LaPorte著『自然類と概念的変化』を読んで
[原著]Joseph LaPorte 2004. Natural Kinds and Conceptual Change. x+221 pp. Cambridge Univerisity Press, Cambridge.
小野山敬一
『自然類と概念的変化』は,タクソンや化合物を例として,固有名についてのKripke (1980) の指示の因果理論(因果連鎖説)を引合いにしつつ,自然類と自然類用語について,また科学理論の変化と用語の意味変化と通約不可能性との関係などについて論じた,科学哲学と言語哲学にまたがる分野の本である.各章の表題と主張の概要を次に記す.
第1章:自然類とは何か,そして生物的タクサは資格があるか? 種と高位のタクサは,様々な化学物質とともに自然類である.(p.8-32)
第2章:自然類,固定性,そして本質.生物的タクサについての本質主義のいくつかの形態は,現代の生物体系学と特に分岐学の観点からは,きわめてもっともらしい.(p.33-62)
第3章:生物的類用語の指示と本質の発見.類の本質についての科学者の結論は真であると発見されてきたものではなく,真であると約定される.科学者は類用語の意味を変える.(p.63-91)
第4章:化学的類用語の指示と本質の発見.化学者も化学的類の本質についての発見を報告するのではない.(p.92-111)
第5章:言語的変化と通約不可能性.指示の因果理論はおおまかに正しいと思えるが,意味の不安定性を取り除かないし,その不安定が科学の進歩に対して引き起こす脅威を防げない.言語的安定性を保証しないので,因果理論は科学の客観性を保証できない.ダーウィン革命による進歩と生気論の拒否による進歩を例として,科学の進歩を擁護する.自然類用語は,科学が進歩するにつれて意味を変える.(p.112-149)
第6章:意味変化,理論変化,そして分析性.指示の因果理論は,科学の進歩を脅かす通約不可能性の問題からも,必然性を脅かす問題からも,われわれを救えない.(p.150-173)
以下に,生物分類学に関係するところを紹介して論評する.
1.種は自然類である
自然類は進化できないということが,種が類ではなく個物であるとする理由である(Ghiselin 1981).類は不変の本質をもった抽象的対象なのだからいかなる変化もありえない.しかし,「「種は進化する」と言うとき,抽象的な類が進化することを意味しているわけではなく,ある類の継続する属員[member]がそれらの祖先から異なるようになることを意味している」とLaPorteは言う(p.9).つまり,「ある一種は他の種に進化できる」で言われているのは,ある一種の実例が他の種の実例を生じさせることである(p.9).同様に,「鉛はより軽い物質から生成された」という表現は,抽象的な類としての鉛が生成されたということではなく,その類の具体的な属員が生成過程によって存在するようになったということである(p.10).「種は進化する」から,種は類ではありえないという主張は,慣用語法をまじめに取りすぎたがゆえの失敗である(p.10).ある一種の個体は個物を構成するという考えを拒否する必要はないとして,LaPorteは個物説に反対しない.ただし,種は類であるとする.水,金,そしてトラのどれもが属員をもっている.したがってこれら全てを類として扱うことは理にかなっている(p.15).
種タクソンは,内包的に定義されて同定のためのカテゴリーとして機能しているときは類(したがってクラス)であるし,系譜としてとらえれば個物だとも言える.種タクソンはいくつかの機能的側面をもっていると考えればよい.de Queiroz (1995) の言うように,クラスと個物を相互に排他的なものとして考えなくともよい.文字通りの意味では,種は進化しない.「種は進化する」で通常意味されていることは,LaPorteが説明した通りで,Mahner & Bunge (1997) はそのことをきちんと述べている.なお,種はクラスであるという立場からは,種が具体的個物であるという見解は,種とその個体との関係は属員関係であるところを部分−全体関係と取り違えていることになる(Bunge 1999: 274).
