半世紀後の「最終証言」――Conclusive Evidence 第16章 Nabokov生誕100年の年明けを祝うように、Conclusive Evidence(1951、以下CE)の未発表の16章が、昨年末The New Yorker(1998年12月28日&1999年1月4日号 124−133頁)に掲載された☆。6つのセクションからなるこの章は自伝の最終章として1950年に書かれたものであるが、著者の判断によりそれまでの章のように雑誌への掲載もされず、本としてまとめられたCEにも、そのロシア語の改訂版であるDrugie Berega(1954)にも、さらにその英語の改訂版であるSpeak, Memory(1967、以下SM)にも含まれないままになったものである。Brian BoydによるNabokov伝の資料として使われたことなどから、この章の存在は知られてはいたものの、公にされたのはこれが初めてのことである。Nabokovのディスカッションリスト(Vladimir Nabokov Forum/NABOKV-L)からの情報によれば、Boydが今春Knopfから出版したSMにその章を含める許可を遺族から得た後で、Nabokov家の管財人がThe New Yorkerに版権を売ったという経緯によるものだという。何であれ、未発表のNabokov作品が読めることは読者にとっては純粋な喜び以外の何物でもない。それがいかにもNabokovらしい仕掛けに満ちたものであればなおさらである。およそ50年ぶりに登場した「幻の最終章」について紹介を兼ねて気づいたことを書いてみたい。 * 16章は、Nabokovの一人称で書かれたそれまでの15章とは異なり、匿名の書評家によるCEの書評という体裁をとっている。この書評家の手元に同じ日に届けられたもう一冊の自伝、Barbara BraunのWhen Lilacs Lastという架空の作品が共にとりあげられているが、アメリカの有名な教育学者の孫娘であるというこの著者の自伝のほうは比較のために言及されるのみで、作品として論じられてはいない。Nabokovが自作の批評を作品の中で第三者に語らせるという手法はこれが初めてではなく、主人公が上梓したChernyshevski伝についての批評が次々に「引用」されるThe Giftの5章の冒頭が思い出されるし、CE の14章でSirinを第三者として論じた部分にもいわば裏返しに使われているといえよう。16章の書評家はより積極的であり、この自伝の主題についてはじめのセクションで読者に重要な示唆をする。 It would seem to the reviewer that the permanent importance “Conclusive Evidence” has lies in its being the meeting point of an impersonal art form and a very personal life story. Nabokov’s method is to explore the remotest regions of his past life for what may be termed thematic trails or currents. Once found, this or that theme is followed up through the years. In the course of its development it guides the author into new regions of life. The diamond pattern of art and the muscles of sinuous memory are combined in one strong and supple movement and produce a style that seems to slip through grass and flowers toward the warm flat stone upon which it will richly coil. ここにCEの大枠をなす主題がほとんど指摘されていると言ってよいだろう。この書評家は後述するようにNabokovの価値観に対して批判的な場合もあって、常に作家本人として現れているわけではないのだが、この部分では匿名の仮面をはずして語っているように思われる。特に蛇の暗喩で語られる部分は、芸術表現と驚異的な記憶力との結合から生まれたこの自伝の特異な文体を示すと同時に、三段論法風に螺旋を描いて進展する人生という主題の展開をも暗示する、まさにNabokov的な記述である。 続いて書評家は、具体的にその螺旋を作り出す重要なモチーフを数え上げる――チェスプロブレム、ジグソーパズル、チェッカーボード、リズムのパターン、運命の対位法的性質、壊れた陶器の文様、螺旋の主題を完成する最後の絵解き等々。これらは自伝の中の「謎解き」の主題をさまざまに作り出している意匠でもある。