類似性と「みにくいアヒルの子の定理」

             小野山 敬一



1.はじめに

 類似性 similarity は対象間の関係を見るひとつの方法であり,しばしば分類における基準となるもので,それによって事物のグルーピングが行なわれたりするものである.一方,「みにくいアヒルの子の定理」(the theorem of the ugly duckling)は,形質を同等に評価した場合には類似性にもとづく分類がありえないこと,したがって客観的な分類がありえないことを示すものと解釈されている.
 「みにくいアヒルの子の定理」はWatanabeが1961年にAAAS annual meetingで言及し,1962年ブラッセルでの講演で厳密な証明を与えた.後者はWatanabe (1965) に収録されている.その後,渡辺自身は,Watanabe (1969) や渡辺(1978,1986)で取り上げているが,他の著者が言及したものはほとんどない.村上陽一郎は,Watanabe (1969) の翻訳者の一人で,渡辺(1986)の解説を書いており(村上,1986: 163),この定理の意味について述べている.最近になって,池田清彦(1991,1992a,1992b,1993a)は自らの主張の論拠として使っている.科学哲学者の野家啓一(1993: 95)や渡辺一衛(1994: 69)もやはり,この定理が正しいものとして言及している.ただし,後者は,証明がよく理解できないと言っている.
 以上のように,「みにくいアヒルの子の定理」の証明が間違っているとか,その解釈や意味づけがおかしいとか,異議を唱えたものはいないようである.小野山(1984: 81')はもしこの定理が成り立つならば,数量分類学派(Sneath & Sokal, 1973)の基本的立場となっているAdansonの立場,全ての分類形質は等価に評価すべきだという立場そのものが崩れると示唆した.池田(1991)は「みにくいアヒルの子の定理」にもとづいて,表型学派の基盤が成立しないことを明白に主張した.
 本稿は「みにくいアヒルの子の定理」の証明とその意味するところを検討し,生物分類に対する関係を明らかにしようとする試みである.


2.「みにくいアヒルの子の定理」の証明

 渡辺は「みにくいアヒルの子の定理」をブール完備束のもとで証明しており,一般化された定理についても証明している(渡辺,1969c).ここでは具体的にみよう.
 AとBの2つの述語を考える.この2つの述語から出発して,否定,連言,選言の論理記号を使ってさまざまな述語をつくることができる.例えば,Aの否定である「Aではない(¬A)」があり,「かつand(∩)」や「あるいはor(∪)」によって2つの述語を結ぶことができる.
 一つの対象(物件)をとりあげれば,AであるかAでないかで,さらにBであるかBでないかである.したがって,一つの対象は
  A∩B,A∩¬B,¬A∩B,¬A∩¬B
のどれか一つに落ちつく(渡辺,1978: 91).つまり,AとBそれぞれの肯定する部分を円で表わすと,4つの領域に分かれる.2つの円の交差する部分がA∩Bを示すこととなる.この4つの基本的領域を渡辺はアトム(原子)と呼ぶ.各領域を名づけて
  a1=A∩B,a2=A∩¬B,a3=¬A∩B,a4=¬A∩¬B
とする.A=a1+a2である.これらの4つのアトムから0〜4個とることによってさまざまな述語をつくることができる.0個とった空集合と4個とった全体集合も含めて16の述語ができる.このようにして作られる述語を導出述語と呼ぶことにする.AとBの2述語から出発した場合は否定,連言,選言の論理記号を使ってできる導出述語はこれで全てである.
 対象(個物)間の類似度を対象が共通してもつ述語(形質)状態数とする.「二つの物件a1とa2とが[領域a1とa2に属する2つの対象というべき]が共有する述語とは,a1とa2と両方を含んだ述語で」(渡辺,1978: 99)ある.たとえばa1∪a2である.述語がn個の場合,2つの対象についての2位(2個のアトムからなる)の共通述語は1つである.3位のものはnから2をとった残りのものすなわち(n-2)から1つ選ぶ選び方の数だけあり,n-2C1 =n-2になる.一般に位数rの共通述語は,(n-2)から(r-2)を選び出す仕方の数だけある.そういうrは2位からn位まであるので合計では,
  n-2C0 + n-2C1 + n-2C2 + …… + n-2Cn-3 + n-2Cn-2
  =2(n-2)
となる.そしてどの二つのアトムを取っても同じなので,どの二つの対象についても,共通の述語の数は2(n-2)個である(渡辺,1978: 99-101).
 「これは,任意の2つのアトムについて,それらを含むアトムの組み合わせの数が常に一定であるという至極当然の主張である.2述語の場合の4つのアトムをa1, a2, a3, a4とすると,例えば,a1とa2については,(a1, a2),(a1, a2, a3),(a1, a2, a4),(a1, a2, a3, a4)の4通りの組み合わせがあり,a2とa3についても,(a2, a3),(a2, a3, a1),(a2, a3, a4),(a2, a3, a1, a4)の4通りの組み合わせがあるということなのである。単に組み合わせの勘定をするのであるから,当然どの対についても同数となる.」(芦田 廣,私信).
 池田(1991: 92-95)が2述語の場合について解説しているのを見よう.2つの述語A(例えば赤い)とB(例えば丸い)を例に取ると,ある対象は赤くて丸くないとなる.対象x1〜x4が表1のような真理値をとったとする.

