
自分で自分へのご褒美として買いましょう、と。フーンご・ほ・お・び・ね
神様、ご褒美ください。夏休みのご褒美を!
9月2日
口癖

長女がまだ幼稚園か小学生だった頃、テレビでよく漫画映画のCMをやって
いた。「ドラえもんとのびたの○○○○」
それを見て必ず 見に行きたい〜と長女にせがまれた。しかしケチな私は
2時間の漫画に親子合わせて2千円以上のお金を出す気になれなかった。
しかも夏休みと冬休み、年に2回もあるのだ。1度連れて行ったら癖になっ
てしまう!なんと言ってごまかそう。
「そのうちテレビでやるから」言い続けて半年、次の新作の発表前に映画
はテレビで放送された。「本当だ」長女は喜んでテレビで映画を見ていた。
それからは、テレビでCMが流れるたび「そのうちテレビでやるから」と言う
のが私の口癖となった。
それを聞いて育った長女も「そのうちテレビでやるんだよね」と、自分に
言い聞かせるようにいっていた
次女が幼稚園になった時、やはりテレビのCMを見て、映画見に生きたーい!
と騒いだ。するとすかさず「今にテレビでやるから」と長女が諭していた。
私の出る幕は全くなかった。
サロメが母親の意を汲んでバプテスマのヨハネの首を求めたように、何も
言われなくても子供は親の意向にそって育つのだ。嬉しいような怖ろしい
ような・・・
子供は親に似るというけれど、私はちっともあなたに似ていませんね神様。
鏡のように主の栄光を反映させながら変えられていくと書かれているけど・・
でも、あなたの約束は真実だから必ずそうさせて貰えるのでしょう。ただ
ただ、あなたの恵みにより頼みます
8月31日
寛容

あなたがたの寛容な心を すべての人に知らせなさい。(ピリピ4:5)

「ダーリンは外国人」と言う漫画を読んだ。その中で主人公が洗い物を
夫に頼む話が書かれていた。そして引き受けた夫が自分の言ったとおり
にしない、と喧嘩をするシーンが出てくる。その時の夫の言葉がふるって
いる。「僕にまかせた洗い物は僕のやり方で僕がやりたい時にやらせてくれ
君が次に食事の支度をする時までに片付いていれば問題ないはずだ」
夫の言う事は理に適っている。しかし主人公は自分と同じように食後にすぐ
しかも自分と同じやり方で夫が洗い物をしない事が気に入らないのだ。
これを読んでいて、同じような経験があると身につまされた。
聖書に書かれている九つ御霊の実。
最初の三つは神との関係、次の三つは人との関係、最後の三つは自分自身
との関係で結ぶ実であると教えられている。
その人間関係の筆頭に神様は「寛容」という言葉をおかれた。そればかり
ではない。愛の章といわれる第一コリント13章にも愛の具体的な姿として
一番に「愛は寛容であり・・・」と書かれている。
寛容こそが対人関係においてまず第1に求められる資質なのだろう。しかし
それが筆頭に置かれていると言う事は、いかにそれが難しく出来ない事である
かの、表れでもあるのだろう。自分のやり方、考え方が1番正しい。他は誤って
いると人間は思いやすいのだ。自分と同じように考えやって欲しい・・・しかし
それは無理だ。違う人間なのだから。その違いを受け入れ、相手のやり方で
やらせる、それが寛容の第1歩なのではないだろうか?
遅くても回り道に見えても本人が納得するまで、神様は待ってくださる。その
神様の寛容さと忍耐を感謝し見習いたい。
8月3日
電信柱

むかし、田園風景の中に立っている電信柱をいつも邪魔者扱い
をしてみていた。せっかく見晴らしのよい広大な景色に水をさ
し、垂直にたつその機械的な姿は、のどかな風景をぶち壊している
と思っていたのだ。だからイスラエルやトルコの草原の広々とした
景色に感嘆の声をあげていた。(すばらしい!と)
しかしその私の思いは変えられる事となった。
フィリッピンのダバオに行った時、空港から宿泊施設の家まで1時間余り
1度も信号機を見ることなく、車は対向車に警笛を鳴らしながら走った。
車窓から見た道路沿いの風景は、映画で見た終戦後の日本の風景を思い出
させた。はだか電球が連なってあかりを灯しているが、薄暗い。
信号機も電気で動いており、電気がきてないから信号が無かったのだ。!
そんなあたりまえの事に始めて気が付かされた。
さらに
カンボジアの孤児院に行った時、朝まず市場でその日に食べる食材を買う
事から1日がスタートすると聞いた。それから家へ帰り朝御飯のしたくを
すると言う。日本の理事から冷蔵庫ぐらい買っても贅沢ではありませんよ
と言われたそうだが、1日に何度も停電するので、冷蔵庫に入れておいても
食料が腐ってしまうので、役にたたないから買わないのだ、と言われた。
確かに孤児院にいる間だけで1日に2回は停電していた。
ザンビアの孤児院でも電気を引いてくるのに2年もかかっている。
当たり前だと思っていた電気のある生活。それを運んで来ているのが、送電線
であり電信柱だったのだ。電信柱は豊かさの象徴なのかも知れない。
どこまでも続く水田の緑のなかに立ち続ける電信柱.その遠景を見ながら
感謝の気持ちがあふれてきた。神様、平和で豊かな日本に生まれさせてくれて
ありがとうございます。当たり前だと思っている事のなかに、多くの恵みがあ
ふれていた事に気づきませんでした。傲慢だったことを赦してください。どうか
もっともっと、感謝の気持ちを持つ人に変えてください。

7月20日
ほたるぶくろ

始めてこの家に引っ越してきた年、始めて持った庭でほたるぶくろを
見つけた。種も蒔いてないのに生えてきていつの間にか花を咲かせて
いる。何だかとても得をした気分になり嬉しかった。白とあずき色の
二色があり、釣鐘のような姿で下を向いて咲いている。可憐な野生の花。
それがいつの間にか姿をけしていった。庭に手を入れいろいろな植物
を植える間に・・・
神様もう1度ホタルブクロが欲しいです。また生えてきますように、
祈って待ったが全然芽を出さなかった。
それが今年の6月に家の前のどぶに沿って4〜5本花をつけて咲いた。
不思議に思い注意して見てみると、去年まで雑草だと思って抜いていた
葉の間から芽を出していた。・・・祈りは答えられていたのだ。
ただその事に気がつかないで、祈りの答えをセッセと引き抜いていたのだ
〜〜あぁ〜何と言う無知。知らないって恐ろしい!!
神様もさぞあきれたでしょう。
嬉しかったり、悲しかったり複雑な思いをさせてくれたホタルブクロは
白一色しかなかった。神様あずき色のホタルブクロもください。今度は
引き抜きませんから、そして名前の通りに蛍を入れさせてください。
7月10日
祈りの証〜〜〜RART1〜〜〜

