陸奥出羽にて
きさかたやなぎさに立ちてみわたせばつらくとおもふ心やはやく
(重之集/源重之940-1000)
羇旅、出羽の国にまかりて、きさかたといふ処にてよみ侍る
世の中はかくても経けりきさ潟の海士の苫やを我宿にして
(後拾遺集1087/能因法師988-1050)
島中有神、云蚶方
あめにますとよおか姫にこととわむいくよになりぬきさかたの神
(能因法師集/能因法師988-1050)
きさかたや海士の苫やの藻塩くさ恨むることの絶ずもある哉
(堀河百首1105/大江匡房1041-1111)
きさかたやあまの苫やの藻塩くさ恨むることの絶ずもあるかな
(和歌色葉集1198/源俊頼1055-1129)
さすらふる我にしあればきさかたのあまの苫やにあまた旅寝ぬ
(堀河百首1105、新古今集1205/藤原顕仲1059-1129)
きさかたやしばの戸ぼそのあけがたにこゑうらぶれてちどりなくなり
(家集・浦千鳥、夫木和歌抄1310/源仲正1066-1140)
遠村霞 歌林苑
きのふ我やどかりくらし過ぎてこしこやの渡はかすみ隔てつ
此のさともさこそみゆらめきさがたやあまの苫やも霞こめつつ
(林葉和歌集1191/俊恵1113-1191)
遠く修行し侍りけるに、象潟と申所にて
松島や雄島の磯も何ならずただきさがたの秋の夜の月
(山家集/西行法師1118-1190)
きさがたのさくらは浪にうづもれて花のうへこぐ海士のつり舟
(伝/西行法師1118-1190)
きさかたやあまのとまやにさぬるよはうらかぜさむみかりなきわたる
(久安百首・冬十首1150/藤原隆季1127-1185)
山家の雪といへる心をよめる
打ちはらふ衣手さえぬきさがたやしらつき山の雪の明ぼの
(月詣和歌集1182/恵円法師)
浦かぜもしおたれにけりきさかたの雲のとまふく五月雨の頃
(玄玉和歌集1191/素覚法師家基1261-1296)
百首歌合・恋部上旅恋・廿九番
きさかたやいもこひしらにさぬる夜のいそのねざめに月かたぶきぬ
(六百番歌合1192、井蛙抄1392/顕昭1130-1209)
きさかたやいそ屋につもる雪みれば浪のしたにぞあまはすみける
(正治初度百首・冬1200/守覚法親王1150-1202)
松島や雄島しほかま見つつきてここに哀れをきさかたの浦
(菅薦抄/親鸞1173-1262)
おしまれぬ命も今はおしきかなまたきさかたを見んと思へば
惜しからぬ命も今はおしきかな思ひとどめし松のみどりに
命あらばまたも来て見ん象潟の心とどめし松のみどりに
象潟の汐干の磯に旅寝して袖にぞ月をやどしぬるかな
詠むればいとど哀れぞまさりゆくおもひ入江のあまのつり舟
(継尾集/北条時頼1227-1263)
きさかたとおもひし程にいそかれて帰るなみたに袖はぬれける
(西明寺時頼1227-1263)
羈中晩嵐を
きさがたのあまのとまやにやどとへば夕浪あれて浦風ぞ吹く
(瓊玉和歌集1264/宗尊親王覚恵1242-1274)
祇園、山城、文永八年(1271)
毎日百首中、
蚶潟明神、島中有神
あめにますとよおかひめにこととわんいくよになりぬきさかたの神
(夫木和歌抄1310/民部卿為家卿1198-1275)
いつかとは思ひをとめて象潟のあまのとまやに秋風ぞ吹く
(遊行寺他阿上人1237-1319)
さ夜衣さながら浪をきさかたやいそのね覚ぞ都にもにぬ
(草根集・磯浪1429/正徹1381-1459)
限なき秋の思ひもきさかたや月の浜風ふけぬこの夜は
(松下集・潟月1424/正広1412-1493)
きさかたやあまのとまやの秋をへて月のしらなみあらずとはなし