表1.
       x1 x2 x3 x4
A(赤い)  1 1 0 0
B(丸い)  1 0 1 0

 そして,拡張された述語,すなわち2つの述語からの導出述語について,どれも等価だと主張する.すなわち,
 #1.肯定的述語(「赤い」)と否定的述語(「赤くない」)は等価である.
 #2.他の論理記号(∩,∪,∨(排他的選言の記号とする))を使ってつくった述語も等価である.
 「うさんくさそうな奴としてA∨Bを選ぶ」と,これはアトムでいえばa2+a3であるから,(A∩¬B)∪(¬A∩B)である.これをCという述語で置き換えると,BはA∨Cで表される.つまり,A,B,C(=(A∩¬B)∪(¬A∩B))は等価である(池田,1991: 95).
 そこで,述語AとBから論理的に導かれる等価な述語も真理値表に並べると,表2のようになる.ただし,真理値は渡辺(1978)のアトムの取り方に一致させ,また述語の並べ方は位の順にした.表2では中央の破線の上下が肯定と否定によって対称となっている.

表2.
       位rank   x1 x2 x3 x4
φ(矛盾定数)  0    0 0 0 0
A∩B      1    1 0 0 0
A∩¬B     1    0 1 0 0
¬A∩B     1    0 0 1 0
¬A∩¬B    1    0 0 0 1
A        2    1 1 0 0
B        2    1 0 1 0
A∨B      2    0 1 1 0
-----------------------------------------
¬(A∨B)   2    1 0 0 1
¬B       2    0 1 0 1
¬A       2    0 0 1 1
A∪B      3    1 1 1 0
A∪¬B     3    1 1 0 1
¬A∪B     3    1 0 1 1
¬A∪¬B    3    0 1 1 1
□(肯定定数)  4    1 1 1 1

 ある位の述語のところを見ると,どの2つの対象も同じ数だけの述語状態を持っていることがわかる.矛盾定数と肯定定数はつけ加えても影響は出ない.一致する真理値の数はどの2つの対象間でも同じである.したがって,どの2つの対象間も同じ類似度を持つこととなる.