ーーあなた方のうち二人が心をひとつにして祈るならーー

「おかしい、祈りが聞かれない!!」
救われたばかりの主人が真剣な顔をして言って来た。
今から20年以上昔の話だ。
「何をそんなに祈っているの?」
当時は1Kの公団住宅に住んでいた。長女も生まれ、
何不自由なく暮らしていたはずなのだが・・・
「1K から2DKの部屋に移れるように祈っている
んだ。それなのに抽選に落ちるなんて、神様は僕たち
の必要を知っているはずなのに・・・」
それは聞かれるはずがない、と主人の話を聞いてすぐに
思った。なぜなら一部屋だって掃除するのが大変なのに
それが二部屋に増えるなんてとんでもない、と私は思って
いたからだ。当然祈り求めてもいなかった。
もう一部屋必要だと、切々と訴えて祈っている主人の姿
を見て慌てて悔い改めた。神様ごめんなさい。夫の祈り
を聞いてください。
2DKの公団住宅に移ったのはそれから二ヶ月後だった。
抽選の補欠に当たっていて繰り上がって当選したのだ。
あまりに速やかに神様が働かれたのに驚かされた。まるで
二人が心を一つにして祈るのを待っていたかのようだ。
そして、人の心をご覧になる主を畏れた。神様、私たちの
心の思いがいつもみこころに適ったものでありますように。
7月9日
ブログ
忙がし過ぎて心が物事に感動すると言う事が無くなっていた。
ニュースで痛ましい事件が続くのでテレビを見る気も起こらない。
助けてください。神様。心が乾ききって干からびています!
久しぶりに読んだ古い新聞に、イラクで拉致された今井紀明さん
のブログの記事が載っていた。批判や非難のコメントが3日で約
6千件あり、夜を徹して目を通すうちに涙がこぼれた。と書いて
あった。それを読んでいて思わず涙があふれてきた。
神様、みんなが自分の正義を持っていて、それがぶつかり合って
人を傷つけています。それぞれの言い分があり、それぞれの立場
がありそれぞれのそう考えるに至った背景があります。
神様哀れんでください。何が正しいのかさえ判断できない私達を。
正義が暴力となって人を傷つけているのを。
自分の正しさを主張するパリサイ人に厳しかったイエスさま。
人は誰も己の義を持って神様の前に立ちおおせる事はできない。
「義人はいない。ひとりもいない。」
神様の目から私たちを見ればみな等しく罪びとにすぎないのだ。
神の義をあらわす為に、イエスさまは十字架にかかって私たち
の罪の為に死んでくださった。誰一人にも理解される事なく。
ほふり場に引かれていく子羊のように黙して語らず、自分の義
を主張することなく歩まれた主。
(唯一、主張できる人だったのに・・・・)
そのイエスさまに倣うようにと、神様は私たちを招いているのだ。
(できっこないよぅ〜!)
あなたには出来なくてもわたしにはできる。と内側に住んでいる
聖霊様が語られる。だから全てをわたしに委ねなさいと。
(・・・もうすこし待って、あとすこし・・・・)
天然ちゃんの葛藤は続きます。
6月27日
ねじりばな
栃木に越してきて一番心引かれたのは、どこにでも花が
咲いている事だった。真夏の八月でさえ花を見つける事
ができる。埼玉に住んでいた時には考えられなかった。
花よりだんごの天然ちゃんなのですが、さすがに興味を
持って眺めるようになった。
それにしても神様なぜ家の庭には白い花ばかりしか咲か
ないのですか?マーガレットも夏椿もこぶしもゆりの花
も、あじさいですら白い花。ピンクや青のカラフルな花
が欲しいよぅ〜!(ただで生やしてください)
その祈り?が聞かれたのか、ある年、芝生のなかから生
えている小さなピンクの花を見つけた。たぶん雑草なの
だろう。まっすぐ伸びた茎のまわりに螺旋階段のように
ピンクの花が巻きついたような形で咲いている。名も知
らない小さな花。
その花の名前が「ねじりばな」である事をNHKのニュース
で知った。TVで取り上げられる程、珍しい花なのかな?
家の前の公園にも咲いていて草むしりの時に引き抜いている
のに。
さらに、東京へ遊びに出かけた近所の人から、ねじりばな
が東京の花屋さんで一株(1本)千円で売られていた、とい
う話を聞いた。エッ、これが1本千円?思わず庭のねじりば
なを数えてしまう。そういえば鉄砲ゆりも花屋さんでは高か
ったなぁ。
神様、家の庭って宝の山だったんですね。知らなかった。
豊かな恵みを感謝します。
6月22日
脳年齢
パソコンのメールにお試し版の、脳年齢チェックのテストが載っていた。
面白がってやってみたらーーあなたの脳年齢は60歳です。と出た。
ショック!最近物忘れがひどいとは思っていたけれどこれ程とは・・・
気を取り直して、知らん顔をして主人に勧めてみた。そうしたら何と!
主人の脳年齢は20歳とでた。ウソ〜どこか壊れているんじゃない?
この機械。
日々社会にでて揉まれている人間と家でノホホンとしている人間の違い?
なのだろうか?ますます落ち込んでしまう・・・
主人は意気揚々と「そうだろう。どうだ。」とご満悦である。
(高慢は滅びに先立つんだぞ)と心の中でつぶやきながら、神様に聞いた。
神様、永遠のいのちをくださるといいましたが, 永遠の若さをくださるとは
言いませんでしたよね。よぼよぼの老人になって永遠にながらえたとしても
あまり嬉しくないのですが・・・
「朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ・・・天上の体もある
と書かれているけど脳細胞も新しくなるんですか?
嫌な事は全部忘れて、幸せだった事だけ覚えていられたら素敵ですね。
一つ一つ神様がどんなによくしてくださったかを数えあげて、それだけを
持って天のみ国に帰れたら。若さがもてはやされる地上の世界ですが、天国
ではそんな事がありませんように。
6月14日
とりなしの祈り

クリスチャンになってから、人が救われる為に、背後でとりなしの
祈りが積まれているという話を聞かされた。(本当かな?私の為に
誰かが祈っていてくれたの?・・・救われるようにと?)
私の周りには親戚にも友人にもクリスチャンは一人もいなかった。
思い当たる人と言えば幼稚園の先生か日曜学校の先生ぐらいだ。
でも12歳で教会学校に行くのをやめて、救われたのが19歳の時
だから7年以上経っている。覚えているはずないよなぁ〜。
その話をあるクリスチャンの集会後の雑談の中でしてたら、正面に
座っていた女の人が泣き出した。
彼女は長い間教会学校の先生をしていたが、誰一人残る事無く去っ
て行ってしまい、失望して「私の働きは何だったのですか?」と
神様に尋ねていたのだそうだ。
「今日その答えを神様から見せて貰いました。私の祈りは決して
無駄になっていないのだと」
何一つ無駄になる事はない。と主は言われます。あなたの流した
涙も祈りも全てわたしの前に覚えられている。そして時が来たら、
わたしがその働きを完成させよう。その救いの業を。と
大祭司であるイエスさま自身が忍耐を持って私たちの救いの為に
祈っていてくださるのだ。こんなに感謝で心強い事はない。
だから私も喜んで救いの為にとりなしの祈りをしていきたい。
目に見える成果が無かったとしても。
6月9日
すいかずら
全市一斉清掃の日と言うのがある。いつも日曜だ。礼拝に間に合う為に前日に
家の周りだけでもと草むしりを始めた。今年は雨が多いせいか雑草の伸び方が
すさまじい。今まで花をつけた事のなかったつる植物に白と黄色のかわいい花
が咲いている。図鑑で調べたら「すいかずら」と言う名前だった。甘いいい香
りがする。そのにおいに釣られてマルハナ蜂が飛んできて1つ1つの花の中に
顔を突っ込んで蜜を集めている。その姿があまりにかわいらしいので、すいか
ずらを引き抜くのがためらわれた。明日にするか・・・
何匹ものマルハナバチが一心不乱に働いている姿を見ているうちに、その忠実
さに胸がうたれた。
洗濯物を干しにベランダに行けば1晩でくもがくもの巣を張っている。毎日壊
してるのに、決してあきらめない。ごくろうさん・・・
計ったように正確な六角形の蜘蛛の巣に雨の雫がついていて、それが光に反射
して美しい。くもはセッセと巣をつくろっている。
神様あなたが創られた生物は本当に誠実で忠実ですね。生きる事と与えられた
仕事に。少しは見習わなければ(反省、)
「天にも地にもわたしは満ちている。」と言われた神様、世界はあなたの創ら
れたものであふれており、あなたの定めた秩序の中で生かされています。
すばらしい創造のみわざを感謝します。
6月5日
小さな喜び
♪♪ルンルン。♪♪
「やけに嬉しそうだね。何か良いことでもあったの?」
「玄関の横に山椒の木が生えて来たのよ!料理で魚の切り身にのせる
葉っぱが!前から欲しかったの。あれが付いているだけで、とても
高級そうに見えるんだもの」
「何だ、そんな事で嬉しいの?」
「これは祈りの答えなのよ!今ね、神様に 毎日小さなことでもいいから
喜びや楽しみをください。って祈っているんだもん。同じ事の繰り返しで
疲れているから、めげたり、落ち込んだりしないためによろしくって、頼ん
だからよ」
「・・・・そんなに毎日良い事・・・あるかい?」
「祈ってからはね、仕事先でシュークリ―ムを貰ったりお客さんからバラ
の花を貰ったり、くじに当たったり、ルンルンなの」
「まあ神様は、愛と恵みに富んだ方だから分からなくはないけど、・・・
君を見ていると、つくづく神様の忍耐と寛容さと心の広さを知らされるね」
「??(どういう意味じゃあ?)」
(駄目な子ほどかわいいって言うけど、神様もそうなのかも・・・)と言う
主人の心の声が聞こえてくる。
今日も天然ちゃんは神様の恵みの中、小さな喜びに満たされて生きています。
たまには大きな喜びも与えてください、と祈りながら。♪ルンルン♪


