菊地成孔
『スペインの宇宙食』 小学館 2003年
頭痛やや重く、入眠を阻害する時などは(もともと僕は軽い睡眠障害で、家のベッドだと眠れない。というタイプなのだが)本物のアスピリンかイブプロフェインを摂取後に、いよいよ僕のダークヴィタミンであるウラジミール・ナボコフの『ロリータ』の第二部を併用することになる。このラインナップによる併用の効果は今のところ絶大だ。
ヨーロッパからやって来た中年男ハーンバート・ハーンバートは、12歳の少女ロリータと、アメリカの田舎町をあてどもなくドライヴして回る。いつ終わるか誰にも解らない甘い悪夢としてのこの逃避行でハーンバートが目にするのは50年代初期のアメリカの観光地や流行風俗。すなわち悪趣味のマーケットであり、キッチュのパノラマ旅行である。
この旅の間、ロリータは様々なキッチュ的なオモチャや駄菓子をハーンバートにねだり続け、ハーンバートはロリータとセックスする為にそれを与え続けるのだが、そのひとつひとつを『悪趣味百科』で引いてみる、という行為に耽るのだ。
(中略)
「レピングヴィルの繁華街で、私は、いろいろなものを買ってやった。漫画の本を四冊、箱入りのキャンディー、衛生綿を一箱、コカコーラを二本、マニキュアのセット、文字盤に夜光塗料を塗った携帯目ざまし時計、ほんものの黄玉[トパーズ]の指輪、テニスのラケット、白いローラースケート靴、双眼鏡、ポータブル・ラジオ、チューインガム、透明なレインコート、サングラス、それにまたしても衣類を――タイツやショート・パンツや、さまざまな夏のドレスなどを」(大久保康雄訳)
タイツやショート・パンツ。という部分が僕のピークであることは言うまでもない。人間のおろかさと虚無にしか興味のない、神の如き視点のキューブリックが選んだタイツはまったく魅惑に欠ける、おざなりな物だったが、ハーンバートの視線に完全に同化したかに見える変質者エイドリアン・ラインが選んだ水玉のタイツとオレンジ色のショート・パンツには心から敬服する。あれこそニンフェットの衣装だ。僕もあれと全く同じ物をどうしても手に入れたいのだが、あれのメーカーは『悪趣味百科』には載っておらず、現在それは「CUTiE」に載っている。頭痛が増す。 「放蕩息子の帰還」INTROより 7−8頁
この作品についても本多繁邦さんのご教示をいただきました。どうもありがとうございます!!
睡眠障害(ナボコフも不眠症でしたね)に苦しむ菊地氏の入眠儀式に欠かせない『悪趣味百科』(Jane & Michael Stern, *Encyclopedia of Badtaste.* Harper Collins, 1990)の紹介でこのエッセイは始まっています。1990年に刊行されたこの本は、50年代以来アメリカで量産された悪趣味なものについての事典です。
菊地氏が絶賛するタイツとショート・パンツをラインの映画で見た記憶がなく(キューブリックのタイツも)、DVDでざっと見直しても見つけることができないのですが、菊地氏の頭痛と睡眠障害のフィルターを通してのイメージなのだと思います。確かにキューブリック版のロリータの衣装はあっさり趣味で、ニンフェット的というよりは、ハイスクールの女子学生風でした。そういえば、キューブリック版でロリータが着ているフリルのついた白いネグリジェをナボコフは気に入らなかったようです。