2.類の自然さにはいろいろな程度がある
自然類は,説明的価値をもった類だとLaPorteは言う(p.19).例えば,ある対象がホッキョクグマであることによって,多くが説明される.「なぜそのように幼獣を育てるのか,なぜきわめて密な下毛をもつのか,なぜ浮氷を探して氷の海を長距離泳ぐのかを,それがホッキョクグマであることが説明する」(p.19).ホッキョクグマが,これらのことをすることへの理論的に満足できる答えがある.ホッキョクグマは自然類だから,意義ある説明を提供する.一方,自然類でない場合は,その類に属することでは,ほとんど何も説明されない(p.19).自然類は説明的価値をもち,少なくとも最良の状況では予測と制御に役立つので,科学的分類の基礎を提供する(Daly 1998を引用している; p.20).
著者によれば,類が自然であるとは説明力を持つことである.すると説明力には色々な程度があるから,類の自然さも程度の問題ということになる.程度の問題というのはその通りである.議論に収拾がつかないのは,あれかこれかと二者択一でしか考えないからであることがままある.より精度の高い測り方をすればよい.しかし,説明力で自然さを測るのが妥当なのは,説明力をもたらしている理論が自然さを持っている場合に限られるだろう.つまり,自然であることと説明力を持つことは別のものだろう.ある対象が類に属すると同定されることによって説明力を持つようになるのは,分類体系が法則や理論に関係して構築されている場合である.法則や理論の話がLaPorteのこの箇所では議論されていない.類の定義が妥当であること(これが自然さではないか)に応じて,説明力が高くなると言うべきだろう.ただし類の定義が妥当であることは,説明力への十分条件ではない.
3.タクソン名は固定指示詞である
LaPorteは個体の名前だけでなくタクソン名も固定指示詞だとする.「Brontosaurus=Apatosaurus」は,「宵の明星=明けの明星」の生物学版で,二つの固定指示詞を含んでおり,必然的に真であることが経験的調査によって発見されたと言う(p.37).Brontosaurusという用語は,全可能世界において同一の存在物entityを指示するとき,そしてそのときに限り固定的である.どんな存在物かと言うと,適用される属員個体という外延ではなく(これらの個体は可能世界によって異なる),類である(p.38).LaPorteは自然類(例えば鯨)と人工類(例えば独身者)の違いについても議論している.「鯨」が何を指しているかは,鯨の標本を調査してわかる.「独身者」というのは,その見本を調べてもわからない.独身という状態を満たすようなあらかじめ定められた条件によって決まる.「鯨」と「独身者」の違いは固定性にあると考えられる.しかし,この二者の違いは,固定性に訴えるまでもない.鯨には洗礼(命名儀式)が施されているのに対して,独身者には施されていない.これこそが鯨と独身者という用語の違いである.「鯨」の指示において責任を負っているのは,原因となる命名儀式である.そしてこの命名儀式は,記述を満たすことではなく,鯨がもつ内在的本質に対して責任をもっている(p.42).
このようなLaPorteの解釈は可能ではある.生物分類での実際の問題解決に,命名儀式を授けた模式標本はしばしば必要となる.しかし,模式標本がなくても,生物分類はやっていけないことはない.同定のための諸形質が定められれば(改訂は行なわれるし,それが重要である),分類は可能である.正しい指示の伝達は正しい同定によって行なわれる.同定は生物体について観測された形質によってなされる.したがって,指示は形質を介して行なうしかない.なお,直示的指示と言われるものも,対象の形質の記述なくして指示とはなり得ないだろう.「これ」とある生物個体を指さしても,他の個体とくらべてどこが違うと言っているのかがわからない.そのことは何を指示しているのかわからないことと同じである.類としての同一性の基準(本質的形質)が述べられなければ伝達は不可能である.「これ」と言っても,指示しようとしているのはその個体ではなく,類だからである.また,果たして固定指示詞は普通名詞と全く異なるものだろうか.出口(1995)の言うように,属員が一つしかない類を考えれば,類と個物は連続的なもののように思える.しかし,種タクソンとその属員は異なるレベルにある.同定カテゴリーのための整理箱と,整理箱に入れられる品物とは異なるレベルのものである.
