イサカ時代のナボコフの家
1948-1959


ナボコフがコーネル大学に職を得てニューヨーク州イサカに移って来たのは1948年7月のことでした。以来1959年にこの地を離れるまで、10軒の家に住むことになります。スチュワートストリートのアパートを除くと、すべて一戸建ての家で、コーネル大学の教授が研究休暇(アメリカの大学には、6年勤めた後に1年間、あるいは3年勤めた後に半年間、研究のために休暇が取れる制度があります)で留守にした家を借りていました。

下の写真はすべて1997年11月29日に撮影したものです。当時私はお隣ニュージャージー州プリンストンに住んでいて(やはり「研究休暇」ですが、私の場合はおそらく生涯一度だけになりそうです)、Thanksgivingのお休みにイサカに行きました。イサカはその前の週にもう雪が降ったということで、ところどころに雪が積もっていました。伝記からの引用にもありますように若葉や紅葉の時期にはとても美しいところだそうですが、写真はご覧のようにすべて冬枯れの風景です。

以下伝記的な情報は、 Brian Boyd, Vladimir Nabokov: The American Years (Princeton, NJ: Princeton University Press, 1991). によっています。引用部分の頁数もこの本のもので、日本語は試訳です。





957 East State Street (July 1948--, September 1953--)
……電気工学の教授の家で、ナボコフ一家がイサカで住むことになる10軒の教授宅の最初のものとなった。一エーカーの芝生がノルウェイ唐檜の巨木から下方に並んだ木々と小川まで広がっていて、家の裏手の一階には書斎があり、この緑の広がりに面していた。その夏の初めにナボコフは蝶の採集に出かけたりテニスをしたりするほど体調がよくはなかったが、少なくとも庭を飛ぶ蝶(tiger swallowtail)を木漏れ日の中に寝そべって見ることはできた。「私達はすっかりコーネルに魅了された」とナボコフは到着早々に書いている。「そして私達をここへ連れてきてくれた親切な運命にとてもとても感謝している」(129頁)

tiger swallowtailの和名はメスグロトラフアゲハ。黄色と黒の縞模様の蝶です。飛んでいる映像をここで見ることができます。
<http://www.snacc.mb.ca/projects/butterfly_garden/tigerswallowtail.html>






802 East Seneca Street (August 1948--)

……「陰気な、灰色がかった白い木枠の家が」と後にナボコフは回想して書くことになる。「私の中ではニューイングランド、ラムズデイルのローンストリート342番地のもっと有名な家につながっている」イーストセネカストリート802番地の家はナボコフ一家が望んでいたよりずっと大きなものだった――一階に二つの居間、二階に四つの寝室――が、初めは「皺くちゃの小人のようなケンブリッジの小さなアパート」の後で歓迎すべき解放感に感じられたのだった。(中略)ナボコフ一家は、自分達が恐ろしく隙間風の多い邸宅に住んでいることも知った。1950年に一家がその家を去った後で、家の持ち主の女性の不満は、借家人一家が、屋敷内のドアから鍵を取り去り、すべての鍵穴に綿をつめてしまっていたことだった。(131頁)

ナボコフ読者には不要な説明でしょうが、ラムズデイル342番地は、小説『ロリータ』で同名の少女が住んでいる、第一部の舞台となる家です。ケンブリッジはここではイギリスではなく、イサカに移る前にナボコフ一家が住んでいた、ハーヴァード大学の所在地のほうです。伝記によると、この大きな家はナボコフ一家に予想外に経済的な負担をかけてしまい、引越しを余儀なくされます。しかもその際、自分達のわずかな家具やピアノまでも売りに出すことになったそうです。 ナボコフの家々を回った時、この家が最後になりました。午後2時頃でしたが、初冬のイサカはもう薄暗くなっており、番地のところに電灯がともっていました。







623 Highland Road (late August 1951--)

セネカストリートの大きな箱型の家より小さかったが、ハイランドロードの家はずっと静かで、居心地がよく、絵に描いたようで、すでに紅葉の気配をただよわせた木々の間に見え隠れしていた。(204頁)





106 Hampton Road (September 1952--)

……丘の上にある小さな家で、大きな見晴らし窓があり、そこからはケイユーガ湖のほぼ全体と丘の連なりが見渡せた。(219頁)





101 Irving Place (February 1954--)

春の学期の初めに、ナボコフ一家は、ステイトストリートに借りていた家からさほど遠くないところにあるまた別の教授宅、アーヴィングプレイス101番地に引っ越した。(257頁)

道順の都合から最初に行ったのがこの家でした。写真を撮る許可をもらおうと思い、ドアをノックして出ていらした30代ぐらいの男性に「お家の写真を撮ってもいいですか?ナボコフが住んでいた家の写真を撮りに来たのですが……」と話し始めると、即座に「コーネル・マガジンを持っていますか?見ましたか?」というお尋ね。「いいえ」と言うと、すぐに家の中から、雑誌の記事のコピーをホチキスどめしたものを持って来てくださいました。「写真が載っているから、これで確認しながら回るといいですよ」とはなんとご親切な!
後でコーネル大学の図書館で実物を見たのですが、『コーネル・マガジン』というのはコーネル大学で2ヶ月ごとに出しているちょうど『アエラ』のような感じの雑誌です。運のいいことにその年の夏号に「ナボコフ教授の家」の特集があって、7軒の写真が載っていたのでした。おそらくコーネル大学関係の方だと思いますが、ご本人もナボコフファンなのか、私のような人が大勢行くのか、きっと両方なのでしょう。