(雪玉集・潟月1670/三条西藤原実隆1455-1537)
出羽に配流さるる
きさかたのいはさの浪は早けれどこころの月はかげもすみつつ
(1629/沢庵禅師1573-1645)
木綿布子もかりの世
干鮭は霜先の薬喰ぞかし。其冬は佐渡が嶋にも世を渡る舟なく、出雲崎のあるじをたのみ、魚売となつて北国の山々を過こし。今男盛二十六の春、坂田といふ所にはじめてつきぬ。此浦のけしき、桜は浪にうつり誠に「花の上漕ぐ蜑の釣舟」と読みしは此所ぞと、御寺の門前より詠れば、勧進比丘尼声を揃えてうたひ来れり。是はと立よれば、かちん染めの布子に、黒綸子の二つわり前結びにして、あたまは何国にても同じ風俗也。
(好色一代男・巻三1682/井原西鶴1642-1693)
象潟蚶満寺にて
経音ン荻に有をのれ角折ル磯栄螺
象潟にて
月ハ蚶潟や下戸ハ見のがす芦間蟹
(稲莚1685/木枯の言水1650-1722)
巳に六江を立て、保呂波山に通夜して、本城の船津を過ぎ、鳥海山の腰を廻る、当山は功名の霊地なれども、いまだ雪深く禅頂の時ならねば、不参し侍り、漸々蚶象にいり、蚶満寺欄前、湖水を眺望す、向に鳥海山高々と聳、「花のうへこぐ蜑の釣船」とよみしも、げにとうちゑまるゝ、寺院の伝記什物見て、
西行ざくら木陰の闇に笠捨たり
毛を替ね雪の羽をのす鳥の海
波の梢実のるや蚶が家ざくら
(三千風行脚文集1689/大淀三千風1639-1707)
江山水陸の風光数を尽して、今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越、磯を伝ひ、いさごをふみて其際十里、日影やゝかたぶく比、汐風真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫作して「雨も又奇也」とせば、雨後の晴色又頼母敷と、蜑の苫屋に膝をいれて、雨の晴を待。其朝天能霽て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸にあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行法師の記念をのこす。江上に御陵あり。神功后宮の御墓と云う。寺を干満珠寺と云。此処に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海、天をさゝへ、其陰うつりて江にあり。西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築て、秋田にかよふ道遥に、海北にかまへて、浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり、俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはへて、地勢魂をなやますに似たり。
象潟や雨に西施がねぶの花
汐越や鶴はぎぬれて海涼し
祭礼
象潟や料理何くふ神祭
曾良
蜑の家や戸板を敷きて夕涼み
みのゝ国の商人低耳
岩上にみさ鳩の巣をみる
波こえぬ契りありてやみさごの巣
曾良
(おくの細道1689/松尾芭蕉1644-1694)
蚶潟や幾世になりぬ神祭り曾 良
きさがたや色々の木をミな桜清 風
象潟や霜にあけ居る鷺の足素 英
象潟や夕食過のほたる舟釣 雪
象潟や蜑の戸をしく夕すゞミ低 耳
今ならバ能因を我が宿の月能登屋
象潟や藻の花渡る夕すゞみ安 種
象潟のさくらに見たし二王門玉 志
象潟や苫屋の土座も明けやし曾 良
(不玉撰・継尾集1692/不玉1648-1697)
