金井美恵子

「恋愛<小説について>」 『愛のような話』所収 中央公論社 1984年

仰々しいリボンのかかった小さな籐のバスケットの中に、白い雲のような――それとも蜘蛛の糸のような――細かく刻んだセロファンのつめ物を柔らかなベッドにして[6字傍点]――ほら、あなたは、冷蔵庫の製氷室で出来る四角い氷を、小人の白熊の枕[7字傍点]と戯れて呼ぶH・Hという偽名を使う男の登場する小説を好きでしょう?小人の白熊の枕という言い方が気に入っていたじゃありませんか ・・・・・・ 96―97頁

「真相」を知って逆上したシャーロットをなだめるため、ウィスキーのハイボール(HHの好物)を作ろうとしていた場面ですね。この氷を口にすることなくシャーロットは事故死してしまいます。この短編には『セバスチャン・ナイト』へのアリュージョンもたくさん出てきます。



「あかるい部屋のなかで」 『あかるい部屋のなかで』所収 福武書店 1986年

あおじろい炎

ベルリンで、一間だけのアパートで乳呑み子と妻をかかえ、狭苦しいエナメルのバス・タブに画板のような板をさし渡し、バス・タブのつるつるすべる底にはゴム布とクッションを置いて、そのなかにしゃがんで亡命作家は小説を書いた、というのだから自分なんかはまだまだ恵まれた状態なのだ、と、室内物干し器に大量に干された小さな赤ン坊の肌着類が湿った洗剤のにおいを漂わせている部屋のなかで、原稿を書きつつある彼は自分に言いきかせた。 35頁

「規則違反」ですみません。どこにも「ナボコフ」は明記されていないんですが、この亡命作家はもうナボコフ以外に考えられないので入れました。この人の作品には、「ああ、これもきっとナボコフだな」と思わせるものがあちこちに出てくるのですが、この頁には出せないのが残念です。この本に収められている「鎮静剤」の薔薇色に輝くつららは「ヴェイン姉妹」のつららに違いないと思いますし、「向こう側」という短編のタイトルも。。。



『小春日和』     中央公論社 1988年

小さな手鏡のなかには、半分かわきかけてもじゃもじゃした髪の毛と、ピンクのハートの形をしたフレームに赤いレンズの入った、おもちゃめいたサングラスと、赤いレンズのせいで顔色の良い若い娘の笑い顔が映っていて、よく見ると、お手いれをおこたっていたために肌は荒れていたし、クチビルもかわいて皮がむけていたけれど、とりあえずは、笑ったせいで、あたしは幸福そうに見えなくもなかった。

『ロリータ』のサングラスなんだぜ、と花子が言った。知ってる?

うん、知ってる、知ってる。高校の時、学校をさぼって、地方局の「奥様名作劇場」で見たことがあるもん。

チェッ。いいなあ、オレはスチール写真を見ただけなんだよな。スタンリー・キューブリックの映画だよね。

ずっと後になってナボコフの小説を読んだんだけどさあ、キューブリックの感じじゃないんだよね。ロリータ役のスー・リオンがね――スー・リオンっていう子役っていうか、Y・A[ヤング・アダルト]女優がロリータをやったんだけどね――デブでさ、にくにくしく邪悪な顔してるんだ、と、あたしは言い、あんたはどうしてこのサングラスをかけないの?と訊ねると、花子は、うん、スゲエ近眼だから、眼鏡をかけないと、眼から10センチまで近づけなければ自分の手のシワも見定められないし、コンタクト・レンズをやったこともあるけど、レンズを洗っている時、二度も洗面台で落して水で流しちゃったから、もう買ってやらないと親に言われてるし、不可能なんだよね、と、残念そうに言った。        193―194頁 