6月3日
主の祈り
幼稚園で初めて教わったのが主の祈りだった。お弁当を食べる前に皆で声を合わせて祈るので
すぐに覚えてしまった。子ども心になぜ「日曜の糧を与えてください」と祈るのか不思議で、
月曜から土曜はどうするのだろう?教会だから日曜だけでいいのかな??と考えたりしていた。
「日曜」ではなく「日用」であると知ったのは大人になってからだ。
この祈りは弟子に乞われてイエス様が教えて下さったもので祈りの完全な形であり、模範である
と言われている。
小さい時から、何か困った事があるといつもこの祈りをしていた。
例えば 夜中に一人でトイレに行く時 怖がりなので主の祈りを言いながらでないと行けなかった。
また 学校で皆の前で発表する時、あがって震えるので心のなかで主の祈りをしていた。すると
不思議といつも落ち着きが与えられ平安な気持ちになった。さらに、夜 夢のなかでお化けが
出てきたり、怖い夢をみると夢の中でも必死で主の祈りをしていた。主の祈りはいつも私とともにあった。
本当に、主の祈りに守られて私は大きくなったのだ。イエスさまに出会うまで、この祈りが私の支えであり
導き手であった。幼い日に主の祈りを教えられた恵みを心から感謝している。

5月27日
アンケート
こんなアンケートがあった。「あなたの人生の中でいつが一番幸せでしたか?」と言うもので、
 小学生時代、中学生時代、高校生時代そして今現在と4つの選択肢が書かれている。
すこし考えてから 今 に○をつけてだした。その話を主人にしたら、やけに機嫌がよくなり
ランチに連れて行ってくれた。(ラッキー)何の事はない。クリスチャンになったのが大学生の
時だから今いがい選びようがなかっただけなのだが。今が一番幸せというのはとても健全な事
だと主人は言う。どんなに若くて元気があり未来が開けているようであっても、イエス様を知ら
なかったあの時代に戻りたいとは思わない。日々あっちが痛いこっちが悪いと、肉体の衰えを
感じていたとしても。(外なる人は日々衰えても、内なる人は日々新しい。のです。)
モーセは120歳になっても目もかすまず気力も衰えなかった。と聖書に書かれている。すごいな〜
と最近わかるようになってきた。年をとらなければ実感できない事もたくさんあるのだ。
     「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。  
      あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。
      あなたがしらがになっても、わたしは背負う。
      わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。
      わたしは背負って、救い出そう。」
                         イザヤ46:3,4
5月18日
理想の神

子どもの頃、「どうして お前はそんなに悪い子なの!」とよく親に叱られた。
「言う事を聞かない。素直でない。我儘だ。」と親から言われ続けた事を挙げたら枚挙にいとまがない。「良い子にしようと思って教会へ行かせてるのに!!」親の嘆きは尽きなかった。しかし反射的に私は思った。教会へ行っているのに悪い子だと叱られるのなら、行かないほうがましだと。(怒られる理由がひとつ減るから。)
そして子どもながらに考えていた。
「良い子」や「素直な子」を愛するのは誰でも出来る。当たり前の事だし、簡単だ。しかし本当に神がいるなら、人間には出来ない「駄目な子」「悪い子」「我儘な子」を愛してみろ。
神ならばできるはずだ。否、神でなければできない。「悪い子は愛せない」と言うような心の狭い
神なら私はいらない。
あるがままの駄目なままの欠点だらけの私を何ひとつ変えようとせずに、そのままで愛してくれるなら、私はその神を信じよう。虫のいい話だが本気でそう思っていた。
「罪びとを招くために、わたしは来たのです。」といわれたイエス様。あなたは何も言わずに私の罪をかぶってくださいました。何ひとつ私に恩着せがましいそぶりも見せずに。主よ。
 あなたの御言葉の真実を感謝します。あなたこそ、まさしく私が待ち望んでいた私の理想の神様です。
5月14日

生まれてくる?
「今度生まれてくる時は、猫になりたい」と子供の卒業文集に載っている。
オイオイ、聖書には「人は1度死ぬ事と、死後に裁きを受ける事が定まっている」と
書かれているんだぞ。生まれ変わりなんてありえない。教会学校で教わらなかったのかね。
猫になりたい理由がふるっている。自由気ままに生きられてたくさんお昼ねができるから、
だそうだ。そんなに普段の生活に疲れているの?まだ小学生なのに。
でも分かるよ。水泳検定に鉄棒検定、縄跳び検定まである。なんで3重後ろ綾跳びまで求め
られるんだ?オリンピック選手になるわけでもないのに!
「誰でも疲れた人重荷を負った人は私のもとに来なさい。私がその人を休ませてあげます。」
と言われたイエス様、こんな小さな子でさえあなたが必要です。
そういえば昔はよく思ったものだ。やりたい事を全部やった後でクリスチャンになればよかった
と。紫やピンクの色の付いたカクテルを飲んでからとかね。20歳前にクリスチャンになったから今でも
未経験のままだ。あれも駄目これも駄目で窮屈だと思っていた。よく冗談で死ぬ間際に救われれば
良かったのにね、と学生時代の友人と話していた。「あなた方は自分で自分を窮屈にしているのです」
とパウロが書いているけれど、まさにそんな状態だった。聖書もあまり読んでなかったし、人の言う
事を鵜呑みにしていた所為だから、仕方ないけど。
「あなたの若い日にあなたの創り主をおぼえよ」と御言葉にあるが今は本当にその通りだと思う。
親として24時間子供の側にいてやる事はできない。神様が共にいてくださると言う事がどれだけ幸い
な事か。何しろ神様が許されない事は起こらないのだから。神に知られ神様に愛されている平安は
何物にも換えがたいものだ。「不意の災いがあなた方を襲うことはない」と約束してくださっている
のだから, 娘達よ。神様を知りなさい。そして安心して生きなさい。
人間として生まれてきた事を思う存分楽しみなさい。神様と共に喜ぶ為にあなたは創られたのだから。
5月8日
愛する神様
クリスチャンになったばかりの頃、どうしても「愛する神様」と祈る事が出来なかった。
神を愛すると言うことが、どういう事だか分からなかったからだ。
他の人がよく「愛する天のお父様」と祈っているのを聞くと その幼子のように素直に祈る姿が羨ましかった。
どうして素直に愛する神様と祈れないのか?とひねくれている(?)自分の性格を疎ましく思ったものだ。でも・・・心にもない事は祈れなかった。・・・愛してください。とは祈れても。
私の思い描く愛するとは、相手を受け入れ、包む事,赦す事・・・対等かそれ以下に対するもので、自分より上のもの完全なもの無欠なものに対する愛、愛し方など想像できなかった。
どうやって愛したらいいのだろう?考えても考えても分からなかった。
それで仕方なく「天のお父様」といつも祈っていた。いつの日か「愛する天の神様」と祈れるようになるのだろうか・・と心に小さな痛みを感じながら・・・・
その疑問が氷解したのはこの群れに移ってからだった。秋元牧師のメッセージで「神を愛するとは神に聞き従う事である」と聞いた時 目からうろこが落ちたようにその言葉はストンと私の中に入った。ああそうだったのか、それならばわたしでもできそう・・・従うだけなら・・・
聞き従いの奥深さをまだ知らなかった私は、単純に喜んで、その時から安心して祈るようになった。「愛する神様」と。
神様あなたの愛に包まれて、今日まで生きてこられました。あなたなしでは右も左も分からない天然の私です。どうぞ最後まで、天に行くまでしっかり私の手を握っていて下さい。
迷子にならないように。「わたしは決してあなたを離れず、あなたを見捨てない」と約束してくださったみことばの真実を私にみせてください。
5月3日
カルチャーショック