3.「みにくいアヒルの子の定理」の検討

 #1の主張である,肯定的述語の代わりに否定的述語を採用することはかまわない.肯定と否定は同等である.真理値が0か1だけをとる2値論理の場合には,肯定とその否定は互いに否定の関係にあるからである.また,好むなら肯定的述語とその否定的述語を同時に並べてもよい.その場合には,表2からわかるように共通述語状態数は倍になるだけである.
 しかし,#2のどの導出述語も等価だという主張は受け入れられない.観察によって情報を得るうえで,効率の良さに違いがあるからである.AとBについて観察すれば(真理値を得れば),導出述語の真理値は観察することなく論理的演算によって得ることができる.導出述語相互の関係は渡辺自身(1986: 60)が図にも示しているとおりである.すなわち,導出述語間には論理的関係があり,対象の観察結果を出す上では冗長な導出述語の組み合わせがある.この情報的冗長性から考えてみよう.目標は観測をして,どのアトムに属するかを決定することである.
 AとBのふたつの述語を考えると,2つの述語を適用すること,つまり2回の観測で対象がどのアトム(A∩B,A∩¬B,¬A∩B,¬A∩¬B)に所属するかが決定できる.3回以上の観測で決定できる述語の組み合わせは(例えばA∩B,A∩¬B,¬A∩Bでは3回,いずれもnoであれば¬A∩¬Bと決定できる)冗長ということになる.最小数の観測で決定できるような述語は,A,B,A∨B(∨は排他的選言)とその否定から,互いに否定関係にないような組み合わせである.「A,B」と「A,A∨B」は等価である.情報的冗長度は同じである.池田(1991: 95)は「最初の述語から導出されるすべての述語は等価で」あると述べているが,それは誤りで,渡辺(1978: 97)が「お互いに否定関係にはないような一組の二位の述語から出発しても同じです」と述べているように,A,B,A∨Bとその否定¬A,¬B,¬(A∨B)から互いに否定関係にあるものを除いた組み合わせだけが等価である.すなわち,情報的には導出述語の全ての組み合わせが等価であるのではなく,一部の組み合わせだけである.
 では,情報的にも等価な述語の組み合わせを使った場合の類似度はどうなるだろうか?
 観察者Lは述語AとBを,観察者Mは述語AとA∨Bを,観察者Nは述語BとA∨Bを選ぶとすると,対象の類似度はこれらの観察者間で異なる.対象x1,x2,x3,x4は表3のようなものだとすると,表4のような真理値となるから,観察者L(A,¬Bをとる観察者L2でも同じ)にとってはx1はx4よりもx2あるいはx3に似ており,観察者Mにとってはx1はx3よりもx2あるいはx4に似ており,観察者Nにとってはx1はx2よりもx3あるいはx4に似ていることになる.したがって,これらの観察者は異なった類似性の世界を持ち,そし

表3.
     位rank   x1 x2 x3 x4
A∩B    1    1 0 0 0
A∩¬B   1    0 1 0 0
¬A∩B   1    0 0 1 0
¬A∩¬B  1    0 0 0 1


表4.
                         
観察者 述語  位rank  x1 x2 x3 x4
                         
L   A    2    1 1 0 0
    B    2    1 0 1 0
---------------------------------------------------
M   A    2    1 1 0 0
    A∨B  2    0 1 1 0
---------------------------------------------------
N   B    2    1 0 1 0
    A∨B  2    0 1 1 0
---------------------------------------------------
L2  A    2    1 1 0 0
    ¬B   2    0 1 0 1
                         

て互いの述語の変換関係を知らない限り,それぞれの世界を主張して譲らないことになる.
この3つの世界は互いに同等である.このような類似性の違いはどのような述語を選んだかという違いから生じている.つまり述語を選ぶこと自体が,どの2つの対象に同一性(ここでは類似性は部分的同一性である)を見るかということを意味している.そしてどの2つの対象についても同じ数の述語すなわち同一性を適用することになるのが,出発点となる述語からすべての部分集合を構成する(これは完備束となる)導出述語の適用である.このやり方を解釈したのが「みにくいアヒルの子の定理」である.

表5.
     位rank  x1 x2 x3 x4
A     2    1 1 0 0
A∨B   2    0 1 1 0
¬A    2    0 0 1 1
B     2    1 0 1 0
¬B    2    0 1 0 1
¬(A∨B)2    1 0 0 1

 出発点となる述語からすべての導出述語を採用しなくとも,ある位の導出述語をすべて適用すればどの対象も同じ類似度をもつ.例えば表1に示した1位の4つの導出述語の集合,あるいは表5に示す2位の6つの導出述語の集合は束とはなっていないのではないかという疑問がわくが,しかし,ある位rankのものを選ぶということに束の条件が入っている.完備束とマトロイドは同じである(津本,1994)が,rankを定義することはマトロイド構造を導入することと同じである(津本周作氏の教示による;例えば,伊理ほか,1983).
 客観性とは何だろうか? 渡辺は説明をしていないけれどもおそらく,2述語の場合には16人の観察者がいてそれぞれが導出述語の1つずつを対象に適用することとし,この16人の観察者による観察結果を同等に評価すれば,対象について人の主観によらない,すなわち客観的な評価が得られるだろうという考え方であろう(この16人が互いにそれぞれが用いる述語相互の関係を知らない場合(知っている者は,導出述語をつくって割り当てた者である),この16人は互いに同等に評価しようとするだろう).そうするとどの2対象も同じ類似度をもつことになる.これがみにくいアヒルの子の定理の「解釈」である.
 情報的冗長度が同じである2つの述語の組み合わせは対等である.これらの述語の組をもつ観察者はすべてを同等に評価すればある意味で客観的な評価と考えられる.そこで,対等の2つの述語の組み合わせをすべて並べて類似度を見るとどの2つの対象でも同じとなる.本来,みにくいアヒルの子の定理は,このレベルで主張すべきものである.これを「みにくいアヒルの子の定理・情報版」と呼ぶことにする.