LaPorteは種について多元主義である.様々な種概念があるが,どれかが真の概念だと発見されるようになるとは見えないと言う.タクサの本質を議論するに際しても,分岐学的定義と進化分類的定義を取り上げている(表型的定義は取り上げない).「トラのいかなる属員もP(トラの模式標本の祖先である個体群)に由来しないということは起こりえない」(p.51).分岐的定義を採れば,Pに由来して種形成あるいは絶滅によって終わる系譜が本質である.Panthera tigris自体がその系譜であることは本質的であるが,Panthera tigrisに属する全個体がその系譜に本質的に属することはないと可能世界論を通してLaPorteは主張する.「Panthera tigrisのある属員は,それらが存在するような全ての可能世界でPanthera tigrisであるわけではない」と言う(p.61).わかるようなわからないような話.創発論-唯物論的立場を採るMahner & Bunge (1997: 219) のように,可能世界は「現実世界について何かを述べるには不適当な全くの虚構である」とも言いたくなる.しかし確かに,ある個体はある可能世界で生まれたが,その同じ個体は他の可能世界では生まれなかったかもしれない.その通りである.ある特定の個体は未来に生まれるかもしれないし,生まれないかもしれない.しかし,種は類であるから,ある特定の個体が生まれなくても存在する.むしろそのように扱うのが生物分類である.生物個体を例えば種レベルの同一性によって指示(特定)しているのである.これらのことは,「ある種とは,それに属する生物体を産み出すシステムである」という定義を示唆する(小野山 1995を見よ).LaPorteはタクサは本質をもつと言うが(しかし本質は発見されるのではないとも言う),タクサの属員は必ずしもこれらの本質をもつとは考えない.このあたりは理解に苦しむ.たぶん進化にひきづられて混乱しているのだろう.進化的移行部分は切り捨てればよい(あるいは移行部分の生物体はファジー集合で扱ってもよい).大部分が同定できることでよい.また,LaPorteは本質主義を部分的に取るのだが,系譜をタクソンの本質としてしまうことは,実質的に本質主義から離れることになるのではないか.
4.指示の安定性
「指示の因果理論によれば,理論的記述によって自然類用語が定義されるのではない.理論的記述は理論とともに変わるだろう.そうでなければ,(通約不可能性の賛成者が言うように)理論とともに用語の意味が変わるだろう.むしろ,われわれは,一つの類の標本を同定し,その類の名前を適用して具体例とし,そしてその類の本質を発見する.理論は,自然類用語がちっとも変わらなくても移り変わることができる.というのは,用語が何を指示しているのかを決めるのは世界にある標本であって,理論ではないからである.」(p.3).しかし,この指示の安定性についての説明は素朴すぎ,指示の因果理論の立場を取っても用語の意味は変わるのだとLaPorteは主張する.
水の微細構造的な本質はH2Oで,(化学では)H2Oであることが水と呼ばれるための必要かつ十分条件である.しかし,LaPorteは,水の本質はH2Oだとは考えない.むしろ双子の地球でのXYZ(水と同じ性質を示す物質だが異なった長くて複雑な化学構造をもつ)は水であるかもしれないし,水ではないような特徴をもったH2Oは水ではないかもしれないと主張する.つまり,「水」を指示する上で,標本の微細構造と観測可能な特性の両方が役割を演じている.この両方がないと何について言っているのかへの明確な答えがなくなり,曖昧さが生じることになる(p.93).水はH2O化合物と同一ではなく,「科学のはじまる前に「水」と呼んでいた大部分は,本当の水だと信じられた試料から擬似の試料を区別するものと結論できたであろう微細構造を二つ以上もっている」(p.103).