「これ、先週食べたよね?」とテーブルの上の夕飯を見て主人が言った。
「? それが何か?お肉好きでしょう?」
「・・・・同じ料理が出てくるのは一ヶ月に一度ぐらいにしてほしい.....」
言いにくそうに主人がリクエストした。新婚生活10日目ぐらいの事だった。
エッ一ヶ月に一度?30種類も料理のレパートリーないよぅ〜!!
実家では、一週間に一度の割合で同じメニューが出ていた。しかし食べ物に文句をつけるのは私ぐらいで、その私はわがまま者と白い目で見られていたのだ。それを遥かに上回る要求に絶句した天然ちゃん。
これが結婚生活における最初のカルチャーショックだった。
何を隠そう、天然ちゃんは結婚するまで家事をした事が無かったのだ。なんにもできないよと自己申告して、それでもいいよと言われて結婚したはずだったのに
・・・これほど出来ないとは予想外だったらしく、さらに謙遜しているんだ。と大きな誤解を与えていたらしい・・・・・
おまけに主人は見分けの賜物を持っていた。
「これは下味を付け忘れて最後に調味料を入れただろう。この肉は途中から蓋をして焼いたね。」「そ、そうだったかな,,,,,」
見てないのにどうしてわかるの? 的を射た鋭い指摘に目を白黒させて口ごもる。
「すぐ手抜きをするんだから」
手抜きではない、家事の合理化といってくれ。しかし事実なので反論できない。
三つよりの糸は切れない、と聖書にあるけれどその言葉が恨めしく思える時もある。
洗濯をすれば洗濯の発生と歴史について想いをめぐらせてしまう。神様、私は家事に向いてません。つくづくそう思います。「何事も訓練と思って耐え忍びなさい」とはいうものの嫌いな物は嫌いだよ〜。神様どうぞ家事が好きになるようにしてください。
家事の中に喜びと新しい発見と創意と工夫を与えてください。感謝する事ができるようにさせてください。全てはあなたの力にかかってます。三つよりの糸は切れないんでしょう?
神様。あなたの出番です。
4月30日
神様に狙われている

「主はその御目をもって あまねく全地を見渡し その心がご自身と全くひとつ
になっている人々に 御力をあらわしてくださるのです。」
                      第二歴代誌 16:9
この御言葉を読むたびに思い出す事がある。
あれは今から20年近く前、まだ宇都宮に越してきたばかりの頃だった。長女が幼稚園へ行っている間にと、生後半年の次女を背負ってバスで町へ買い物に出かけた。
銀行で支払いを済ませ特売品の紙おむつを買って、気がつけば幼稚園のお迎えの時間が迫っていた。間に合わないのでは?と同級生のお母さんに迎えを頼む電話をかけたが、つながらない。目の前にきたバスに慌てて飛び乗った。どうにか娘の迎えに間に合い、感謝して家に入った時に気がついた。ーー貴重品袋がないーーー
その中に我が家の全財産である預金通帳と印鑑が入っていたのです。−−あの電話ボックスの電話機の上!!電話番号を調べるのに取り出したのだーーー
長女の手を引きバスに乗って現場に引き返すまで1時間はかからなかっただろう。しかし、そのバッグは無くなっていた。警察に行ったが届いてないという。さらに「現金が入っていたら、まず出てきません」と言われて思い出した。いつもは入れていない現金をその日に限って入れていた事を。万事休す。追い詰められて神様に祈った。祈りというより叫びに近かったかも知れない。
「神様、あなたは私があのお金とバッグの必要な事をご存知です。全能の主よ、あなたに不可能な事はありません。どうぞ私にお金とバッグを返してください。もしあなたがお金とバッグを返して下さったら、その通帳に入っている金額の10分の1を献金します。」
1週間後、別の警察からバッグが届けられている、と言う葉書が来た。そこで、神様との、約束通りに教会をとうして「小さな命を守る会」と「日本国際飢餓対策機構」に献金した。
すると、「小さな命を守る会」の主催者からお礼の手紙が教会宛てに届いた。それにはこう書かれていた。
「今月は10万円の赤字が出てしまいそれを埋める手立てがありませんでした。とにかく神様の前に出て何とかしてください、とひたすら祈ってました。月末に貴教会より献金がありその不足を丁度ピッタリ埋める事ができました。神様をほめたたえ感謝します。」
そうか!そうやって神様は欠けを満たすのか!「金はわたしのもの、銀もわたしのもの。
天然ちゃんの貯金もわたしのもの。」と言う訳ですね。・・・・・・納得。
そしてこの20年弱で似たような事が2度3度。。。神様もう私のお金狙わないでね。お願いします。
4月28日


雷は古来 神が罰を与える道具だと思われていたようだ。
だから罪びとを打つと信じられ雷は罪びとを目指して落ちると考えられていた。
ルターが荒野で雷に遭い必死で悔い改めて命が助かれば献身して修道院に入ると祈った話は有名だ。
埼玉にいた時は雷が好きだった。特に稲妻の色や形が人間の作り出せないものとして畏怖しつつ喜んで見ていた。暗黒の夜空に神様が描かれる絵のようだと思いながら。
宇都宮は雷都と呼ばれる。大好きな雷だったがここまで物凄いと少し閉口する。
まさに頭の上を神様が通って行かれるかのようだ。地響きのような音響効果と共に。そして炸裂する閃光。雷の中に取り込まれてしまったみたいに。ある時は雹を伴い。強風で道を切り開きながら。そのパワーのすごさに圧倒された。
神の声は雷のようだという。雷を聞くと神様が何かを語っているのだろうか?  とよく思う。
これほど強くはっきりと頻繁に神の声が聞こえる宇都宮に導かれた事を神様に感謝.... するべきなのだろう  たぶん

  神はそのいなずまを全天の下
  まっすぐに進ませる。
  それを地の果て果てまでも。
  そのあとでかみなりが鳴りとどろく。
  神はそのいかめしい声で雷鳴をとどろかせ、
  その声の聞こえるときも、いなずまを引き止めない。
  神は、御声で驚くほどに雷鳴をとどろかせ、
  私たちの知りえない大きな事をされる。
                          ヨブ記 37:3〜5
4月24日
無知

