は し が き


  稿本《秋声文献年表》のコピーを二本つくった。
  一は野口冨士男氏に献呈、他を木下信三に預託しようがためである。
  七年くらいまえのことだ。名古屋のある古本屋が、私にこうした草稿のあることをしって、本にし てやろうという話になった。よろこんだ私は整理にかかったところ、浄書どころか、補訂やら再調査 やらで、たちまち一年余がたった。それでもまあ、ここいらがキリだ、いじりまわしていてはとどめ もない。一応版にのせようと、原稿を本屋にまわした。
  ところが、話をもちかけられたときから時間は経過して、本屋の事情もかわった。まるまるおんぶ しての刊行はむつかしい。私も経済負担をしなければということになった。当初からこちらの虫がよ すぎたことで、あれこれ工面の目途もついたので、とにかく部分的な見本刷を、ついでにみつもりと のはこびになった。四ページ分ほどの校正刷ができ、見積書もきた。
  大変な計算である。これはもう仕方がない、のりかかった舟ならなんとか借金するばかりだ。とこ ろが、いけなかったのは、校正である。活字になったところでウンザリしたのだ。なんとも無意味な 仕事におもえてならなかった。おろかな所業である、これは文学となんのかかわりがあろうとの嫌悪 感が胸いっぱい。ニ、三日はむかむかとして、出版放棄を決意した。
  申し訳なかったのは、野口氏の序文ご執筆である。無理におねがいして、頂戴できたのは昭和四十 五年六月のことである。序に同封されたお手紙には、六月七日早朝とある。折からご多忙で、徹夜ま でを私は氏にしいたことになる。私の軽率とわがままから野口氏にはひどいご負担をかけてしまい、 それを無為にはてさせたわけである。ここにあらためてふかくおわびします。
  せめて私が鋭意努力のあかしにと、副本一通をお手もとにおとどけしたいとの念願はそれ以来のも のだったが、いますこし手をいれてと、ついつい延引、こんにちにいたった。たとえば新潮社版正宗 白鳥全集の発行年月のごときすら、欠落のままではあまりの粗略さだが、これ以上の延引は機をうし なうことになろう、いずれ補訂の折もあろうが、それまではご寛恕をねがうことにして、この一本を つくった。
  また木下信三氏は私のわかい友人、山と近代文学をあいし、篤実な人柄ながら、酒品またいやしか らず、私の敬愛、信頼するひとだ。いまだ浮浪癖おさまらぬ自身をかえりみ、この一本の恵存をえよ うとおもうものだ。


    一九七五年一月一七日

                          野 川 友 喜


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