4.われわれはどのような述語を使うか

 A∨Bというような述語はわれわれは採用しないものだろうか? そうとは限らない.渡辺(1986: 68)の具体例を引こう.観察者Lの述語Aを「背が低い」,述語Bを「目方が多い」とし,観察者Mの述語X=A,Y=A∨Bとすると,Yは「背が低くて目方が少ない」か「背が高くて目方が多い」かのどちらかとなる.つまり,「釣り合った体つきをしている」となる.Yの否定は「背が低くて目方が少ない」か「背が高くて目方が多い」かのどちらかとなり,のっぽか太っちょであるので「釣り合いが悪い」となる.言い換えられる言葉があるということでもある.
 しかし,これはたまたま言い換えられる言葉があったということである.例えば,「顔が白くて爪がまっすぐであるか,顔が白くなくて爪がまがっているか,のどちらかである」を一言で表す言葉はない.背の高さと目方にある関係を想定できるので,われわれは「釣り合った体つきをしている」といった言葉をもっていると考えられる.3つの述語を用いた場合,アトムは8つで,出発点となる述語は4位の述語である.互いに対等な3述語の組み合わせは数多くある.しかし,出発点となる述語を除けば,言い換えられる言葉はほとんど考えられない.それらをまとめているのは,単なる集合としてである.つまり,導出述語のそれぞれは,外延的にさだまっているだけで,言葉として指示する凝集性がない.概念としてとらえられないものである.逆に,そのようなものには言葉が与えられないということでもある.
 われわれが採用している述語系(ひいては言語体系)はどのようなものであるのか,それは世界をどのように分節しているのかは論争の的ともなる問題である.われわれが分類において使う述語系は,「みにくいアヒルの子の定理」的述語系(完備束述語系)でも,「みにくいアヒルの子の定理・情報版」的述語系(どのような数学的構造かは不明)でもない.「みにくいアヒルの子の定理」での「出発点となる述語」である.この「出発点となる述語」は,「基本レベル・カテゴリー」(Brown, 1958, 1965; Berlin & Kay, 1969)的なものだと考えられる.基本レベル・カテゴリーは,最も一般的なレベルでもなく最も特殊なレベルでもなく,中間的なレベルにあり,子供がもののカテゴリーを学び,ものを名付ける最初のレベルである(レイコフ,1987: 15).「背が高い」や「目方がある(重い)」は基本レベルの性質である(レイコフ,1987: 327).「釣り合いがよい」はそうではない.
 生物分類に使われる述語系,特に形態的形質の場合も基本レベルのものであろう.比較するのは2物の相同的部位についてである.しかし,形質の相互関係はほとんどの場合わかっていない.形態形成のしくみについてはほとんどわかっていないからである.したがって,人間にとっての基本レベルの述語と形態形成的述語の対応がついていない.その意味では,どのような述語を選んでいるのかがわからないことになる.
 観察者がどのような述語を選んでいるかは,対象の観察結果から逆に推定するしかない.ある数の対象について同一の観察結果が得られたならば,その限りでは同一の述語だと言うほかない.観察結果を重ねて異なった結果が得られた時点で,2つの述語は異なる述語だったということになる.こうなると,選ばれる述語は対象に依存すると言える.池田(1991: 96)の言うように,「形容詞を選ぶ基準が,対象と独立にあるわけではない」.このような場合,すなわち,外的基準がなく,さらに形質を選択することによる主観を克服したい場合,統計的データ解析の方法である対応分析(数量化III類)が有効であろう.