「ママぁ、庭にイバラ(茨)を植えたのはママだね!!」
草むしりをしているはずの主人の怒鳴り声が庭から聞こえた。
「イバラじゃないわ。ノバラ(野薔薇)を植えたのよ。白いきれいな花が咲くの。
秋には、かわいい小さな赤い実をつけるのよ。」
「聖書に何て書いてあるか知らないのか?イバラの生えている土地は悪い土地の証拠なんだぞ。それをわざわざ植えるなんて!」
「だから、野薔薇なんだってば。!」
イバラと野薔薇の違いを証明しようと日本語大辞典を持ってきて開いた。
野薔薇ーーーノイバラの別称。野茨。ウソ〜!
「全く天然なんだから、嫌になっちゃうよ。」と飽きれ顔の主人。
違うもん。天然じゃないもん。無知なだけだもん。
ーー天然と無知、果たしてどちらがましなのだろうか?でもいいや、神様はあるがままの私でいい、と言ってくれるから。神様あなただけです。私を見捨てないのは。
北向きの我が家の庭では、ここ十数年野バラは花をつける事も実を結ぶ事もなく、ただむいみに育っている。神様何とかしてください!
4月22日
召し
ガーン海外宣教の試験に落ちてしまった!!!
だって必修科目だから取っていただけなんだもの。
「重荷の国」とか「召し」なんて考えた事なかったよぅ〜
これだけで50点の配点じゃ絶対受からないよう。グスン。
神学生になったのだって、イエス様の事をもっと知りたかっただけで、牧師とか宣教師になりたい訳じゃないもの.....
そもそも救われた時のスタートラインからして違うような気がする。
私には「イエス様がいなければ生きていけない」と神様にすがりついて拾ってもらったという意識がある。人の証で「イエス様を信じたら。もっと良い人間になれると思ったから」とか「さらに祝福を受けられると思ったから」と聞くとなんてすばらしい人達なんだろうと羨望のため息がでる。....そこまで達していない私.......
「神様の為に働く」とか「救いをのべ伝える」なんて遥か上の世界の話に思われた。「召し」とか「重荷」なんて全くの想定外。
しぶしぶ牧師に相談してみたら、たった一言
「神様に祈って聞きなさい」
仕方が無いので言われるままに祈った。
「神様、私の重荷の国を教えてください。ついでに召しも、でもあまり無理な事は言わないでください。」
神様の返事もたった一言だった。−−−孤児院ーーーー
神様いつも的外れな返事をくれるんですね国の名前を聞いているのに。
これじゃ答案用紙に書けないじゃない。いくら聞いても答えは無い。
答えの無いのが答えか....分かりました孤児院のある国全部書きますよ!
責任取ってくださいね。
そして孤児院のある国へ行く事となった。フィリピンへカンボジアへ。
いつかブラジルへもザンビアへも行けると信じている何しろ神様が責任をもってくれているのだから。神様よろしく手配してくださいね。
4月18日
Re 天然の休暇

天然様
わかるわかるその気持ち
おやじも忙しいときはつめたくなってしまう。
旅行に行ったり、くつろいでいるときはやさしく接することができますね。
いつもできればと思うけれど、なかなかできないのです。
神様、ごめんなさい。
4月18日
天然の休暇

お日様ポカポカいい天気今日は、天然ちゃんのお休みの日です。
里帰りしていた娘達も新学期が始まり、学校へと帰っていきました。
四月からは不景気のあおりを受けて(まだまだ栃木の中小企業は景気が悪いのです)天然ちゃんの仕事も減ってしまいました。神様これでは娘達への仕送りに穴が開いてしまいます。と祈ると神様は 恐れるななぜ疑うのか?と将来の保証をしてくださいました。だから現実は現金収入が減って厳しくなるのですが、後は神様にお任せして....と今日はゆっくり休む事にしたのです。
ガラス越しに太陽の光を浴びて庭を眺めているとひたひたと幸福感が押し寄せてきます。
古代からいろいろな国で太陽が祭られてきた事が素直に理解できます。
太陽ではなく太陽を創られた創造主である神様を崇めればよかったのにね。
土地にさえ7年ごとに休みの年を設けられた神。ヨベルの年さえあったではないか。休む事は決して悪い事ではない。「勤勉」が美徳とされる国に育ったせいか知らないうちに休む事に罪悪感を覚えるようになってしまっていた。
忙しい事は決していい事ではない。忙しいあまり余裕をなくして相手を思いやれなかったり、物事を十分考えて判断できなかったり、忙しさを自分を正当化する口実に使っていたりするからだ。
「忙しい」という字は心を亡くすと書く。忙しいという状態は心を滅ぼしている状態なのです。神様がそんな状態を喜ばれるはずがない。
この暖かな日差しの中で神様のくださる幸せをしみじみとかみしめた。
神様ありがとうございます。
4月16日
ディズニーファンのおやじは旅行好き

おやじは旅行がすきである。
詳しく言うと、旅行のプランを地図を見ながら立てるのが好きである。さらに今はインターネットで現地の情報まですぐ調べることができるので、楽しさも倍増する。
ほんとうに便利になった。
だから、会社の出張もまったく苦ににならない。たとえ、それが、クレーム処理であっても、30kの荷物を預けられても、口ではぶつぶつ言っても、心の中では、けっこうワクワクしていたりする。
こんなことを会社で言ったら、まじめにやってるか? とか思われたりするので顔はむっつりしている。
でも考えてみたら、こういう気持ちに自然になれるのはとても感謝なことなんだと、最近は思う。
自分がそうのような気持ちだから、、そのような気持ちになれない、たぶん、大部分の人たちのことは理解できていなかったのだと最近思えるようになった。
神様は、気持ちのの中にもちゃんと働いてくださり、恵みで満たしてくださる。
感謝します。
4月16日
感謝と賛美の科学的根拠

聖書は非科学的であると言われるが、そんなことはない。
論点や記述が科学的に書かれていないだけであって、その主張する内容はなんら科学と矛盾するところはない。それは聖書を書かれたのが神であり科学的法則を定められたのも同じ神であるからだ。
例えば聖書に「怒ってはならない」と書いてあるがなぜであろうか?
それは人が怒るとその人の脳の中で怒りの感情に誘発されて「ノルアドレナリン」が分泌されるからだ。それはごくごく微量であるが、その毒性は自然界において毒蛇の持つ猛毒に匹敵する強力なものである。その毒に脳がさらされる事になるので自分自身に害を及ぼす事になる。「怒り」は人をも自分をも傷つけるものなのだ。故に「怒りは神の義を全うするものではない」。また「いつも喜んでいなさい。全ての事について感謝しなさい」と聖書に書かれている
のにも理由がある。
人が嬉しい、楽しいと喜んでいる状態の時には、その人の脳の中で,「ベーターエンドルフィン」が分泌されている。その働きは人間の免疫力を高めストレスに対する抵抗力を強める作用である。その結果自然治癒力が高まりその人の健康は最善の状態に保たれる。がん細胞さえ死滅させてしまえるのだ。そのように神が人間を作られたのだ
「感謝と賛美」の実践は怒りや悲しみといった負の感情から感謝と喜びの感情へと人の心を切り替えさせる実に理にかなった神の知恵なのだ。
神の言われる事はその背後に科学的にも納得できる根拠があるのだ神のみことばの真実に畏敬の念を禁じえない 栄光は主に

                                            ステファノ記    

    参考文献     脳内革命     
   
4月14日
祈り

長女がまだ幼稚園に通っていたころ、真剣な顔をして聞いてきた。
「神様が、あっちにもこっちにもいるって変だよね?神様は一人なんだから」
どうやら教会学校で、神の遍在についての話を聞いて疑問をもったらしい。
何と答えようか神様知恵をください
「ウルトラマンを知っているよね。ウルトラマンは怪獣と戦う時何倍も大きくなって戦うでしょう?神様も大きくなっているんだよ」
「どれくらい?」
「この地球より大きいの。地球全部が神様の中に入っちゃっているんだよ。だから神様はこの地球上のどこにでも、いつでもいるんだよ」
「フーン、でも見えないじゃない?なぜ神様は見えないの?」
一難去ってまた一難、困ったぞ
「本当に大切なものはね、目では見えないの。例えば人が生きていくのにどうしても必要な空気は目に見えないでしょう?また、ママがあなたを愛している、とても大切に思っているという思いや気持ちは目に見えないでしょう?大切なもの程、目に見えないものなのよ。神様も本当に必要で大切な方だから、目に見えないの,分かった?」
「うん」
元気にうなずくと疑問が解けたと喜んで駆け出していく娘の後姿をみながら、祈らずにはいられなかった。早く娘自身が神様と出会って直接神様から答えをいただけるようにと主よ、恵を千代にまで施すと約束してくださった主よあなたの恵の御手が子供たち一人ひとりの上にとどまり続けますように。
4月12日