すず風や蚶の入江を待ありく
(1692/各務支考1665-1731)
坂田より象潟へ行く道、かたの如く難所、半分は、山路岩角を踏み、牛馬不通、半分は、磯伝ひ、荒砂のこぶり道、行き行きて塩越、則ち象潟なり、
象潟眺望、小島の数七十八、
東鳥海山、西荒海、
町の末、板橋の下、昼夜潮の指引あつて、満干毎に、潟の姿異なり、
皇宮山干満珠寺、額月舟筆、鐘楼山、西行桜、閻魔堂、骨堂、袖掛堂是也、阿弥陀堂、観音堂、薬師堂、赤坂普賢堂、十王堂、冠石、神明腰掛石、両玉山光岩寺、山光山浄専寺、青塚、若宮、塔ケ崎、物見山、船着八幡、熊野堂、二
堂、三石、堤留、鯨濱、稲賀崎、鼾崎、大石、伊佐野神山、火灯山、烏石、上白山、森問、高島弁財天、下白山、海人森、大鹿渡、唐渡山、十二森、漕當、男潟、女潟、腰長、合歓木、大師崎、八騎濱、女鹿渡、雎鳩巌、八つ島、能因島、
松島象潟両所ともに感情深く、其の俤彷彿たり、倭国十二景の第一、第二、此二景に限るべし、
きさかたや唐をうしろに夏搆
能因に踏まれし石か苺の花
(陸奥鵆1696/桃隣1638-1719)
暑き日は鳥海山の雪見哉
誰籠る能因嶋に夏百日
(眺望1696/桃隣1638-1719)
一、富士。二、松嶌。三、箱崎。四、橋立。五、和哥浦。六、鳰潮。七、厳嶋。八、蚶象。九、朝熊。十、松江。十一、明石。十二、金沢。
其の第八 蚶象
金言帑ももつたかやまひしやとてむさと使捨しハきか僻とて臍の下の冷るにあたら宝にかひゐさせて死かねたるもうるさし唯水火盗人のおそれなき腹中の蔵に書物を積んにハしかしこれは焉三世にわたる宝かの
きさかたの岸辺に咲る卯花の雪を洗ひて帰る波かな
下闇にねいる西行さくらかな
(本朝十二景1699/大淀三千風1639-1707)
五 幽霊の足よは車
出羽の国蚶瀉といふ所は、世に隠れなき夕暮のおもしろき海辺なり。汐越の入江々々、八十八潟・九十九森、皆名にある所也。蚶満寺の前に、古木の桜あり。是ぞ「花のうへこぐ海士の釣ぶね」と、読しむかしを今見て、替る事なし。惣じて歌執行の人、それぞれの筆を此寺に残しぬ。今の世にもてはやしける俳諧師もめぐりきて、爰の気色、発句それぞれに作あり。仙台の三千風、南都の言水、大津の道甘、南部の友翰、最上の清風など、又は秋田の桂葉・祖寛。大阪の玖也、岩城にめされし折ふし、奥筋の名所、日数かさねて詠めつくし、此所殊にあかぬさまに、道の記にもあり。
(名残りの友・巻の三1699/井原西鶴1642-1693)
西行上人
象潟の桜は浪に埋もれて花のうへ漕ぐ蜑のつり舟
花のうへ漕ぐとよみ玉ひける古き桜もいまだ蚶満寺のしりへに残りて、陰、浪を浸せる夕ばへいと涼しければ
夕ばれやさくらに涼む浪のはな
此句は古歌を前書にして、その心を見せる作意成るべし。
(三冊子1702/服部土芳1657-1730)
やよひ末の九日、蚶瀉に着く。爰も法のよしみとて、高岸寺と云禅林にやどる。
雨催ふしたれば、波静かに花あたゝかなる。かの「うへこぐ」とよめるけしき、いかで見捨んやと舟をうかむ。鳥海雪残りて半嶺雲につゝまれ、ふもとの桜くもり合ひて、今や行春とも見えず。「春水纔に深し四五尺」とは、誠に此浦の春辺ならん。島々をめぐり来て蚶満寺に至れば、雨静かに打降りて花も散ぬべし。
きさがたの涙もろさよ花の雨
翁の御きさがたに記念して、「恨るがごとし」となん聞こえし、さるながめにぞ侍る。
けふ迄と蚶吹寄せて波のおと
(笈の若葉1739/建部綾足1719-1774)
高浪や象潟は虫の藻にすだく
(1773/加舎白雄1738-1791)
白峰