5.表型学派と「みにくいアヒルの子の定理」

 表型学あるいは数量分類学において「みにくいアヒルの子の定理」で起きた問題はどうなるのだろうか? もちろん導出述語のようなものを述語としては採用しないので問題は起こらない.表型学派にとって,論理的に相関した形質logically correlated characterは,許容できない形質inadmissible characterの一つであり,形質として選択される範囲外である.Sneath & Sokal (1973: 103)は,「他の特性の論理的帰結であるようないかなる特性も,冗長redundantなものとして排除しなければならない」と述べている.また,矛盾定数と肯定定数は,不変形質invariant characterであり,排除すべきものである(Sneath & Sokal, 1973: 103).類似度に情報を加えないからである.ただし類似度は相対的なものなので,含めてもかまわないが,積極的意義はない.
 形質マトリックスでは形質(述語)状態が記入される.みにくいアヒルの子の定理のやり方は,形質と形質状態の混同だと分類学者は言うであろう.しかし,「みにくいアヒルの子の定理・情報版」は,形質と形質状態の混同にはならない.にもかかわらず,「客観的に」評価すると,対象間の類似度は同じになる.そうならないのは,互いに異なるが同時に適用すると全体の結果として打ち消すようになる(まさに主観を打ち消すようになる)ような述語系を使っていないからである.実際,分類学者は有限数の形質を扱っており,このことは取り上げなかった形質にはゼロの重みを与えていることに相当する.
 表型学派の立場のひとつである,「分類群をつくるにあたって,あらゆる形質はアプリオリには同等の重さである」(Sneath & Sokal, 1973: 5)は,同等の重みづけについては実現できないし,アプリオリには同等の重さだという主張そのものに意味がない.より多くの形質を選択し,選択したものについては同等の重みづけをするということである.したがって全体的類似性は,より多く選択した形質に限った全体でのことである.「類似している二つの事物はつねにある点において類似的なのである」(ポパー,1959: 515)が,そのような点を共通して多くもつ2つの対象は,よく似ていると判断される.ヒトが同一だと見なしうる形質,あるいは異なると見なしうる形質をどれだけ多く見つけるかということに類似性は依存する.しかし,そのようにしてヒトにとっての全体的類似性を考えておけばよい.着目する点(の軽重)が異なれば,意見の一致を見ないことになるが,にもかかわらずかなりの程度にヒトは共通の形質を使っていると思われる.ただし,そのときの単位形質は何かという問題がある(Ghiselin, 1966; 青木,1976)が,これはヒトの認知能力と関わる問題である.また,表型学派だけに関係する問題ではない.
 「人間の主観を排して,すべての属性を取り上げて,全体的類似性を比較すれば,みにくいアヒルの子の定理により,すべての生物の類似度は等しくなってしまう」(池田,1992b: 100)としても,重要なのは,ヒトの(原初的ないし科学技術によって拡大された)パタン認知にとってであって,ヒト以外の生物のパタン認知にとってではない.観察者は人間以外のものではありえないという意味で,人間の主観から離れることはできない.表型学派は,より多くの形質を選択することによって,より多数の主観をとりこむこと,つまり,より大きな間主観性客観性をめざしたというべきだろう.