すべては益に

私の母は結婚するまで料理をしたことのない人だった。しかもサラリーマンと結婚したはずだったのに、父は会社を辞めて自営の仕事を始めたので、必然的に父の仕事を手伝うはめになり、母が料理に割く時間は、ますますなくなった。子供の頃の夕飯の記憶はいつもコロッケだった。当時出始めたばかりの冷凍食品のコロッケが我が家の夕食の定番だった。丸いコロッケが肉入りコロッケ楕円形のコロッケが野菜コロッケ三角のコロッケがコーンコロッケ四角いコロッケがグラタンコロッケだった。でもコロッケが好きだったので不満は無かった。

だから皆が嫌う学校給食がとても楽しみだった(何しろ1ヵ月毎日違うおかずが出てくるのだもの)今日は何だろう?と学校へ行くのが毎日楽しかった。さすがに調理員のおばさんが砂糖と塩を間違えて作った脱脂粉乳だけは飲めなかったが。。。。

そんな中で育ったので、何を食べてもおいしいしめったにまずいと思うことがない。さらに何でもまず食べて見ようという旺盛な好奇心を持つようになった。

主人や子供達から「ママは海外宣教向き」と悪口(?)をいわれているけれどそのとうりかもしれない。

フィリピンへ行って豚の丸焼きが出た時には迷わず耳を選んだ(だって2つしかないのよ。ここで食べなければ一生食べられないかも知れないじゃない)人に見られないようにコッソリかじったけれど秋元牧師には しっかり見られてました。カンボジアの孤児院でも孤児たちと一緒に青パパイヤのスープをおいしいと思って食べたし、いつでもどこでも食べ物をおいしいと思って食べることができるのは、神様のくださる幸いだと気づかされた。

神様は、その人の人生の欠けた所を益として用いてくださり、さらにその足りない所を返って祝福して満たして下さったのです。人生のすべてを益と変えてくださる神様の恵みに感謝します。 

4月6日
神の愛

まだこの教会に導かれる前の事です。
天然ちゃんは不思議な体験をしました。
ある人が、天然ちゃんの肩に手を置いたと思ったら、その人は天然ちゃんを見て、ポロポロと涙をこぼして泣きだしたのです。
そして一言「あなたは本当にイエス様に愛されているのねぇ」
けげんな顔をして、とまどっている天然ちゃんにむかって、友人が言いました。
「彼女の涙は聖霊様の涙だから」
ますます分けがわからず混乱した天然ちゃんは神様に祈りました。
「神様、あなたが私を愛していると言ってこの人は泣いていますが、、私にはそれがわかりません。
神様、愛とは相手に伝わらなければ、意味をなさないものなんですよ。他のひとにそれがわかっても、当人の私にわからないのでは、それは存在しないのと同じです」
神様は静かに答えられました。
−わたしがあなたを愛していることぉ、あなたに見せよう−
しかし、そんなやりとりがあった事を、天然ちゃんはすっかり忘れてしまいました。
それから、この教会に移った後に第2回イスラエル派遣の案内がありました。
すると、「イスラエルであなたに語ることがある」と神様からの言葉がありました。
イスラエル? 出不精な天然ちゃんが、クリスチャンになった時唯一行ってみたいと思った国でした。 でも2週間も、お金もかかるし、三人の子供の世話もあるし・・・、それに、その期間はには、前年に他界した主人の父の一周忌の法要があったのです。 一応長男の嫁だし、主人の立場もあるだろうし・・・迷いはつきません。
とりあえず主人為相談すると、「行きなさい。後の事は心配しなくていいから」
その言葉に励まされて、天然ちゃんは始めての海外へ旅立ったのでした。
日程はエジプトからシナイ山そしてイスラエル入国というものでした。
帰って来て、牧師から証しをして下さいと言われ、何を話そうかと思いめぐらえいていた時に思い出しました。
未信者の時、唯一行きたかったのがエジプトであり、見たかったのがスフィンクスとピラミッド。そしてクリスチャン
になってから、シィいついきたかったのがイスラエルであり、見たかったのが「映画で見たシナイ山と、出エジプトのヴィアドロローサと山上の説教の場所、そして黄金門でした。
この一度の派遣のなかでに、その見たかった場所のすべてが網羅されていたのです。そして、神様の言葉がよみがえってきました。
−わたしがあなたをあいしていることをあなたに見せよう−
未信者の時にも、クリスチャンになってからも、代わらず神の愛は天然ちゃんのまわりにあり、天然ちゃんとともにあった事を、そのとき初めて天然ちゃんは自覚したのです。
幼稚園で初めてイエス様の話を聞き、祈りを教わったその日から今日まで、変わることのない主の恵みの御手が天然ちゃんの上にあり、天然ちゃんを導き続けていたのだということを。
神様ありがとうございます。
できの悪い私は重荷かもしれませんけど、天にいくまで、あなたの愛で包んで背負い続けてくださいね。
くれぐれもおっことさないように、よろしくお願いします。
4月3日
天然の庭

「いいかげんに草むしりしたら?」 と主人の声
そう、我が家の庭は来た向きで人目がないのをいいことに、雑草が伸び放題なのです。
ある詩人が、「雑草がのびほうだいに伸びているその光景は胸のすく思いだ」と書いていたが、主人はその詩人のような心境にはなれないようだ。
「雑草だって生きているのよ。 せっかく花を咲かせているのに」
「バカ、花が咲いたら増えるだろう。 種を撒き散らして」
「バカという人は地獄へ落ちるのよ。 − だいじょうぶ、雑草同士で競争して、毎年違う種類の雑草のオンパレードになるから。去年は黄色い花の雑草だったし、その前は白い小さな花だったし、さらにその前は・・・」
「ボクは雑草の鑑賞の趣味はない・・」
「でも、あれは我が家の非常食なのよ。 アザミもハルジオンもつくしも食べられるし、スギナはノドの薬になるし、よもぎや雪の下はてんプラにするとおいしいし、ドクダミの花からは化粧水が作れるんですって。 せりも三つ葉もこごみもあるんだからね。せっかくふやしたのに」
「せめてたんぽぽぐらい抜いたら?」
「知らなかったの?たんぽぽの根っこでコーヒが作れるのよ。 自然食品のお店で高いんだから」
「−−そんな事いって。 一度も作ったことないくせに」
「ほっといたら、あけびも生えてきたじゃない? 山芋の葉みたいなのも見たことある気がするし・・・。 まだ何か生えてくるかもしれないもの。 その芽をつんでしまうなんてダメよ」
そして、天然ちゃんの庭は雑草の天国となっているのです。
神様豊かな自然の恵みをありがとうございます。
3月29日
神の聖さ

