水村美苗

『私小説 ―― from left to right』 新潮文庫 (初刊は新潮社 1995年)

―― 論文と小説は違うもの。論文に必要な言葉なんか限られているもの、なにしろ母国語は日本語なんだから、と私は答えた。
―― What about Conrad, Nabokov? 
   Naipaul, Rushdie と私は頭の中でリストを続けてから言った。
 Conrad は例外中の例外であり、母国語はほかにありながら英語で書いている作家のほとんどは、小さい頃から英語を読んで育ったのだと。そしてため息をついた。
―― あたしは日本語ばかり読んでたもの。
   姉も一寸黙ってから、同じようにため息をついた。
―― まあ、たしかに、あなたっていつも日本語で小説ばかり読んでいたわよね。       113頁

この作品については、Vladimirさんのご教示をいただきました。どうもありがとうございます。
Vladimirさんは、このHPでもおなじみ「ナボコフノート」の「著者」でいらっしゃいます。

「私」は12歳からアメリカに在住している日本人女性で、現在は(おそらく)イエールで仏文学を専攻する大学院生です(水村氏はポール・ド・マンの最後のお弟子さんで、この小説にも死期が近いらしい「大教授」の話が出てきます)。引用部分は姉との会話です。家族と共に東京からアメリカ東部の高級住宅地Long Islandに移り住んだ主人公は、傍目には恵まれたものと見える少女時代を送りながら、ひたすら一葉や漱石を読むことになぐさめを求めます。小説の最後で「私」は、帰国すること、日本語で小説を書くことを決意するのですが、「私」の分身である水村氏が帰国後に漱石の『明暗』の続編(結末)を書くことになるのは、ご存知のとおりです。
Vladimirさんもおっしゃるように、水村氏が日本−日本語を頑固なまでに偏愛する様子は、ヨーロッパ時代のナボコフを思わせます。

実はこの小説、初めに『批評空間』に出た時に読んでいまして、その後も部分的に読み返していたにもかかわらず、この箇所はうかつにもすっかり忘れておりました。
カリフォルニアのように日系人が多く、社会的地位を得ているところとは違って、ヨーロッパとのつながりが強い東部では、日本人が違和感なく溶け込むことは今でもかなり難しいように思います。たった一年間visitorとして滞在しただけですが、それでも「美苗さん」「奈苗さん」の感じる疎外感の200分の1ぐらいはわかったような気がしたものです。

「私」は高校の途中まで亡命ロシア人の先生についてバレエを習っていました。地下室の稽古場で、その先生とやはり亡命者の中国人女性がフランス語で話す印象的な場面があります。なぜか、こちらのほうはナボコフとの関連で記憶していました。

稽古場には私よりさらに頭一つ背の低い、長い黒髪を三つ編みに垂らした中国人の娘がまざっており、その娘には、くたびれた黒いオーバーを着込んだ小太りの母親がいつもつきそっていた。娘の生まれる以前に上海[シャンハイ]から命からがら逃げてきたという。一見Chinese restaurantかChinese laundryの奥さんといった風采[ふうさい]であった。ところが私たち相手にはなまりの強い英語を使うロシア人の先生は、その母親と二人で話すときには世にも嬉しそうな表情を見せ、小声のフランス語に切りかえるのであった。年老いた男ともう若くはない女の秘密めいた笑い声がしばしば稽古場の隅に艶[つや]やかに立ちのぼった。その低い艶やかな笑い声には今世紀ユーラシア大陸の上を駆け抜けた嵐を生き延びてきた者同士の連帯も悟りもあるようで、笑いを共有できないまま鏡に向かって所在なげに立っている自分たちがいやに薄っぺらい存在に思えるのであった。 161頁