野中 柊

「神様がくれた荷物」『テレフォン・セラピー』 大和書房 1999年 


 そう。自分を大切にすると言えば、『ロリータ』の作者、ウラジーミル・ナボコフのママは、彼が幼い頃、こう言い聞かせていたそうです。
「すべてをかけて自分の魂を愛し、他のものはすべて運命にまかせなさい」と。
 これは私の座右の銘。この言葉を紙に書いて、コンピュータのデスクトップの脇に張り付け、毎日、読み返しています。
 そしたら、何となく、神様=運命なんじゃないかな?って気がしてきちゃった。   16頁 


ナボコフの母親のモットーは自伝の第2章に出てきます。私の記憶にあるものとは少し違うので『記憶よ、語れ』(大津栄一郎訳)を見てみました。なるほど「すべてをかけて自分の魂を愛し、ほかのものはすべて運命にまかせる」となっていますね。原文は"To love with all one's soul and leave the rest to fate"で「全身全霊で愛し、後は運命にまかせる」ということでしょう(one's soulはloveの目的語ではなく成句with all one's soulの一部)。愛する対象はここでは特定されていませんが、続く部分で具体例がくわしく語られています。

別荘のあったヴイラで母親はさまざまな自然の姿―たとえば春の揚げ雲雀や夏の夜の無音雷光や楓の落葉や雪の上の楔型の足跡―に幼いナボコフの注意をひき、「忘れないで」と繰りかえします。母親が言い聞かせていたのは、それらの一つひとつを記憶しておきなさい、ということであり、野中氏の引用とは違って、彼女の信条そのものではありませんでした。しかし結果としてはナボコフも母同様に過去をいとおしみ、失われゆくもの(「幻の無形資産、影の地所 [unreal estate]」)を末永く自分の中にとどめておく術を身につけることになりました。

革命前には台所や召使たちの居間に一度も行ったことがなく、50人もいる使用人の監督もしていなかったという、優雅すぎるほどに優雅な貴族の令夫人であったナボコフの母親は、亡命後夫を亡くし、晩年は子供たちからも遠く離れてプラハの古びた狭いアパートで暮していました。過去をしのぶごくわずかな物に囲まれて暮らす老いた母を見てナボコフの胸は痛みますが、こう続けます。「本当はそれらの品は必要ではなかった、母からは何も失われてはいなかったから。旅回り一座の役者たちが、台詞を憶えているかぎり、嵐のヒースの野や霧の城や魔法の島をどこへでも運んで行くように、魂が大切にとっておいたものを母はすべて持っていた。」

ナボコフ自身も 「ロシアに戻ることはあるでしょうか」という質問に対して「ロシアに戻るつもりはまったくない。私に必要なロシアのすべて―文学、言葉、自分の子供時代―がいつも私と共にある、という単純な理由からだ」と答えています。(1962年のBBCインタビュー)

ナボコフは信仰を持っていませんでしたが、運命のたくらみやその軌跡を見抜くことには大いに関心があり、多くの作品で運命は主題の一部になっています。

野中氏の小説やエッセイには、新婚時代に住んでおられたイサカが時々出てきます。夫君(Guy−chan)が当時コーネル大の院生であったらしく、キャンパスやその近辺もちらほら出てきます。




「地霊うようよ」『私は宇宙人』 光文社 1998年 

 「ねえ。イサカで、ウラジーミル・ナボコフが暮らしてたことがあったんだって?」
誰かからそんな話を聞きつけて、さっそく夫に確認してみると、
 「ああ。『ロリータ』はこの町で書かれたって聞いたけど」
 じゃあ、モデルとかいたのかな?ロリータみたいな美少女が実際にこの町で暮らしていたんだろうか?イサカには、なかなか綺麗なローティーンの女の子が多いのです。ダウンタウンなどで、愛らしく、お洒落なティーンエイジャーを見かけるたびに、もしかしてこの子はロリータの子孫では?などと考え、どきどきしたりしたものですが、
 「さあ。ロリータに実在のモデルがいたかどうかは、わかんないけど。でも、彼女の話し言葉は、イサカの女の子たちのものだったらしいよ」と夫。
 ナボコフはロシア生まれのロシア育ちだったにもかかわらず、英語で小説を執筆したため、ネイティヴの作家たちより、いっそうの努力が必要とされたこともあったのでしょう。ロリータの科白を書くにあたって、その年頃のアメリカ人の女の子がどんな言葉遣いをするのか知るために、どこに行く用もないのにバスに乗り、ひたすら乗客のティーンエイジャーたちの会話に耳をすましていたのだそう。
 うわあ。そういうのって作家ダマシイとでもいうのぉ?

ロリータのモデルは特定されていませんが、ナボコフがバスに乗ってティーンエイジャーの英語を「蒐集」していたことは伝記にも出てきます。さらには「娘を入学させようと考えている父」を装って小学校の見学までしていたそうです(ナボコフに娘はいません)。こうなるとまるでハンバートを地でいっているようにも思えるのですが、それはさておき、上のエピソードにすっかりしびれてしまった野中氏は、夫君と一緒に、ナボコフがかつて住んでいた家々を見て回ったりもされたそうです。

そのうちに、野中氏の英語の先生がナボコフとおつきあいのあった方だということも判明し、野中氏は熱狂して、「ナボコフって、どんな人でした?」と訊ねます。老婦人の先生は涼しい顔で、

「授業のとき、細かい字で黒板にぎっしり書き込む人だったわねえ。もう、ぎっしりよ。隙間もないくらいに。それでいて、決して、自分では黒板を消さないの。彼の奥さんがいつも必ず傍にいて、教室の電気を点けることから黒板を消すことまでこまごまと面倒をみていたものだったわ」

ヴェラ夫人は夫の雑用をすべて引き受け、授業助手や運転手としてまめまめしく世話を焼いていました。レディーファーストの強いアメリカではこの夫妻の姿は奇異にうつったらしく、学生達の間では「ナボコフ教授は実は盲目なのだ」という噂すらあったと当時の教え子が語っています。

このエッセイの後半では、イサカという土地は異様に多くの作家を輩出しており(野中氏もそのひとり)、作家としての能力を引き出してくれる「地霊がうようよしている」と語られます。ナボコフの教えていたコーネル大学のキャンパスは、不思議にフェアリーテイルの雰囲気が濃厚に感じられるところでした。アメリカの大学で実際に行ったことのあるところは一桁ですが、コーネルのような印象を受けたところは他にはありません。もちろん「これがナボコフのコーネル…」と思って見ているわけですから、私の目に憧憬の濃い靄がかかっていただけの話かもしれませんが、野中氏の「地霊うようよ」説は私には妙に実感のあるお話なのでした。