滝本 誠
『きれいな猟奇』 新潮社 1991年
アメリカで『ロリータ』が禁書状態にあったとき、『昼下がりの情事』撮影に訪れたパリでオリンピア・プレス版を購入し、持ち帰ろうとしたのが、映画監督ビリー・ワイルダーだった。あえなく税関で没収されたらしいが。ヘルムート・カラゼク『ビリー・ワイルダー 自作自伝』には、ジンジャー・ロジャースを十二歳の少女に変装させた『少佐と少女』が『ロリータ』より十二年早い「十二歳のロリータ」として紹介されもしているが、興奮を誘うのは次の記述だろう。
かつて偉大な作家ウラジーミル・ナボコフがワイルダーのもとを訪れたことがあるが、ワイルダーの記憶によると、そのときナボコフは「当然のようにその絵に魅せられ、ただちにバルテュスの作品と見破った」
バルテュスの少女の裸体画(どの作品かは不明)が飾られていたのはワイルダーの寝室だった。ワイルダーは一九〇六年、当時オーストリア領で現在はポーランドのズーハに生まれ、しばらくしてウィーンに引っ越したわけだが、ウィーンといえば、画家エゴン・シーレや、作家ペーター・アルテンベルクの街、あるいはムージルの街、ということは「少女愛の街」ということである。
とくにアルテンベルクは何千点に及ぶ少女写真をコレクションし、写真それぞれに愛の言葉をつけて密やかな「非現実の王国」を創造していた。こうした少女嗜好がダークサイドへ踏み込めば、当然のように『ペピの体験』といったポルノグラフィ、あるいはウィーン生まれのフリッツ・ラングがドイツで成就させた『M』といった映画史上初めての連続少女殺害のサイコパスを生み出すに至るわけだ。犯人をリアルに演じたペーター・ローレがハリウッドに渡って金もなく救いを求め一時同居していたのがワイルダーだった、というのは少女嗜好の論理からいって当然だ。
ワイルダーはスタンリー・キューブリックに賛辞を惜しまない。『ロリータ』に関してはどうか?キャメロン・クロウの対話録『ワイルダーならどうする?』で『ロリータ』もお気に入りの一本と言ったうえで、「ロリータにしては少々年がいきすぎていて、そのぶんいくらかマイナスになってはいるが」とコメントする。さらに「リメイクを作っているそうだね。主要人物の年をもっと原作に近づけて」。
言及されたリメイクはエイドリアン・ライン『ロリータ』である。この作品が公開までに手間どった、というのもいまだに少女愛は正面切ってはタブーの領域ということもあり、ジョン・ベネ殺害事件が、マスコミのゴシップの主役に長く居すわっていたこともある。以前に最大のスキャンダルだったウッディ・アレンの養女との愛は、『ロリータ』の愛の構造そのものだった。とにかくロリータ=罪、という大衆意識への刷り込みはいまだに強い。娘の名前をロリータと名付ける度胸は『キャリー』『殺しのドレス』のブライアン・デ・パルマぐらいのものだ。リュック・ベッソン『レオン』がアメリカのマスコミからいっせいに非難を浴びたのは、中年のレオン、十二歳のマチルダの関係が『ロリータ』を呼び起こしたからである。ベッソンがベッド上でとらせるポーズもまたあやういものがあった。『レオン』当時のナタリー・ポートマンで『ロリータ』が製作されていれば、ワイルダーが言っていた実年齢でのロリータがフィルム上に焼き付けられたはずだ。ナタリーにはナボコフが書く、ハンバートの「無限の憂愁」と「下腹部の熱い毒薬」を共振させる何かが備わっているかに見えるからである。ただ、ナボコフのように文字で少女採集するのとは異なり、生身の少女の肉体、肌の光度計算、火照りを補捉するのは至難といっていい。老ワイルダーの期待(?)もむなしく残念ながらライン版のロリータは、キューブリック版スー・リオンよりもさらに年をくったキャスティングだった。ただ動きは敏捷であり、とりわけキューブリック版にはなかったもの、ハンバート・ハンバートとのセックスに果敢に挑戦したのは称賛すべきだろう。
バルテュスの少女姿態の特徴は裸体、着衣を問わず立て膝、開脚ということにある。とにかく足の組み合わせが微妙であり、そこにバルテュスの夢見がある。ライン版『ロリータ』関連でもっとも早く到着していたものは、ハンバート・ハンバートに扮したジェレミー・アイアンズが朗読するテープだったが、そのパッケージの写真がまさにバルテュス・ポーズだったのである。クルマの助手席のドアを開け放ってのポーズ。