あふ坂の関守にゆるされてより、秋こし山の黄葉見過ごしがたく、濱千鳥の跡ふみつくる鳴海がた、不尽の高嶺の煙、浮嶋がはら、清見が関、大磯小いその浦浦。むらさき艶ふ武蔵野の原塩竈の和たる朝げしき、象潟の蜑が笘や、佐野の舟
梁、木曾の桟橋、心のとどまらぬかたぞなきに、猶西の国の歌枕見まほしとて、仁安三年の秋は、葭がちる難波を経て、須磨明石の浦ふく風を身にしめつも、行く行く讃岐の真尾坂の林といふにしばらくつゑを植む。草枕はるけき旅路の労に
もあらで、観念修行の便せし庵なりけり。
(雨月物語・巻の一1776/上田秋成1734-1809)
象潟や墨絵の中に花一木
(1777/蓑笠庵梨一1714-1783)
さて日も暮れようと、枯れ葦の茂る中を舟を引きだし、磯ひと山などを見やりながら、もとの岸にあがり、三熊野の神を祀った岩根にのぼり、遠近を眺めた。
やがて、多くの島は夕霧にかくれ頂きばかりがわずかにみえ、舟人の行く棹の音だけが聞こえてくる。かなたの海面は荒れ、むらがり立つ岩に波がうちあげ、音がすさまじく聞こゆる。
この浦の眺めにはただ心が満ちたり、涙ばかりこぼれ、ひたすら故郷のことを思うた。
(遊覧記1784/菅江真澄1754-1829)
あま衣錦にかえてきさかたの島山あらしさそうもみじ葉
旅衣ぬれてはここにきさかたの海士の苫屋に笠やどりせん
象潟のあわれしれとや夕まぐれこぎつれ帰る海士のつり舟
年経ども思ひしままに象潟のあわれをしむる夕暮れの空
旅衣わけこしここに象潟のうらめずらしき夕暮れの空
浪遠くうかれてここに象潟やかつ袖ぬらす夕ぐれの空
(1784/菅江真澄1754-1829)
蚶満寺の境内よりは八十島は一眼に見る所なし。北の方には民家の墓所にて見苦しく、南東の方には藁くろなどといへるものをならべ、干潟は無名の草茂り、枯木割竹など打ち散りて、奇麗なる所は稀なり。潮入りわずかなる口よりさしこ
み、蚶満寺をくるくると取り廻して、島じまの風景も広く、あしき所にはあらざれども、名に聞きしよりは悪し。九州薩摩の坊の津・桜島などにくらべおもふに、桜島・坊の津勝れたり。
きさかたや今はみるめのかひもなしむかしながらの姿ならねは
潮越の町は海士人数多にて、いとなみ繁きを見て読める。
いとまなみ潮越す浦の蜑人はかはく袂をぬるゝといふらん
(東遊雑記1787/古川古松軒1726-1807)
象潟や嶌がくれ行く刈り穂船
象潟もけふは恨まず花の春
象潟や桜を浴てなく蛙
象潟や浪の上行く虫の声
象潟や能因どのの夏の月
(1789/菊名・小林一茶1763-1827)
象潟や森の流るゝ朝かすみ
(1791/吉川五朗)
象潟や浪は新樹の簿萌黄
(1791/青々処卓池1768-1846)
《1802/伊能忠敬象潟測量》
拾ひたる命なるべし今日の月
(1804/常世田長翠1753-1813)
《1804/象潟大地震で潟が隆起》
夕くれは泣くに不足はなかりけり
(1804/松窓乙二1755-1823)
鳥海山は海を埋め干満寺は地底に入る
象潟の欠けを掴んで鳴く千鳥
蝉なくや象潟こんどつぶれしと
(七番日記1818/小林一茶1763-1827)
後の世にきさかた人と生れきて我が思うまま島めぐりせん
はるばるとたづねきしきさかたせめてもに浪の花でも散らせ桜木
(1893/落合直文1861-1903)
秋高ふ入海晴れて鶴一羽
鳥海にかたまる雲や秋日和
象潟や秋はるばると帆掛船
象潟の海にかわりて秋の風
(奥州行脚1894/正岡子規1867-1902)
朝いと夙う起き出でゝ象潟の跡を訪ふに、九十九杜八十八潟の往時は夢とやなりし幻とやなりし、其俤だに今は無