書評家はそれらが作品の中で発展しつつ次第につながってゆき、自然、芸術、亡命、運命という大きな主題とも重なり、最後には多彩なすべての主題が虹のようにひとつになることを説明する。そして作者の人生があらかじめ未知の存在によってゲームの手として考えられ、そのとおりに進んで行ったものであり、この自伝の主題の扱いかたが、それに倣ったものであるということまでが語られる。15章はその全体が、これまで自伝の中で展開されてきた多くの主題が最終的に見事に収斂する場になっている。もし16章がCEに含まれていたとしたら、こうした書評家の手際のよいまとめ方に、15章を読み終えたばかりの読者はいくぶんおさらいをするような気分になっていたかもしれない。このあたりは少々作者/書評家の「親切」の度が過ぎているようでもあり、これが「幻の最終章」になった理由を感じさせる。 さらに書評家は、Nabokovの伝記的な記述に移って行く。ヨーロッパ時代の作家としての生活について書かれている部分では、Boydの伝記等でおなじみになっているいくつかのエピソードの原典にふれることができる。ベルリン時代にGeorge Adamovichとの反目からおきた「Vasili Shishkov事件」やパリでの「文学の夕べ」のエピソードも登場する。ハンガリー人の女性作家の代わりに急遽講演を頼まれてフランス語でPushkinの話をしたのだが、聴衆の大部分がフランス語のわからないハンガリー人で占められており、勘違いに満ちた喜劇的な雰囲気の中、会場には思いがけなくもJames Joyceが来ているというものである。中でも書評家に関してとりわけ興味深い部分は「作家の許可を得て」明らかにするNabokovの家族との偶然の邂逅のくだりであろう。SMには二人の弟について数頁が割かれているものの、CEには弟妹についての言及がほとんどない。それを埋め合わせるかのように、書評家はいとこのNicholasらしき人物から妹達と末弟Kirillについての噂を聞いたり、1920年代にプラハの「文学の夕べ」でKafkaの友人でもあり、DostoyevskiとRosanovの優秀な翻訳家でもある友人(名前はダッシュで伏せられている)に教えられてNabokovの母と妹のElenaを遠くから見たり、1930年代のパリでSergeiに会ったりする。このあたりはThe Real Life of Sebastian KnightのV.や、Pninの疑わしい語り手が語るPninとの邂逅を思わせて、この書評家をことさら怪しく見せている。 書評家とNabokovの関係は時に応じて揺れ動くが、それも16章の面白さの一つである。英米の知識人がコミュニストのプロパガンダを信じて誤ったロシア観・ソヴィエト観を持っていたことへの憤りや、The New Yorkerの編集者が要求してくる語句の変更への困惑や、同調査部と自己の記憶をめぐって対立したエピソード、Conradと比較されることへの不満、これらを語るところでは、書評家はNabokovの代理人のようであり、Nabokovがくりかえし訴えたかったことをとりあげる。それに対してNabokovが自作への批評に無関心であることを疑ったり、Freud, Mann, Eliot, Dostoyevski等に対するNabokovの評価を批判的に語る部分では、あくまで別人を装っている。もちろん全体としては、この書評家がNabokovのよき理解者、代弁者であることは言うまでもない。 * 16章によってCEへの補足がなされたり、読み方への示唆がなされている一方、この章が新しい「謎」を提示している部分もまたある。一つは先に引用した蛇の暗喩で自伝の文体が語られる箇所であるが、蛇そのものが自伝の中には現れず、また自伝に登場する螺旋がガラス玉の中の虹などの無垢で美しいものであるため、これは少々奇異な印象を与える☆☆。NABOKV-Lへの投稿でもこの部分に関するものがいくつか見られた。その中で重要な指摘だと思われたのは、ダイヤモンドの模様からガラガラ蛇らしく思われるこの蛇がヨーロッパには棲息しないアメリカ西部の生物であることを指摘し、ここに「アメリカ」の主題が暗示されているとするもの(D. Barton Johnson)と、石の上で陽光を浴びてとぐろを巻く蛇に新しい生をむさぼる姿を感じ、それを記憶の世界から新しい現実の生への動きと結びつけて考えるもの(Betty Oakes)である。確かにこの蛇の比喩には、人生のジンテーゼ的段階となるアメリカに安息の地を求める主人公の姿を重ねることができそうである。私自身は、この部分の「暖かな平たい石」にCEの6章の最後に出てくる「太陽と石との一体化の感覚」が暗示されていると考えている。そこでは「私は時間を信じない」という有名な告白に続けてNabokovは次のように書いている。 