映画で見せるバルテュス・ポーズは、ハンバート・ハンバートの部屋で一人思いのままにくつろぐロリータにいくつかのヴァリエーションで見ることができる。興味のままに少女が憩う男の書斎。書斎とは男の秘密にして心地いい場所、禁断の脳の内部。
その王国に裸足で軽やかに足を踏み入れたロリータの足の組み替えが、部屋の空気を性的に緊張させる。書斎の少女、とは男にとっては、捕捉完了を意味する。ハンバートの書斎は、ノーマン・ロックウェルのいくつかの部屋を濃密化したような印象がある。これは意図的なものであって、ロリータの衣服も、ときとして見せるおさげ髪もロックウェルのイラストレーション世界だ。だれもが善人であるようなロックウェルのイラストレーションに世界を擬せながら、そこにバルテュス・ポーズを置くことでダークな欲望をあぶりだすラインのヴィジュアル計算は巧みである。
ロリータは書斎、ホテルの部屋、モーテル、最後に貧しい労働者の夫の一軒家へと「部屋」を転じていく。知的な中年男の嫉妬と妄想の檻を少女が冷ややかにすり抜け、最終的なダメージを与えるのは、書斎から遠く離れたこの一軒家なのだ。これはロリータは書斎にあってのロリータ、男の妄想空間のなかでのみ魅力があることを象徴的に示している。バルテュスは賢くアトリエのなかだけ、キャンヴァスの上だけに少女を封印した。 76−79頁
この本についても本多繁邦さんのご教示をいただきました。どうもありがとうございます!!
引用は「バルテュスの死によせて」と題された章からですが、この本には他にもナボコフについての記述があり、滝本氏の薀蓄が楽しめます。
引用ではワイルダーとナボコフのくだりは少々怪しげな場面にも思えるのですが、ワイルダーの家にピカソやマチスを含んだ現代美術のコレクションがあり、パーティに来たお客たちに「一枚進呈するとしたらどれがいい?」と聞いたところ、ナボコフが迷わずバルテュスを選んだ、ということらしいです。(このエピソードについては、少女の裸体画だから、ではなく、ナボコフは現代美術の多くを嫌っていたので、その場でもっとも現代美術的ではないバルテュスの後期の絵を選んだのでは、という説もありますが)。ナボコフは実人生においては少女愛好癖を持たなかった人ですが、そうは言っても少女というものにまったく興味がなければニンフェットを創造することもできなかったでしょうから、「美術的興味」はあったはずですし、『ロリータ』や『魅惑者』のようにチャレンジとして(タブーであるテーマへの挑戦と、自分自身のものとはまったく異なる心理を持つ主人公を設定するという挑戦)少女愛のテーマが設定されていない短編などに登場する魅力的な少女達を見てもナボコフの「鑑賞眼の高さ」がうかがわれます。
ラインのロリータのポーズがバルテュスだというのはとてもよくわかりますね。ここにあげられているカセットテープの箱の写真のポーズはLes Beaux Joursそのままですし、室内の場面でもくりかえされています。そしてインテリアやロリータのお下げや服装、室内での姿など、確かにノーマン・ロックウェル由来のものがたくさんありますね。
ナボコフの『プニン』には「ダリは本当はノーマン・ロックウェルの双子の兄弟で、赤ん坊の時にジプシーにさらわれたのだ」という一文が出てきます。
ラインの映画でロリータを演じたドミニク・スウェインも撮影時にはスー・リオンと同じ14歳でしたが、私の印象ではリオンのほうがずっと大人でした。スウェインも時には「若作り」に見えてしまいますが、それでも子供同士で遊んでいる場面などは本当に12歳でしたね。リオンはどう見てもハイスクールに行っている感じでした。リオンが充分に幼く見えた場面は、ハンバートの目玉焼きを食べるところ。あそこだけはなぜか突然何歳も若く、可愛らしく見えました。ラインの映画で「果敢に挑戦」したセックスシーンですが、ヌードの場面は(もちろん)スウェイン本人ではなく、18歳のスタントを使っていました。
実は『レオン』を見た時、私も同じことを考えました。『レオン』のナタリー・ポートマンは三人の中で一番ニンフェット的だと思います。