くて水田漠々露■々、花の上漕ぐ釣り舟の跡絶えて茲に殆ど百年、稲の穂浪のよるばかりなり。これ皆昨日より眺望
に入れる鳥海山の為せし業にて、奥の松島にも勝りしといふ象潟の勝景は嘉祥に成りて文化に亡びしと云ふ。桑田碧
海の譬喩今さら驚かんは愚なる事ながら、流石眼のあたりに之を見ては又もや今我が立てるあたりの渦巻く淵と成らんも知れずと、そぞろ領元寒き思ひす。
(遊行雑記1897/幸田露伴1867-1947)
見れば見るほど象潟の夏寒し
(1902/春秋庵幹雄1829-1910)
その怨むごとき幽艶にして清趣に富める一場の風景は、忽然としてこの世のものにはあらずなりぬ。されど其の島の北、其の寺の址を思ふに、この潟の美は蓋し鳥海山は朝に夕に、雪に月に、その変幻極まりなき秀色を呈して潟の清波に映
ぜる影は描くがごとく、島上に松の蟠れる、漁舟の遠く大海にたゞよへる、一として天下の勝たるに恥ぢざるなるべし。蚶満寺の山門の松樹に隠見せるを認めて、直ちに車を下りてこれを訪ふ。粛然たる村寺にして、本堂の徒に広大なる、茅葺屋根の半ば傾きかけんとしたる、また旧蹟を弔ふにかなえり。
(羽後の海岸1903/田山花袋1871-1930)
象潟はうもれて蝉の声暑し
(1906/石井露月1873-1928)
羽後由利郡本荘
百合の山路越え来て合歓の花の里
合歓咲くや河水を汲む桔槹
羽後象潟
百合の香やありふれたれど哀れなり
平沢からは路傍の眺望が一変する。丁刃の森のような小さな丘が散在して、相凭り相隔たるようになる。丘の上には杉の森か松の古木がある。何もない草山のもある。丘の形にさして風変わりなのもないけれども、丘と丘との間が一面の青田になっておるので、松島の水があせて田になったような思いをする。
金浦の村端れの丘に登って、この多丘の景の上に、嶄然とした鳥海を仰ぎながら、一方に果もない海を控えたのに飽かず対して、一幅に纏った大なる画と賛嘆する。海端には一帯の松林がある。松林の果ては海岸の曲浦が参差として出入し
ておる。画としても曲節のある、変化に富むものじゃと衆口一致して、海吹く涼風に吾を忘れておる。由利の景は天下の景である。
(三千里1907/河東碧梧桐1873-1937)
《1922/この年の三月末、酒田から象潟に足をのばした竹久夢二は、そこで象潟、七人行≠ニ題するスケッチ帳を残す》
旅にて
かなしみは鳥海山の春の雪きみの笑へばはた消えにつゝ
(1925/竹久夢二1884-1934)
悌や十粒の雨にねぶの花
(1929/安藤和風1866-1936)
或日は又遽かに暑くなつて、葉子は彼をさそつて橋の下から出る蟹釣船に乗つて、支那の風景画にでもあるやうな葦の深い彼方の岩を眺めながら、深々した水のうへを漕いで行つた。葉子の家の裏あたりから、川幅は次第に広くなつて、浪
に漾つてゐる海猫の群に近づく頃には、そこは縹渺たる青海原が、澄み切つた碧空と融け合つてゐた。
「明朝蟹子持つて来るのよ。屹度よ。私の家知つてゐるわね。」
葉子は帯の間から蟇口を出して、幾許かの金を舟子に与えたが、舟は既に海へ乗り出してゐて、間もなく渚に漕ぎ寄せられた。葉子は口笛を吹きながら、縞セルの単衣の裾を蹇げて上つて行くと、幼い時分から遊び馴れた浜を我物顔にずん
ずん歩いた。手招きする彼女を追つて行く庸三の目に、焦げ色に刷かれた青黛の肌の所々に、まだ白雪の残つてゐる鳥海山の姿が、くつきりと間近に映るのであつた。その瞬間庸三は何か現世離れのした感じで、海に戯れてゐる彼女の姿が山
の精でもあるかのやうに思へた。庸三はきらきら銀沙の水に透けて見える波際に立つてゐた。広い浜に人影も差さなかつた。
「僕の田舎の海よりも、ずつと奇麗で明るい。」
