嶽本野ばら

 『ロリヰタ。』 新潮社 2004年 (初出は『新潮』2003年10月号) 

無論、ロリータというその言葉は、ナボコフの小説『ロリータ』からきています。ナボコフの『ロリータ』は、もう中年である主人公の男性が、恐ろしく年の離れた少女に恋をする、否、年の離れた少女にしか恋愛感情を抱けぬ中年男性の物語です。ナボコフは主人公にその性的嗜好をこう語らせます。対象となる少女は九歳から14歳の間でなければならない。そしてその少女と男性との年齢差は、最低十歳、基本的には三〇歳から四〇歳必要であると。九歳から14歳の少女が全て、恋愛対象になるのかといえば、そうではない。幼き年齢であるにも拘わらず、どんな成人女性よりもコケティッシュで、怜悧な“ニンフェット”のみに欲情を憶えると。事実、『ロリータ』の中に登場し、主人公を破滅に導くドロレスは、無垢で残忍な小悪魔そのものです。ドロレスは正式な名前。愛称はドリー、もしくは、ローラとなる。もっと溺愛して呼ぶ時、ドロレスはロリータの名を持つ。ドロレスを砕いてドリーと呼ぶのはわかりますが、何故にドロレス(Dolores)が、ロリータ(Lolita)へと変化するのか?中学の一年生の一学期の終わりに英語の授業に既に付いていけなくなってしまった僕に解る訳がありません。そんな問題はどうだっていい。要は、ロリータ・コンプレックスという呼称の原点となった『ロリータ』は、単なる少女愛好者の物語ではないし、ロリータ・コンプレックスと『ロリータ』は学者が勝手に結びつけてしまっただけで、限りなく無関係であるということを知っておいて貰う必要があるのです。少女、幼女にしか性的情動を抱けぬ男性を、ロリコンと称します。が、実際にロリコンと呼ばれる男性たちは、少女愛好(Nymphophilia)の傾向を持つと定義する方が遥かに適切であるのです。ナボコフはロリータという少女に、男性を狂わせる大人の女性以上にセクシャルなドミナ的性質を与えたのです。現在、ロリコンと判断される男子は、相手の少女、もしくは幼女、に支配されることを求めません。物心も付き、経験も備えた女子には気後れしてしまうから、何の疑いもなく自分のいいなりになってくれる少女や幼女に性的ファンタジーを託すしかない……というのが、大多数のロリータ・コンプレックスを持つ者の心情でしょう。そんな彼らをロリコンと称さずに少女愛好者として、ナボコフの『ロリータ』から切り離せと、提案するつもりはありません。ですが、『ロリータ』とロリコンを混同されたままでいると、ファッションとしてのロリータとそれを愛好するということへの飛躍が、できなくなってしまうのです。何時、誰が、ファッションとしてのロリータをロリータと名付けたのかは、寡聞ながら知りません。ですが、『ロリータ』とロリコンがともすれば、全く別のベクトルを向いているのと同じく、ファッションに於けるロリータもまた、『ロリータ』からその名を頂戴したにも拘わらず、『ロリータ』とも、ましてや少女、幼女愛好のロリコンとも、殆ど関わりを持たぬのです。 11−13頁



純然たるヘテロの成人男性で少女には性的興味がない、しかし自身が身につけるファッションとしてはロリータにこだわり続ける、という語り手=主人公と、年齢的に外見を大幅に裏切るモデルとの恋愛をテーマにした小説です。
ファッションジャンルとしての「ロリータ」、さらには「ゴシロリ(ゴシックロリータの略)」も「大体どういうものかわかる気がするが確信はない」のレベルであった私ですが、「ロリータなお洋服」の世界が今度こそちゃんと理解できました。ここで論じられているように、小説『ロリータ』と現実世界のロリータコンプレックスは本当は相当に隔たっていますが、「ロリータなお洋服」もナボコフの小説には全然出てきません。ドリーの趣味でもハンバートの趣味でもないのですね。むしろ後に出てくる『不思議の国のアリス』とのつながりから「アリスなお洋服」と命名したほうがいいような気がしますが、アリスの服装にしてもやはりロココではないわけで、現実には(虚構の世界の現実にも)対応物を持たない人工的なファッションであるところに意味があるのでしょう。出自がストリート・ファッションというのは知りませんでしたが、「納得」です。

ドロレスからロリータという愛称になる件ですが、もともとドロレスがスペイン系の名前(「悲しみの聖母」Mater Dolorosa [Our Lady of Dolores/Sorrows] の「悲しみ」からきている名前)なのでやはりスペイン的な愛称であるローラ(Lola)やロリータに直結するようです。ドロレスという名前は1930年代のアメリカで流行った名前だそうです。
小説のドロレスは日常的にはドリー(Dolly)と呼ばれていますが、これがなぜかドロシー(Dorothy)の愛称でもあるそうで、「LとRはどっちでも同じ」ということが、日本人ならともかく、れっきとした英語の世界に時々起こるのは不思議です。そういえばペテルブルグのナボコフサマースクール(2002年)で一緒だったコリーン(Corinne:アイルランド系の名前で「乙女」の意味)というアメリカ人のナボコフ研究者は、その名前はCollineとも綴るのだと言っていました(以前私の同僚にColleenという名前の人がいましたが、この名前も同じだそう)。