And the highest enjoyment of timelessness?in a landscape selected at random?is when I stand among rare butterflies and their food plants. This is ecstasy, and behind the ecstasy is something else, which is hard to explain. It is like a momentary vacuum into which rushes all that I love. A sense of oneness with sun and stone. A thrill of gratitude to whom it may concern--to the contrapuntal genius of human fate or to tender ghosts humoring a lucky mortal. (強調は引用者による) このような時間を超えた一瞬の官能的なまでの至福の状態こそ、蛇つまりCEの文体が目指しているものではないだろうか。この満たされた感覚は、書評家の説明にも登場した、自己の運命のパズルを考案している未知の存在を一種エピファニー的に意識することにも結びついている。これらの感覚が自伝全体にひそかに流れ続けているのである。 初めに簡単にふれたBarbara Braunとその自伝When Lilacs Lastを初めとして、この章に出てくる固有名詞についても疑問はつきない。LeninやDostoyevski, あるいはHenry James, Mannなどと並んで正体不明の固有名詞がいくつか登場する。特にこの章の最後の文“His [Nabokov’s] memoirs will find a permanent place on the book lover’s shelf side by side with Leo Tolstoy’s ‘Childhood,’ T. S. Elmann’s ‘Amen Corner,’ and Barbara Braun’s ‘When Lilacs Last’.” に含まれる固有名詞については、NABOKV‐Lでも議論が集中した。いくつかの説が出た後で、T. S. ElmannはNabokovが評価していなかったT. S. EliotとThomas Mannを一つにしたもの(David Rhoden)ということであっさりと決着を見た。その自伝であるらしいAmen Cornerについては、まずJames Baldwinの同名の戯曲の存在が指摘されたが、60年代のこの作品への言及と考えることは年代的に不可能であろう。その後、現実の地名、「窮地に陥った人間が最後の祈りを唱えるところ」という意味の方言、Anglo-CatholicであったEliotへの揶揄、南部の教会の会衆を指す等のさまざまな説が出たが、決定的といえる指摘はないままに終わったと思う。この題名にどのような含みがあろうと、NabokovがCEと並べて「T. S. Elmannの作品」を評価するとは考えられず、これは書評家と作家の距離を作るための韜晦とする以外に考えがない。ご教示いただければ幸いである。 Barbara Braunについてもまた多様な説が登場した。いわく、Eva Braunへの連想からBarbaric Nazis、タイトルから連想されるWhitman=Whitemanに対してのBra[o]wnという言葉遊び、さらにはbarbaric brownからNative American(!)への言及を考えるという不穏にも飛躍したものまで。最後にPriscilla Meyerが、イニシャルBBをキリル文字とするとラテンのアルファベットではVVに相当し、つまりV. V. Nabokovを指すもので、BBとVVはそれぞれがロシアとアメリカのNabokovに対応するという解釈を出したが、これが最も的を得た、面白い解釈であった。 次にWhen Lilacs Lastについてである。このタイトルからは、もちろん誰もがまずWalt Whitmanの“When Lilacs Last in the Dooryard Bloom'd”を考え、CEの中でところどころに現れ、実際にはこの作品が終わるところから始まるはずの「アメリカ」の主題をここに見ることになるだろう。それ以外の可能性としてNABOKV-Lに報告されたのが、30年代にドイツで大流行したという同名の曲の存在である。確かにベルリン時代のNabokovがその曲を聞いていた可能性は否めないが、はるかに興味深いのが、NabokovがStanley Kubrickのために書いたLolitaの映画脚本の中でCharlotteが読んでいた本のタイトルであるというDieter E. Zimmerの指摘である。脚本の中では、この本は30万部も売れた「今年最大の問題作」であり、Charlotteの説明によると、北部出身の男と南部出身の若い娘との恋愛を扱ったものであり、この二人はそれぞれ相手に母親/父親を求めているというものである。