昔、天然ちゃんは、神様の聖さは、ちょうど、雪の日の白さのような聖さだと思ってました。 たぶん、イザヤ書の「たとえ、あなたの緋のように赤くても、雪のように白くなる」というみことばが頭にあったからだと思います。
だから、いつも、きたない罪のあるままで、近づいてはいけない。神様の聖さを汚してしまうから、悔改めて白くなってから、神様のところへ行かなければならない、と思っていました。
ですから、悔い改められないときは、神様の方へ顔を向けることもできなかったのです。
ところが、ある時、神様が「あなたのもっている聖さのイメージは違う」と言ってこられたのです。
では正しいイメージは何ですか?
−聖書を読みなさい−
今、天然ちゃんの持っている神様の聖さのイメージは「レーザー光線」です。 まぶしく輝く、直接目で見る事のできない、殺生能力を持った聖さ。
神様の「聖さ」に触れたら神様が汚れるのではなく、たちまち罪のあるこちらが殺菌されてしまう程の強力な聖さ・・・(コワイ)
でもだいじょうぶ。天然ちゃんは対レーザー光線防護服を着ているから、イエス・キリストという名の防護服を
3月26日
神の視点

ある日、主人が深刻な顔をして帰ってきた。
どうやら、会社の研修会で何か身につまされる事があったらしい。
それは自分の物の見方が標準的な物の見方に対して、どのような傾向を持っているかを明らかににる客観的なテストだった。
その結果、「ボクはどうやら、他の人より、人に求める基準が高いらしい。その為に、どうしても人を見る目が厳しくなってしまうらしいんだ・・」と落ち込んでいいる。
ああ、神様、よくぞ教えてくださいました。その通り。あなたの物の見方は常に減点法。 ここが足りない、あそこが欠けている。 それができていない、当然あるべき基準に達していないと。 マイナスの面ばかり見ているのよ。いつも、その視点で評価されている私の身にもなってちょうだい。
「神様はね、減点法ではなくて、加点法で見てくれるのよ」
こんないい所があるんだね。 あんな事もできるようになったんだね。 それを伸ばすともっとすばらしくなるよ」って。
「だいたい、あなたはね、いつも・・・」と調子ずいて話し出したら、聖霊様が語られた− あなた方の中で、罪のない者が最初に石を投げなさい。−ヨハネ8:7
ハイ、神様。 同じ穴のムジナでした。 ごめんなさい。
3月22日
天然の車

天然ちゃんは運動神経が鈍い、いわゆる「運痴」です。もちろん、自転車にも乗れません。
栃木に引越しが決まった時、車に乗れなければ、生活できないという事で、免許だけは取りました。(路上教習でエンストして、後続車にぶつけられたり、踏み切りでエンストして青くなりながら)だから、私は一生ペーパードライバーでいい、危ないから車の運転はしないぞと決心していたのです。
けれど、神様の計画は違っていました。
主人が病に倒れ、1ヶ月近く入院となったとき、車を使わない生活は不可能でした。 必要に迫られ、さらに神様の哀れみの故に、何とか車の運転ができるようになりました。
そして買った車のナンバーは「39-00」サンキューでした。
ちょうど、マーリンさんの「賛美と感謝」の授業がはじまった頃でした。
友人は車を買うとき、車のナンバーに「7」の数字がはいっているように祈ったと言ってました。「7」は神様の完全数だからと。
そうか、「39−00」のナンバーに「感謝しなさい」という神様の深い語りかけを感じました。
その車も、走行中にタイミングベルトが切れるという事故で壊れてしまいました。
感謝の次はどんなナンバーの車が来るのだろう?
なんと、次の車のナンバーは「77−73」
聖書の中で 7が3回も重ねてでてくるのはここしかない。
「黙示録」−7つの封印、7つの鉢、7つのラッパの裁き −  神様終わりの時代に入る供えをせよとおっしゃっているのですか?
天然ちゃんはこの車を「黙示録の車」と呼んでいます。
3月20日
神の酬い
前の教会にいたとき、「神が報いをたずさえて来る」と聞くと、ドキッとした。 そして、いつもあわてて悔改めた
「神様、毎日祈れなくて、すみません。聖書もきちんと読めなくてごめんなさい。良い証し人になれなくて、あなたの顔に泥をぬっているような生活を許して下さい。」と。
そして、よくこんな夢を見た。 トラに食い殺される夢、土人にヤリで刺されて死ぬ夢。そして夢の中でいつも祈ってた。「神様、私はまだ死ねません− 悔改めていないから−」
今、「神様が報いをたずさえて来る」と聞くとうれしい。
何がもらえるんだろう?とワクワクする。生活は昔と全然かわってないのに、何がかわったのだろう?
それは神様を知ったからだ。神様がどういう方であるかを。
神様は決して私に悪い事をなさらない。いつも最善を与えて下さる方だ。 という確信が、今の私にはある。
だから、昔のように、ビクビクして神様の顔色を伺うような事はなくなた。
神様の愛と守りを信じて感謝に満たされて生活している。
神様。報いをたくさん持ってむかえに来てくださいね。
3月19日
恵みに気づく

今日は風がとても強い1日だった。
今日はあまり歩きたくなかったのだが、気持ちを奮い立たせて出かけた(大げさな)
いつものように、鬼怒川の土手に出て、歩き出すととても軽く歩ける。日ごろ歩いているので、慣れてきたか。
すぐに体は慣れるもんだな。などと思って、調子に乗って、南に向かって3Km程歩き、Uターンして帰路についた。
このとき、風が非常に強いことに気づいたのだ。
行きは調子がよかったのではなく、追い風だったのだ。 なんて愚かな。
来るんじゃなかった。
風と格闘しながら、必死になって歩いた。なかなか前に進まない。
足がつりそうになった。 風が額にあたり、頭痛もしてきた。
ところが、歩いているうちに、悔改める気持ちになった。
人は調子のいいとき、それが、神様や周りの人たちに支えられてうまくいっているのに、自分はそれに気づかなかった。
今日に風のように。
逆風になったときに起こった気持ちは、自分の境遇を嘆くことだった。
そう思ったら、今与えられているすべてのことが、恵みに思えた。
逆風も苦にならなくなった。
そして土手を降り、風が止んだ。
歩くのがすごく楽になった。
家に着くまで感謝の気持ちで満たされた。
感謝します。
                             ディズニーファンのおやじ
3月18日
天然の誕生日プレゼント

1月の第4日曜日は天然ちゃんの誕生日でした。
そこで、天然ちゃんは神様に祈りました。「神様、誕生日プレゼントのみことばをください。」
−−「神を信じなさい」(マルコ11:22)
エッ? 何を言ってるんですか、神様。 私、信じてますけど。
信じてなきゃ、30年もクリスチャンやってません。
−−あなたはわたしが報いを与える神である事を信じていない--
報いって? 霊的な祝福の事でしょう?・・・・・そうです。天然ちゃんは 「にぶい」 タイプなのです。
霊的な事柄は??? アタックもほとんどわかりません。
「だって、神様、霊的な祝福では、おなかがいっぱいにはなりません。私はおなかも満たされる祝福が欲しいんです・」
−−数えてみよ主の恵み。汝が心は安きをえん−−という霊歌が心の中に流れてきました。
数えるんですね。 去年はガソリンスタンドで1万円の旅行券が当たりました。 忘年会では任天堂のDSが当たり、祖母が100歳の天寿を全うして、その預金の1/4をもらえることになりました。
いろりおもらっているなぁ。 じゃあ神様を信じて求めれば、もっともらえるってことですか?
霊的祝福もプラスして?
神様、そのみことば握らせていただきます。ステキな誕生日プレゼントをありがとうございます。
「神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを信じなければならないのです。
                                                      ヘブル11:6
3月17日
天然の悔改め