上の写真の右端に写っているのが、住所と地図を頼りに、この日10軒の家を回ってくれた、Best Western University Innのドライバー氏。こちらも親切な人でした。






700 Stewart Avenue (September 1954--)

西104番通りにあるアンナ・フェイギンのアパートでぎゅう詰めになって暮らした後、ナボコフ一家は、予定より2週間早く、9月1日にイサカに戻ることができた。キャンパスはずれのスチュワートストリート700番地のベルエア・アパート(<原文のママ!>とナボコフの註がある)30号室だった。(262頁)

アンナ・フェイギンは、ナボコフの妻ヴェラのいとこで、ナボコフ一家はこの夏3週間ほどニューヨークの彼女のアパートに滞在します。 「ベルエア」のスペルはBelleayreです。 「美しい風」というような感じになるのでしょうか。一見素敵な名前に見えるこの言葉は、ナボコフがおどけてチェックしているようにだいぶ怪しいのです。ボイド教授によれば、フランス語であればbel airとなるところを、女性形の形容詞belleが男性名詞のairについているのがまず変であり、次に英仏同じ形のairを避けてわざとayreという言葉を使っていることがさらにおかしいということです。ayreという言葉は英語の古い形のように見えるのですが、実際にはこのような単語はありません。

下の「付録」にホールの写真を載せてありますが、ナボコフ一家の趣味にはあまり合わない住居だったかもしれません。そういう意味ではこのアパートにふさわしい命名だったかもしれませんが。もっともBelleayreという名前のスキーリゾートがニューヨーク州にありますので、アパートの持ち主の独創というわけではないようです。上の写真は二枚をつなぎあわせているので3階部分がずれていますが、もちろん実際の建物はそのようなことはありません。






808 Hanshaw Road (July 1955--)

7月中旬、ナボコフ一家はスチュワートストリートの狭いアパートからハンショーロード808番地に越した。ケイユーガハイツに建った、小さな、住み心地のいい、これも教授の家だった。やがて、イサカに残っていたのは間違いだったことがわかってきた。猛暑で、湿度もうんざりするほど高かった。イサカに昔から住んでいる人たちは、これまでで最悪の夏だと言っていた。(269)





425 Hanshaw Road (September 1956--)

それからの半年間、彼らはケイユーガハイツのハンショーロード425番地にあるまた別の教授宅に住みついた。快適だったが、一家とそのわずかな持ち物には広すぎる家だった。(297)





880 Highland Road (February 1957--)

ハイランドロード880番地のヒマラヤ杉材でできた牧場スタイルの平屋建ての家は、地元の画家の設計によるもので、ナボコフ一家お気に入りのイサカの家となった。またナボコフの作品中にもっともよく反響している家であり、『青白い炎』の木霊の部屋々々に響いている。大きな見晴らし窓が、落葉したブナの林の木々に積もった雪ごしに外を見下ろしている。夜になってもカーテンを閉めずにいると、その窓は水晶の国を背景にすべての家具を浮かび上がらせて見せた。(303頁)

残念なことに、ナボコフお気に入りのこの家は、当時改修工事中でした。どなたかこの家のカラー写真をお持ちでしたら、ここに載せさせていただけないでしょうか?





404 Highland Road (February 1958--)

2月初めの荒れ狂う吹雪の中を一家はシャープ宅からまた別の教授宅に移った。ケイユーガハイツ、ハイランドロード404番地の家で、これが彼らのイサカでの最後の家となった。大きな赤レンガ造りのその家は、今まで住んでいた、こぢんまりした牧場スタイルの平家にくらべてずっと寒いことがわかった。この冬、彼らはケイユーガハイツでの二度目の冬を過ごさなければならなかったのだが、ハイツからコーネル大学のキャンパスまでは1マイル半にわたって積雪の中をくねくねと行かなければならず、冬の威力を感じることとなった。吹雪が続き、3月の中旬には、雪のために車が動かなくなり、歩いて行くことも難しくなって、ドミトリがセントバーナード犬の役目をつとめることとなった。スキーをつけ、リュックを背負って、1マイル先にある一番近い店から買出しの品を持ち帰ったのである。 (358頁)

初めのうち私は「研究休暇」の一年をコーネル大学で過ごすことを考えていました。プリンストン大学に希望を変えたにはいろいろな理由があるのですが、上の一節もその一つになりました。

プリンストンに行ったばかりの3月下旬にも突然の吹雪となり、どこまでが道なのか見当もつかない一面の雪の中を下手な運転でよろよろと走りながら、やはりイサカはやめて正解だったかな、と思ったことを覚えています。早々に季節はずれの雪の一撃を受けて不安になりましたが、プリンストンはイサカよりだいぶ暖かく、特にその年の冬は暖冬でした。雪は何度か降りましたが、ナボコフ一家のように閉じ込められることもなくすみました。雪が降ると、公道には除雪車が来て車が通れるようにしてくれるのですが、駐車場から公道までの道の確保は各自の責任です。大雪の時には、手のつけられないほど積もってしまう前に、夜中でも起きだして雪かきをしなければならないという話でしたが、幸いこの「深夜の雪かき」もせずにすみました。一方で、アパートの前の湖が凍ってスケートができるという話でしたが、暖冬のため、それはできませんでした。

Thanksgivingのイサカは、もう本格的に寒くて、ホテルの部屋の暖房を最強にしても夜は少し寒く感じたほどでした。でも真冬にも一度行ってみたいものです。




付録







Belleayre Apartmentsの玄関ホール





Ithaca Fall











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