野川友喜さんは、なにかエタイの知れない、ちょっと不気味なところのある人である。
徳田秋声の文学のくわしい方には、生島遼一、猪野謙二、岩永胖、宇野浩二、榎本隆司、小田切秀雄、
小野寺英記、加藤勝代、川端康成、塩田良平、寺田透、徳田一穂、平野謙、平野仁啓、広津和郎、吉
田精一、和田謹吾、和田芳恵などの諸氏がいて、江藤淳、小島信夫、野田宇太郎の諸氏が文学全集の
解説を担当されているが、野川さんはそれらの人達とまったく違っている。在野の人という意味で
私に最も近い存在だが、秋声に対する打ち込み方のファナティックというか、モノメニヤックな点で
は私の遠く及ぶところではない。
野川さんは昭和三十四年十一月から三十六年十二月までの期間に、「徳田秋声覚書」というシリー
ズを名古屋から発行されている「作家」へ前後九回断続的に発表して「作家賞」を受けた。「新世帯」
「仮装人物」「足迹」「爛」「或売笑婦の話」「あらくれ」「黴」「縮図」などの精緻な論考が、愛読者の一
人であった私は掲載紙を崩して手製の製本をした一冊を現在も大切に保存している。参考資料の博捜
ぶりには驚嘆すべきものがある。
野川さんを私が知ったのは一種の奇縁で、私は三十六年十月の「文学者」に「秋声追跡――『未解決のまゝ』のお冬」という文章を発表したとき、その文末に野川さんのことを書いた。それを見て野
川さんが拙宅へみえたのが最初だから九年前である。そのころ野川さんは四谷のドヤに住みながら、
新宿でサンドイッチマンをしていた。サンドイッチマンをしてドヤに住みながら、秋声の研究に文字
通り没入していたのだが、「徳田秋声覚書」のシリーズは、そんな生活の中からは到底うまれ出て来
る筈のないすぐれた内容をそなえていた。私は案内されるままに一度そのドヤへ訪問して、氏の秋声
に対する執心に打たれた。感動という言葉は、あの時の私のために用意されていたようなものであっ
た。すべての時間と、すべての収入を、当時の野川さんが秋声に注ぎこんでいたことは明白であった。
そんな野川さんが、その後ふっつり秋声関係の文章を書かなくなった。名古屋へ帰って結婚したら、
お子さんが生まれたというような消息は伝えてくれても、秋声についてはプツリとも漏らさなくなっ
た。私は中途で秋声を捨ててはいけないと、何度か手紙に書いた。それに対しても野川さんは沈黙を
つづけていたが、研究は黙々として続行されていた。それが、この「徳田秋声研究年表」である。原
稿をみせられて、私は彼の執心が沈黙のあいだもずっと燃えつづけていたことを知って、ふたたび打
たれた。
これは、時間があれば誰にでもできるという仕事ではない。野川さんの執心によってはじめて成し
遂げられた成果である。これは、秋声研究の上に欠かすことのできない貴重な資料である。ここに、
秋声研究の扉をひらく鍵があって、この鍵を持たずには扉がひらかないことが明らかになった。本書
は、そういう重要な意味をもつ一冊である。野に遺賢なしという言葉があるが、野川さんはその遺賢
の一人である。遺賢とは、エタイの知れない野川さんのほんとうの無気味さを世間がまだよく知らな
いという意味であって、その一端がここに顕れている。