6.述語を選び使うことの意味:主観と対象

 2述語A,Bの場合,情報的に同等であるにもかかわらず,述語の組み(A,B)と(A,A∨B)では類似性がもたらす結果が異なる.このことからわかるように,述語Aを適用するとはアトムa1に属するものとアトムa2に属するものの間に同一性を定めることであり,述語A∨Bの適用はアトムa1とa4に同一性を定めることである.すなわちどのような述語を選ぶかがそのまま同一性を見て取るということである.そして,その同一性によってグループを設定することになるということがはっきりする.
 この事情は,生物分類においては形質を発見することがクラスを設定することに通じている.例えば,ハリアリ属 Ponera という蟻のグループを特定する形質として腹柄節下部突起に窓が開いている(円状に薄くなっている部分がある)というのがある.それまではニセハリアリ属 Hypoponera などとともに多くのグループが含まれていた漠然としたグループだったものから,この構造を発見したことによって,ハリアリ属のメンバーを明確にとりだしたのである.
 ある述語を採用し適用すること自体が,対象間にそれによる同一性を設定することに他ならない.われわれは述語を採用し,それによって対象を分類することによって,対象間に構造を与えているのである.それは,構造のない単なる集合ではない.また,完備束の構造をもつだけの集合でもない.
 わたしは,「みにくいアヒルの子の定理・情報版」を主張するが,「みにくいアヒルの子の定理」をもとにして渡辺や池田が主張していることに,ほとんど同意できる.すなわち,「述語や変数の選択と評価は目的的行為の文脈のなかでのみ解明できる,と結論してよい……一切の目的を欠いている世界は,醜いアヒルの子の定理が暗示するように,まったく「灰色」で,無定形で,無意味なものとなるはずだ,ということは忘れるべきではない.」(渡辺,1969c: 127)や,「ある述語は他のある述語より「より重要である」ということを認めなければならないでしょう.そうすれば,類似しているということは「より重要な述語を共有している」ということになり,そういう共通な重要な述語の数なら,二つの物件の対によって違いますから,類似の度合を語ることができましょう.」(渡辺,1978: 103)は,その通りだと思う.述語を選ぶことは,選ばなかった述語があることでもある.選ばなかった述語の重要度はゼロとしたのである.
 しかし,主観的述語からみちびかれるものはやはり主観的ではないのか? 出発点となる述語を選ぶ段階で,人間の主観が入っている.世界の切り取り方がそれで決まるからである.「青色である」というのは物理学的には連続体であるものを人間の主観で区分し,取り出し,名付けているのである.ハトは少なくとも3色型色覚(4あるいは6色型かもしれない)をもっているが,ヒト(3色型色覚)と違った色カテゴリーをもっている.ハトでは540nmの両側の波長は異なったカテゴリーに入るのに対して,ヒトではそれらは同じカテゴリーに入る(ジェイコブス,1981: 135).
 池田(1992b: 24)は「人間の認知パタンから独立した客観的な性質をことごとく選んで,それらを等価とみなす限り,そもそも分類という営為は成立しないのである」というが,はたして「人間の認知パタンから独立した客観的な性質」というものをわれわれは選べるのだろうか? 「みにくいアヒルの子の定理」のやり方では,述語の論理的組み合わせからアトムをつくり,それらを等価としたのである.部分的集合でも,出発点となる述語は人間の認知パタンによるものである.それからつくられる導出述語も客観的とは言えない.ここで客観的という意味が問題となる.
 池田(1991)は,「客観的な」ということを,出発点となる述語とそれから論理的に導かれるすべての述語を採用する,と解釈した.しかし,出発点となる述語を採用した段階で,対象世界は主観的に分けられたのであり,論理的に導かれるすべての述語でもそのアトム(領域)あるいは境界線は変わっていない.そのようなものをすべて並べたら客観的といえるのであろうか.少なくとも元の述語を採用したときの切り取り方という主観はひきずったままである.「そもそも形質を選ぶのは人間なのであるから,選んだあとでどんな操作をしても,分類群を分ける客観的な基準が選べるなどという保証はどこにもない」(池田,1992b: 88-89)のは,その通りである.
 導出された述語においても,区切られた境界そのものは変わっていないのである.区切られた境界を定めた後で,領域の取り方の客観性は導出述語で構成できるといえるかもしれない.しかし,本来の客観性を構成するためには,どこを区切るか(分節の仕方,カテゴリー形成)についても様々な可能性を考え,同等に評価しなければならないのではないか? しかし,それが可能だとして,そのとき世界はいわば無色透明で,なんら分節されないものとなるであろう.そのような世界では対象も分節されず,それと認識できるものは何もないことになる.もし客観的な述語があるとすれば,白紙か,いかなるパターンも取り出せないモザイク模様のようなものであろう.それは,述語を適用しないことであり,したがって観測しないことである.この水準での客観性というものは,いかなる主体にとっても無意味である.
 われわれの主観が働くからこそ,世界は分節され対象の把握が可能となるのである.「人間は限定された存在である.……だがこの限られた部分は,至る所で,空間的にも時間的にも,他の部分とつながっている.世界で起こるどんな出来事でも,それが同時に我々の出来事であるほどまでに我々の存在が事物と結びついているのならば,我々と事物との間の差異は存在しないであろう.だがその場合には,我々にとって,個々の事物も存在しないことになろう.……ただ我々が限定されているために,本来は孤立して存在していないものが,我々にとっては孤立したものとして現われているのである.例えば赤という単独の性質が,他の性質から切り離されてはどこにも孤立して存在しない.赤という性質はあらゆる面で,それが属している他の諸性質に取り囲まれているのであって,これらの性質がなかったならば,その色も成立しえないであろう.だが我々にとっては,世界のある断面をそれだけで考察するために,それを際立たせて取り出すことが必要なのである.我々の目は,多様に組織された色彩全体の中から,個々の色だけを順次に捉えるしかなく,また我々の悟性は,関連し合っている概念体系の中から,個々の概念しか把握することができない.このような切り離しは,我々が世界の過程と一体になっているのではなくて,他の存在と並ぶ一つの存在であるという事態によって制約されていることからくる一つの主観的な働きなのである.」(シュタイナー, 1918: 93).
 結論として言えば,主観的にであっても情報をとりだせるほうがよいのである(というより,主体があって観測がありえるので,情報は主観的にのみ取り出せる).ある対象を2つ以上に分割すること自体が情報を産み出す手段となる.いろいろな方法で異なった結果が出るのは,対象の持つ様々な側面を観察していることであり,結構なことである.ある観察が他の観察より正しいかどうかとか,唯一の正しい分類があるとかにはならない.目的に照らして役に立つかどうかである.結果として役に立てば,その目的に関しては良い道具だと判断するわけである.そして,いろいろな方法が同様の結果をもたらす場合には,なんらかの実在性が示唆されているということになる.
 類似性はひとつの差異を対象間にもたらす構造である.差異はx1やx2という個々の対象にあるわけではない.対象と対象のあいだに設定したわれわれの概念である.対象に対して,観察の結果としていくつかの述語(と述語状態)(性質,属性)が決定される,あるいは,そのような性質をもつものとして対象が選ばれる(述語と対象との相互規定)のである.類似度という測度は,述語の選び方によって(また測度の定義,つまり測り方によって)異なる.しかし,類似性という概念の設定自体は,述語の選び方(そして測り方)には依存しない.述語を選び,述語状態を決定すれば,類似性は設定できる.そして,どういう測度を用いるかを決定すれば,類似度が算出できるのである.