ワーイ、ワーイ 出張だ。それも2週間もの長期出張。
鬼のいぬ間にいのちの洗濯。
これで夕飯を作らなくてすむぞ(喜びの舞)と思っていたら、主人が39度の熱を出して帰ってきた。
出発まであと2日しかない。
しかも同僚でインフルエンザがいると言う。
あわてて休日夜間診療所へ行って検査を受ける騒ぎとなった。
結果は陰性。しかし、熱は下がらない。
ますます上がっていく。
後は祈るしかない。「神様、癒して下さい。瞬時のいやしを見せてください。
・・・聞かれないなぁ。 そうだ、まず悔改めなければ!!
神様主人が留守の間、羽が伸ばせて自由を謳歌できると思って舞い上がったことを悔改めます。それから、家事が楽になるとはしゃいだことを悔改めます。 さらに、・・・あぁ、思い当たることが多すぎて悔改めきれない。
神様ごめんなさい。 とにかく悔改めます!!
そして、タイムリミットの出発当日の正午、熱は平熱に下がった。神様感謝します。
もう。神様って、いつもぎりぎりなんだから。
ハラハラ、ドキドキさせながら、痛む頭を抱えつつ主人は出張へ旅立っていった。
無事かえってきてネ。
3月17日

おやじの悩み

子供たちも大きくなって、それぞれ自分の時間を持つようになった。

一緒にどこかへ出かけようと計画を立てても、意見がばらばらでまとまらない。

もっとも、家族の中で一番行きたがっているのは、どうやら、私のようだ。

個人的にはキャンプが好きで、行き先も決めない放浪の旅が好きなのだが、そんなこと絶対に口に出せないし・・・。

ひとりで行きなと冷たく言われるに決まってる。

やはり、必死になって計画をたてるしかない。

自分に言い聞かせながら、「神様、どうかよいプランが与えられますように。」

まもなく春休み。「早く与えてください」

                 デイズニーファンのおやじ

3月15日
ひとりごと
X年前の元旦礼拝で「海外宣教に重荷がある人は26聖人の前で祈りなさい。神様が語る事があります。」という預言を聞いた。
神様が語る?まだこの群れに属していなかった私には理解できない不思議な言葉でしたので、妙に心に残りました。
神様が話されるのならば、ぜひ聞いてみたい−−海外宣教に重荷はないのだけれど−−
その思いは日に日につのり、ついに長崎へ行ったのはその年の6月のことでした。
あれからX年、いまだに海外宣教に重荷がありますか?と聞かれたら「はい」と答えられない私。
初めて行ったイスラエルで人間関係にうまづいてしまい、2度と海宣にはいかないぞと決心した私を、神様は哀れんで下さり、娘と2人で韓国の断食祈祷院へ祈りに行く中で癒してくださいました。
そして、こたつに入ってみかんを食べながらテレビを見ているのが好きな私を主は連れ出して下さいました。
パトモススへ、フィリピンへ、カンボジアへと。
これからも行くんだろうなぁ。導かれるままに。
海外宣教に重荷はないんだけれど・・・と言いながら。
3月14日
天然の感謝
天然ちゃんは食いしん坊です。
だから、天国へ行ってからの事で小さな心配事があったのです。
というのは、イエス様が再臨された後の世界では「狼と子羊」は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇はちりをそお食べ物とし・・・・。」(イザヤ65:25) と書いてあるからです。
天国は菜食主義の国なのかしら?
神様にほめられているダニエルは菜食主義者だったし・・・。
でも天然ちゃんは、お肉が大好きなのです。
「天国へ行ってステーキが食べられないのは少し寂しい。」そう思ってた ある日、初めてアボガドを食べました。
何これ? 果物なのにまるでバターみたい。
天然ちゃんは確信しました。
天国には、きっとポークステーキのような味の果物やビフテキのような味の木の実があると!
神様ありがとうございます。
これで天国での生活の心配の種が1つなくなりました。
感謝します。
(神の国は飲み食いの事ではないという主人の罵声が聞こえそうで・・・・・こわい)
3月10日
天然ちゃんへ
掃除って毎日しないと、ほんとうにほこりが舞いますよね。
春になってポカポカあたたかくなってくると、窓を大きくあけたくなります。 すると、部屋中のほこりが、まるで空気中でワルツを踊るようにフワフワと舞っている。
私も「あ〜ぁ」と思う。
でもこれって、家族の協力も必要ですよね。
「とてもきれいだね、気持ちがいいナ〜」と言ってくれたら、またがんばろうという気持ちになります。
神様のように、できない私に愛もって接してくれたら、そして、「よくやった私の愛するしもべ」と言ってくれたらナ〜」
1度家族のものに「○○とてもきれいだね、お掃除したの?」と言われ、身に覚えがない。ちょっと置物を移動しただけなのに。 でもすかさず 「アーそうなのわかった?」なんていってしまいました。
神様ごめんなさい!!
その後思わず一生懸命掃除している私がいました。
言葉は生きているのです。
ハレルヤ!!
3月8日
天然の悩み
天然ちゃんは掃除がきらいです。
なぜなら、まとめてやって、後はしないというやりだめができないからです。
1ヶ月分を1日でやって、後の日はお休みにしたいと思うのに、毎日毎日チリは情け容赦なく降り積もるのです。
無から有は生じないはずなのに、なぜか我が家の隅々には綿ほこりが生まれてくるのです。
空気中を漂うリエイやホコリを見てはため息、思わず祈ってしまった。
「神様、天国へ行ってまで掃除するような事はありませんよね。『都と大通りは純金、門は真珠』って書いてあるから、早く掃除しなくていい天国へ行きたい」
すると − 神は人を地のちりで造られた − という御言葉が浮かんできました。 それって、神様、人間がいる限り、チリも存在し続けるって事ですが?
天然ちゃんの悩みは尽きません。
3月4日

2月から休日に家の近くを散歩するようになった。
最初は健康維持のため、万歩計なるものをつけて、しかたなく始めた。
しかし、家のすぐ近くなのに、新しい発見が毎回数多くある。
最近は散歩に行くとき、携帯型のmp3プレイヤーで賛美を聞きながら、携帯型ナビで歩いたところを記録しながら、歩いている。
家のすぐ近くに鬼怒川がながれていて、土手を歩くのが一番気に入っている。
うれしいことは、一歩踏み出したとき、すぐそこにある。
感謝します。
2月28日

ミーちゃん いやされる
関東賛美大会の開かれる週は、次々と問題が起こった一週間でした。
月曜日には次女が風邪で熱を出し、4日間も熱が上がったり、下がったりを繰り返す中で、大学の後期試験を受けられず、追試が決定しました。
木曜日には三女が凍結した道路で自転車ごと転倒し、頭を強打して、その日は学校で一日中寝込む事態となりました。
極めつけは、土曜日の午後、我が家の愛猫のミーちゃんのオシッコが出なくなってしまったのです。
部屋の中を右へ左へ走り回っては、人の顔を見てニャーニャー泣きます。
どうしようと途方に暮れましたが、「あなたがたのうち、ふたりがどんなことでも、地上で心をひとつにして祈るなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださいます」(マタイ18:19) のみことばを思い出し、子供たちに連絡を取って、一緒に祈りました。又、主人にもいやしの祈りをしてもらいました。
祈られている間、ミーちゃんはジッとして神妙な顔をしていました。
次の日曜日は関東賛美大会の為、医者にも連れて行けず心配していましたが、いやされたらしく、ピタッと騒がなくなり、くつろいで寝るようになりました。
神様に感謝しています。
                                    天然の母
2月20日
私は音楽が大の苦手で、今でも音楽についての知識など全くない。
にもかかわらず、神様は別の形の奉仕を備えてくださった。
録音したり、HPに乗せたりなどが主な内容だが、これは心から喜んでさせてもらっている。
しかも、この奉仕を通じて、パソコンの知識が自分でも驚くほど向上した。
過去を振り返って、主が与えてくださった恵みの大きさに感謝。
2月19日
先日久々ホームページのトップページをリニューアルしてみた。
不思議なもので、あんなに遠ざかっていたのに更新するのが楽しくなった。
これも神様の恵み。
感謝します!