「さう。」
彼は彼女の広げる袂のなかで、マツチを擦つて煙草を吹かした。
最初着いた時分には、よく浜へも出て見たし、小舟で川の流を下つたり、汽車で一二時間の美しい海岸へ、多勢で半日のピクニツクに行つたりしたものであつた。
(仮装人物1938/徳田秋声1871-1943)
象潟
秋の光しづかに差せる通り来て店に無花果の実を食む
象潟の蚶満禅寺も一たびは燃えぬと聞きてものをこそ思へ
秋すでに深まむとする象潟に来てさにづらふ少女を見たり
象潟の海のなぎさに人稀にそそぐ川ひとつ古き世よりの川
あかあかと鳥海山の火を吹きし亨和元年われはおもほゆ
鳥海の北のなだれは荒々し芭蕉も見けむこのありさまを
(白き山1947/斎藤茂吉1882-1953)
夕つ日に薄く赤らみ鳥海山を今よぎりゆく雲の大いさ
(1945/森本治吉1900-1977)
八重桜はなの散る日に来りけり古きみ寺の春を惜しむと
(1949/松村英一1889-1981)
渡烏鳥海の裾海に沈む
(1950/福田蓼汀1905-1988)
象潟や涼しき潮に千松嶋
合歡花淋し翁と別れ古の越
(隠居後1952/松根東洋城1878-1964)
俳緑厚く三代の住持蚊遣次ぐ
(1952/和三幹竹1892-1975)
象潟やさま変りたる田植唄
(1957/山口青邨1892-1988)
象潟や時雨の雲の海鴫りす
(1963/角川源義1917-1975)
万緑の一樹ねむの花末だ
(1963/秋元不死男1901-1977)
涼しさや潟の名残の藻のなびき
(1965/大野林火1904-1982)
雪雲に雪嶺鳥海鬱々と
象潟よ水田となりて島となれ
(1965/山口誓子1901-1994)
雪しづか愁なしとはいへざるも
(1966/中村汀女1900-1988)
象潟ではいつもと見るところをかえて、潮越や熊野権現を見た。今の象潟橋のあたりから海手にかけて昔の潮越であり、その左手の森が熊野権現である。文化元年六月四日の鳥海山の爆発で大地震が起り、地底の隆起で象潟はすっかり相貌
を改めてしまった。潮越は昔海の水がさかんに出入していたところで、
潮越や鶴はぎぬれて海涼し 芭蕉
と詠まれたようなところである。今はわずかに水が流れて昔の「右は象潟左は往還」とした「船つなぎ石」が残っているばかりで、芭蕉の訪れたとき祭りだったこのあたりも、しんかんと真昼の日が合歓の花にそそいでいるばかり、
象潟や雨に西施が合歓の花 芭蕉
という趣は、やはり雨の日でなくては味わえないようである。
雲白くして合歓の花ねむかりき 楸邨
象潟やけぶればかをる合歓の花 知世子
(奥の細道吟行1968/加藤楸邨1905-1993)
さらに南下して金浦という浜辺の町をすぎるころから、左側の地形が、陸であるのに海であるかのような印象をあたえはじめた。
田畑のなかに点在している古墳状の丘は、じつは島だったのにちがいない。
この傾向≠ヘ、象潟に入るとはなはだしくなった。
いよいよ海だった。
(これが象潟というものか)
さて、私は道路わきの田畑のあぜ道に入ってみた。その田畑は道路より高い。まわりを見わたすと、いくつかの島≠ェある。どれが能因島なのかはわからないが、いずれも黒松におおわれていて、じつに美しい。
それにしても、タテ・ヨコ一里の入江にたくさんの島が浮かんでいたというのは奇勝だったにちがいない。それがいま大地が盛りあがって、田園のなかに散在している。これも妙趣というほかない。
象潟や雨に西施が合歓の花
芭蕉のイメージには、蘇東坡の「西湖」の詩があるのだが、後世の私どもにとってはそういう知識はこの句の鑑賞のさまたげになる。西施のことも知らず、蘇東坡の詩も知らずにこの句を感ずるほうが、はるかに凄みがある。