こういう地方局の「名作劇場」「深夜劇場」では時々意外な映画を見ることができるものですが、多くはかなり激しくカットされていますね。断片的な語りで本来つながりがよくわからないはずの映画が、ちゃんとしたお話になってしまったりするのは傑作です。桃子(語り手)の見たキューブリックの『ロリータ』はどの辺を切っていたのでしょう。もともとキューブリック版『ロリータ』の感じはだいぶ小説とは違っていますが。以前から気になっていることですが、このハート型のサングラス(とキャンディ)、実際に映画の中に登場しているのでしょうか?手元にあるビデオにもDVDにも出てきません。初めてハンバートがロリータを見る場面でロリータがかけているサングラスはこれではないのですね。ハート型はオリジナルの予告編には出てきますが、後はスチールだけではないかと思います。昔のペンギン版の表紙にも使われ、『ロリータ』といえばまずこの写真なのですが、不思議なものです。ところで、スー・リオンは「デブ」でしょうか?!たしかに時折「にくにくしく邪悪な顔」を見せるのですが。。。



『道化師の恋』  中央公論社、1990年

・・・・・・ ある経緯で入手したある人物の書いた手記の原稿を、明らかな誤記や筆者の勘違いと思われる箇所を訂正したのみでそのまま本にする、とかなんとかいう編集者の序文がついていたりする、そういう書き出しね、古めかしい十八世紀や十九世紀の小説の常套スタイルではあるけれど、なんか、こう、いよいよ、小説=物語がはじまるぞっていう感じで、いいですよね、『ロリータ』なんか、そういう古典的手法を引用している小説ですけどね、・・・・・・ 68−69頁

 ・・・・・・ユダヤ人の大金持ちの夫が、『ロリータ』の製作資金を出資することになった縁で、パーティで会ったことがあり、とってもエレガントで知的で物静かなんだけど、眼が皮肉にキラキラ輝くのが魅力的だし、小説も素晴らしく知的でいきいきした文体で書かれてるので、すっかり、あたし、ウラジミールのファンになっちゃったんだけど、日本で日本語で彼のこと話してるとね、なんだか、ナボコフ先生って言ったほうがぴったりくるような気がするのね、あたし、そうよ、最初にお眼にかかった時、どうしてなんだろう、マエストロってお呼びしちゃった、是非彼の小説読むべきよ、と、颯子が話してくれたので、なんとなく読むことになった、と言っても、つい何日か前、高田馬場の芳林堂で、筑摩世界文学大系の「ボルヘス、ナボコフ」の巻を買って読みはじめ、『青白い焔』も全部読みおわってはいないのだけれど、構成が凄い[この5字傍点]、と驚き、いったい日本の文壇作家はなにをしているんだ、と思い、デブでいやらしい同性愛の男(『青白い焔』のなかでは亡命詩人)を主人公にした小説を書こうとおもいついたのだった。 146ー147頁

余計なことなんですが。。。「青白い焔」の表記は[ママ]です。筑摩の翻訳では「炎」となっています。
ナボコフのことを語っているのは、ユダヤ系の大富豪サミュエル・フラー氏(映画監督ではありません。この小説の中で映画評論家――私は勝手に山田宏一氏を思い浮かべているのですが――が「ええっ?あのサミュエル・フラー?」と興奮して卵を踏み潰し、タケノコを蹴飛ばす場面がありますが、それは興奮しますよね)と結婚した元女優の日本人女性です。長くアメリカで暮らしている人ですから、固有名詞はおそらく現地式の発音になっていて、「ヴラダマア」あるいは「ヴラディーミア」と発音したのではないか、などと考えるのも楽しいところです。ナボコフ自身は「ナボーコフ」というのが正しい発音だと言っているのですが(自分のことを「『ロリータ』の作者で誰にも発音できない名前の持ち主」と僻んだことも言っています)、映画業界のパーティですから、そんなことには誰も頓着せず、おそらく「ナーバコフ」とか「ナバコッフ」とか皆好きなように呼んでいたのだろうなあ、と想像してしまいます。ここはいっそ「ヴォロージャのファンになっちゃった」と言うほうが馴れなれしくてそれらしいかも。もっとも、ウラジーミルの愛称がヴォロージャ、などということもアメリカでは知られていませんね。ロシア人同士であればナボコフは「ヴォロージャ」か「ウラジーミル・ウラジミロヴィッチ」としか呼ばれないわけですから、「ウラジーミル」という呼びかけはいかにもアメリカ的でやはりこのままがいいのかもしれません。