これらのことは再分類として考えることができるだろう.日常世界で水と呼んでいるものを,化学構造に着目した分類によって水とはH2Oだと化学において再定義したということであり,発見された重水(D2O)を水に含めるかどうかも再分類の問題である.違いを重視して,重水は水ではないとしてもよい.分類カテゴリーの同一性の範囲をどう取るかの問題である.そういう点では確かに,重水は水だと発見されたのではないし,また水とはH2Oであると発見されたとも言えない.定義は発見されるものでなく,設定されるだけだと言える.しかしまた,本質は発見されると言ってもよいのではないか.ここら辺りはもはや言葉の使い方による.科学での言葉も含めて,われわれは対象を指示する分類体系を対象に押しつけ,結果として目的に役立てばよい.
5.自然類用語の曖昧さ
単孔類が哺乳類として分類されたとき,哺乳類という用語の意味は変化したのであろうか.「単孔類発見前の「哺乳類」という用語には,「胎生」という記述が伴っていたが,発見後はそうではない」(p.116).この場合,指示の記述群理論は,記述が変わったのだから意味が変化したと認める(p.116).指示の因果理論では,意味あるいは指示対象の変化なしに,記述を変えることができる.元の範例(哺乳類なら,その用語をつくるときに命名儀式で用いられたイヌやウマなどの標本)の性質のみが意味と指示を決める.したがって,それらの性質が何であるか,そして「哺乳類」という用語が何を指示しているのかを見つけ出すために,これらの標本を調査するのが科学者の責務である(p.117).類の本質について見いだしたことを報告するときに,科学者は用語の意味を変えるのではなく,何がその用語の外延に属するのか属さないのかを知らせるだけである(p.117).本質は発見されるのではない.発見されるのは曖昧さである.単孔類が発見されたとき,哺乳類という自然類用語の曖昧さが発見されたのであって,単孔類が哺乳類であることが発見されたのではない.単孔類は哺乳類ではないと結論することもできた.哺乳類という用語で意味されていることが解明されたのではなく,用語の意味が変化させられ洗練されたのである.このように著者は主張する.
このような著者の捉え方も一つの立場ではあるが,これは分類体系をどう改訂していくかの問題であり,それこそ程度の問題で,階層的分類体系はもともと近似的なものでしかない.分類において重要なのは,あるタクソンの特徴づけの内容である.それはまた,他のタクサとの特徴づけとも関連するから,体系全体とも関わる.ひとつの用語の意味変化は体系全体とも関わっている.Thagard (1992) のように全体構造の変化として捉えたほうがよい.
6.言語的不安定性と科学の進歩
LaPorte(p.121)は,生物学における科学革命であるダーウィン革命に焦点を当てて,言語的不安定性についてのKuhnの命題を擁護する.ただし,言語的変化が正統に特徴づけられれば,革命を通じた科学的進歩があることを疑う理由はないことも主張している.「明らかに真でもなく偽でもない曖昧な言明が,ごまかしなく真である言明に置き換えられるときに進歩はなされる」(p.131).ダーウィンが,種は不変ではなく,各々の種は独立に創造されたのではないと言ったとき,「種」という用語の意味は変化した.ダーウィン前では,種とは特別に創造された最初の個体群とその系譜につながる全てを含むグループを意味しており,種は進化によっては生じないことは定義によって真である(p.122).「新種は進化によって生じてきた」という文は,今日の使い方では真であるが,ダーウィン前の話者が使うときには真ではなく,曖昧であった(p.131).ダーウィン的意味での新種は進化によって生じるが,Hopkins的意味での新種は進化によって生じないとすると曖昧さは無くなる.そのように理解したとき,進歩はなされる(p.132).指示の因果理論は,理論変化の前後では指示の安定性を保証しないとLaPorteは言う.
ダーウィン前の話者では曖昧だったとするのは,歴史を後から見て判断した結果を押しつけているようで,やや強引である.科学的進歩の内容を言語的変化に還元しすぎだと思う.