象潟はもはや陸地になっているとはいえ、この一句によって不滅になった。西行は象潟を絵画にし、芭蕉は音楽にしたともいえる。
(街道をゆく・秋田県散歩1987/司馬遼太郎1923-1996)
飲湖上初晴後雨
水光瀲艶晴偏好 山色空濛雨亦奇
若把西湖比西子 淡粧濃抹総相宜
(北宋・蘇東坡1036-1101)
六月の海に入日の象潟よ
(後藤輝子)
象潟や合歓の終りを通り雨
(長谷川せつ子)
旅人とすれ違ひ夏蝶とすれ違ふ まどか
象潟は松島と並ぶ名勝。しかし芭蕉さんが訪れてから百二十九年目、大地震で土地が隆起し、湖は消滅してしまい、今は田んぼの中に小島が点在している。松島と対応させて書かれた象潟は、松島が“笑ふが如く”に対して“うらむがごとし”となっている。芭蕉は象潟の何をうらむがごとしと感受したのだろう。
象潟や雨に西施がねぶの花
云々。芭蕉さんが上陸した能因島へ……ただし船ではなく徒歩で。
能因法師が象潟を訪れたのは1051年。この島に籠り“世の中はかくても経けり象潟の海人の苫屋をわが宿にして”と詠んでいる。島のてっぺんに立ち、周りを見渡すと、青田を渡る風が稲を踊らせてさざ波をつくっている。観光名所となり、豪華な遊覧船が行き交う現在の松島より、青田の海にひっそりと小島の浮かぶ象潟の方が、詠み人の立場からするとはるかに心惹かれるものがある。
西行もまた象潟を能因法師の百五十年後に訪れて、“きさがたの桜は波にうづもれてはなの上こぐあまのつり舟”と詠んでいる。敬慕する先人たちが詠み継いだ歌枕の地に佇ち、愁いを帯びた象潟の景を目のあたりにして、芭蕉もさぞや感慨深かったに違いない。
さて、夏の名物“岩がき”を食べようと、食堂へと一路走る途中、偶然にも芭蕉が象潟で宿泊した能登屋跡を発見。
さて岩がきのフルコースに舌鼓を打ち大満足の私が売店で見つけたものは、ナントその名も“芭蕉汁”。いったいどこが芭蕉汁なんだろうと謎は深まるばかり。オマケにみやげ物には“芭蕉も食べた美味しい岩がき”なんて大胆にも書かれている(そんなの曾良旅日記にも出てこないんですけどォ……)。
いずれにしてもここ象潟で折り返し、旅は後半の部に突入する。
香水を一振り旅の休止符に まどか
(ら・ら・ら「奥の細道」1998/黛まどか)
「象潟はうらむがごとし」と記されて裏の日本に降るねむの雨
(新・おくのほそ道2001/俵万智)
象潟 廃仏毀釈
象潟を一望する位置には蚶満寺という古寺があるが、その参道の隅に石仏がおわした。
見てのとおり、首の代りに丸い石が載っている。なかなか味のある表情で、禅味が感じられたりもするのだけれど、本当の事情はそんな安閑としたもんじゃなかった可能性がある。各地に残るこうした顔なしの石仏は、明治維新の時に吹き荒れた廃仏毀釈によって生み出された、と私はこのごろ考えている。ガキたちのイタズラにしてはやり過ぎているからだ。
何見しか聞けど口なし野の仏 照暮
象潟 西施
我々が象潟に入ったのは夕方。一日中、雪か、止んでも地吹雪吹きすさぶという大荒れの中、宿はどこかと入った道が大間違い。仕方なくUターンした時に笑っていたのが、この顔の家。家は見方によって人の顔に見えることがあるが、ここまで楽しそうに笑っている顔は珍しい。
どことなく下ぶくれの顔が「お多福」のようでもあり、お目出度いような笑顔でもある。しかしここは象潟なのだから越の美人「西施」の笑顔としておこう。
象潟や雪に西施が笑みの顔 丈外
(奥の細道 俳句でてくてく2002/路上観察学会)