16章のWhen Lilacs LastがCharlotteの読んでいた小説なのだとすると、それをNabokovのCEと並べて評価する書評家の鑑識眼は怪しいことになるともZimmerは述べている。 しかしWhen Lilacs Lastがそのような小説であることが、Barbara Braun=Nabokov説のもう一つの決め手になるのではないだろうか。この小説は明らかにLolitaのパロディ版として脚本に登場しているからである。問題の場面でCharlotteは続けて、この小説の男女がそれぞれ産業化の進んだ北部と旧式な南部を象徴するという説明をしかけるが、Lolitaの“and it's all silly nonsense.”という評に中断される。ここに出てくるものと同種の図式的な読み――たとえば旧世界ヨーロッパと新世界アメリカのアレゴリー――が、精神分析的な読みと同様に、小説Lolitaの出版時にさかんになされたことはNabokov自身あとがきに書いているとおりである。このWhen Lilacs LastがLolitaの大衆向けのパロディ版だとすると、作者Barbara Braunも同様にNabokovの通俗的なパロディということになる。(この説の問題点はNabokovがKubrickのために脚本を書いていたのが1960年だったということで、常識的には戯曲の中でCharlotteの読む小説が16章のWhen Lilacs Lastに由来すると考えるべきところである。もっともBaldwinの戯曲の場合と違って、この場合の時間の逆転はさほど決定的な要素にはならないだろう)。 別の観点から、“When Lilacs Last”という表現により具体的な自伝とのつながりを読みとることもできる。CEの中でライラックは繰り返し記憶の中に登場する花・木である。母親が青と赤の絵の具を混ぜて描いてくれたライラックの木の水彩画に驚きの目をみはる幼年時代の場面に始まり、かつてないほど強い願望とともに蛾を待ち受ける少年の後ろには、夕暮れの薄闇の中で薄紫色の亡霊のように見える満開のライラックの茂みがあるし、彼が初めての詩を完成させた夕方にもライラックが満開であるし、ベルリンでDmitriが生まれた早朝、産院からの帰り道で父親になったばかりのNabokovは、雀たちがにぎやかにさえずるライラックと菩提樹の道を歩く。こうしてライラックは幼年期、少年期、青年期、壮年期のそれぞれに重要な意味をもつ場面を彩っている。When Lilacs Lastというタイトルは、その後のNabokovの人生においてもライラックに彩られるべきいくつもの場面の存在を予感させるのではないだろうか。 * 最後に「幻の結語」についてふれておきたい。出版社が「一般読者」のレベルを低く見積もりすぎていることへの不満はSMの前書きにも出てくる。この自伝のタイトルは、推理小説を連想させるという理由でCEからSMに変わったのだが、その際も商業的な理由から却下されたSpeak, Mnemosyneや、The Anthemionの代わりに選ばれたものである。既に述べたように、16章でも文法や語法のために雑誌から訂正を求められる作家の困惑についてふれており、書評家はそうした要求に応じて文体を犠牲にするべきでないとNabokovを支持している。ところが実に皮肉なことに、The New Yorkerは今回の16章の掲載にあたっても、半世紀前の態度を変えていないらしい。16章の結びの文章の最後から、そこに本来あったはずの“which I now propose to discuss”の6語が消えているのである。つまり、書評家がこれからもう一冊の「すぐれた」自伝When Lilacs Lastを論じようというところでNabokovはこの章を終えていたのに、その部分を表す語句をThe New Yorkerが削除してしまったらしい。「一般読者」にはこの唐突な終わり方が理解できまいという判断が今回もなされたということであろう。50年後の自伝の最終章の(生前には望まなかった)発表にあたってのこの処置を「別世界」からNabokovはどのように見ているか、考えずにはいられないところである。こうした皮肉な偶然の一致は確かにきわめてNabokov的であり、いかにもCEに登場しそうな逸話であるともいえるのだが。 ☆この号の表紙は、雪景色を背景に、赤いビキニ姿でサングラスをかけた若い女性がマットの上に腹ばいになって小説を読んでいる絵である。彼女は12才には見えないが、この表紙は明らかにLolitaを意識している。 ☆☆ CE/Speak, Memoryの中で蛇は、12章の次の比喩の部分のみに登場する。“And there was I standing on a chalky bridle path near a chalky stream bed where separate, serpentlike bands of water thinly glided over oval stones?there was I, holding a letter from Tamara.” |