もう一つの例として生気論の敗北を取り上げ,「科学者たちは,生物は非物質的実体を部分として持つという主張を論駁したのではなく,その考えを実りの無いものかオカルトかあるいは非科学的だとしてむしろ無視した」(p.194)と注記している(生気論について,米本(2002)は同様の見解のようである).生気論と創発論との関連が取り上げられているが,もっと突っ込んだ分析をしてほしかった.
7.最後に
あちらこちらで論証の筋道がよくわからなかった.もっと整理して簡潔に書いたほうがわかりやすいと思う.ところどころ可能世界論の議論に訴えているが,ある可能世界からの到達可能性をきちんと言っていないので,手前勝手な論証になっているような感じを受けた.
本書は,タクサにまつわる問題を本質,指示,理論変化,言語変化,曖昧さ,通約不可能性などと関連づけて提起しており,またごく最近までの関連文献が数多く引用されているから,この方面に興味をもつ人は参照するとよいだろう.
引用文献
Bunge, M. 1999. Dictionary of Philosophy. Prometheus Books, New York.
出口 顯 1995. 『名前のアルケオロジー』.紀伊国屋書店.
*Daly, C. 1998. In: Roudledge Encyclopedia of Philosophy, Vol. 6, (Craig E. ed.), pp. 682-685. Plenum Press, New York.
de Queiroz, K. 1995. Biology & Philosophy 10: 223-228.
Ghiselin, M. T. 1981. Behavioral and Brain Sciences 4: 269-313.
*Kripke, S. 1980. Naming and Necessity. Harvard University Press, Cambridge. [クリプキ,S.A.(八木沢敬・野家啓一訳,1985)『名指しと必然性:様相の形而上学と心身問題』.産業図書]
Mahner, M. & Bunge, M. 1997. Foundations of Biophilosophy. Springer-Verlag, Berlin.
小野山敬一 1995. 統計数理研究所共同研究リポート 67: 1-13.
Thagard, P. 1992. Conceptual Revolutions. Princeton University Press, Princeton.
米本昌平 2002. 『独学の時代−新しい知の地平を求めて』.NTT出版.
<このWWWページで追記 2006-vii-18>「3.タクソン名は固定指示詞である」の後に.
3b.恐竜は滅びない
共通祖先にもとづいて生物はタクサに位置づけられるので,KripkeやPatnumのように内的構造が生物的類の属員を束ねているとするのは誤りだとLaPorteは言う(p.64).ただし本質はあり,それは系譜だとするわけである.「鳥類は恐竜類から進化したので,恐竜類である.恐竜は結局滅んでいない!」(p.67).
え? そんなこと言ったら,現在生存している生物の祖先のタクソンの属員はすべて滅びなかったことになる.祖先タクソンの属員が滅びるか滅びないかはずっと後まで決まらないことになる(?.カテゴリーとしてのタクソンが滅びるとか滅びないとかの述語は取りえない.しかし過去の属員個体はすべて死んだわけだし……).後から見て決まるわけである.滅びるのは結果として側系統になったものだけである.しかし,滅びたから側系統になったのであって,ずっと現在まで続いていれば,そのタクソンの属員だけでなく,祖先タクソンの属員もすべて滅びていない.というか,ここに至って「滅びる」という言葉も意味が不明になる.再定義できるだろうか? 話がややこしくなるので,分類と系統の話は別にしなければならない.滅んだり滅びなかったりする系統(いや,系統とは構築物つまり概念だから滅ぶことはないか?!)によってタクソンを定義すると混乱のもとである.分岐の元あるいはその時点から見ればどのタクソンの属員が滅ぶかはわからない.ある未来時点で生存しているか生存していないタクソン属員を生んだ祖先は呟く.「わたしの可愛い子供たちよ,可能な限り適応してちょうだいね.適応不可能だったら滅ぶのもやむを得ないわ」と.
ところでまた,単孔類は,有袋類と有胎盤類より前に分岐したので,哺乳類かどうか明白ではない(p.119)とも述べている.
出典: 小野山敬一.2005.LaPorte著『自然類と概念的変化』を読んで.生物科学,56(3): 179-183.