『恋愛太平記 I』  集英社、1995年

・・・・・・ あれは確か六十三年のことだったが、就職した田舎の高校で図書購入委員になった時、その頃、ハーコト・ブレイス・アンド・ワールドから出版されたばかりのメアリ・マッカーシーの『グループ』を購入したところ、今までマッカーシーと言えば共和党の上院議員しか知らなかった同僚の教師(マッカーシーは確かにやりすぎたけれど、でも基本的にアメリカ人は共産主義者たちと闘わなければならない、と信じていた)が、たまたま『グループ』という小説が「大胆な性描写」で話題になっているということを知り、その本があろうことかあるまいことか高校の図書館に置いてあり、貸出しのカードを調べてみると、十二人もの生徒がそれを借り出していることも発見し、さっそくそのダーティ・リットを問題化することにした時、そうした田舎町的偏狭さに対する軽蔑と腹立ちを口にすると、イヴリンは、あたしもあの小説を読んでみたけれど、嫌いだし、若い人たちが読むべき物とは思えない、と、ミラーの缶ビールとポテトチップスの入ったフィリピン製の木のサラダ・ボールをテーブルに乗せながら意見を述べ、浅薄な小説だと思うわ、と心理学専攻だった彼女は言って、登場人物の一人が、フロイトはもう古くて今やユングの時代なのよ、と語るシーンがあったけれど、この小説はまったくそういった態度が全体のトーンを決めていて、風俗のレベルで流行と同じように思想や人生や性や結婚生活をあつかっている、と言うものだから、同じ大学でナボコフの講義を受講していたので、いきり立ってメアリ・マッカーシーを擁護し、ナボコフ先生に教わったとおり、文体と構造こそが小説の本質なんだ、と言うと、ナボコフ! だって『ロリータ』の作者じゃないの、と馬鹿みたいなことを言ったので、きみは読んだこともないくせに、何がわかるっていうんだい? 映画の宣伝文を雑誌で読んで、マーロン・ブランドの映画を見に行った時予告篇を見ただけじゃないか、くだらないことを言わないでくれよ、あれは素晴らしい文学だし、ぼくはあの人になら本当の文学の読み方を教えてもらえると思ったんだ、一生忘れることが出来ないような、何かを彼は与えてくれるってそう信じていたし、事実、そのとおりだったね、その見地からして、マッカーシーの新作は、正しいんだよ、と主張し、すると、それは、あなたたちにとってでしょ、全ての人間には通用しないわよ、とイヴリンは冷静に答え ・・・・・・ 100−101頁

『恋愛太平記』は金井版『細雪』というべき、4人姉妹の小説です。ここで語っているのは、長女夕香がアメリカで結婚していたハロルドで、イヴリンは彼の別れた(もちろんこの時は結婚している)奥さんです。
メアリ・マッカーシーはナボコフの『青白い炎』についてごく早い時期にすぐれた論を書いています(「彼女はキンボートのプラムプディングの青白い炎に自分のアンジェリカをたくさん加えてくれた」とナボコフは言っています)が、『ロリータ』のほうは、二番目の夫君エドマンド・ウィルソン同様に、評価していなかったようです。
ハロルドはコーネル大学でナボコフに教わっていたようですが、「ぼくはあの人になら本当の文学の読み方を教えてもらえると思ったんだ、一生忘れることが出来ないような、何かを彼は与えてくれるってそう信じていたし、事実、そのとおりだったね」という言葉は、ジョン・アプダイクが伝えている彼の奥さんの言葉とまったく同じです。コーネル大学の学生時代ナボコフに魅了され、高熱をおして最終講義に出ていた彼女は、20年後もその教えを守っていたとか。
コーネルでのナボコフの文学講義は「ダーティ・リット」と呼ばれていたのですが、それは前任者が作家の性生活の話を中心にしていたからなのだそうです。