8.生物分類

 メキシコのツェルタル族では,生物を対象とした場合の基本的カテゴリーは属に一致する(Berlin et al., 1974)(したがって,種はヒトのもつ基本的カテゴリーの下位のカテゴリーである).属カテゴリーが基本的なものとなっているのは,そのレベルでの類似性が,そしてまたその程度の非類似性が,日常生活的にそれとすぐ認知できるからであろう.それはまた,基本レベルの述語が切り分ける程度というのが,属の水準にあたることになるのであろう.
 われわれが類似性をみてとるのは,さらに生物分類群において認められる凝集性 coherence によるものだと考えられる.「これまでの理論では「羽がある」のと「飛ぶ」こととはそれぞれ一つの特徴であって,それが組み合わされて定義的特徴を形成するにせよ,……独立なものとしてあるいは単に相関しているものとして扱われてきた.しかし,……羽があることと飛ぶこととはたまたまいつも一緒に出てくるのではなく,両者の間には何か関係があって,私たちはそれを知っているからこれらが一緒に出てきて当り前だと思っている.……これに対して,「重さが二キログラム以下で一番長い部分の差渡しが五〇センチ以上の赤いプラスチック製品」というのは,それぞれの特徴間に何の関係づけもなされていない.……私たちはいろいろな対象が持つ多様な特徴を,ただ単にバラバラな判断手がかりとしているのではなく,それらの間に緊密な関係づけを行っている.これは,世界がこうなっているという私たちの解釈,つまり理論なのだ.」(村山,1990: 185).
 羽があることと飛ぶことには関係があるというのは,Ruse (1987) の言う「様々な方法による同一結果」という一致性(consilience)にあたるものだろう.Ruseは両者に関係を仮定するとは表現していないが,当然考えられるものである.どちらも,凝集性のもたらすものである.2つの,あるいはもっと多くの属性が多くの生物に同時に認められるのなら,それは類似性として認知されるだろう.類似性によらない分類はありえるが,生物分類が類似性を問題にせざるをえないのは,このような背景があるからだと思われる.
 生物分類群とカテゴリーとの関係については多くの論考があり,多くの視点と論点が錯綜している(例えば,クワイン,1980;桑子,1981;パトナム,1981;守屋,1983;川村,1987;村山,1990).特に種はクラスであるのか,個体であるのか,進化的単位であるのか,などの論争がある(Ereshefsky, 1992)が,種を哲学者や生物学者が設けたカテゴリーに押し込めようとすること自体が問題であろう.私見では種は生成システムであり,これが種個体に凝集性をもたらすのである.生物個体間にみられる類似性によって,この凝集性を推定すること,そして他の方法でも結果として同じ凝集性が推定されること,そのような凝集性を発見すること,これが生物分類のめざす重要な目標のひとつであると言えよう.


謝辞

 本論考を著わすうえで,コメントやご教示をいただいた,芦田 廣(防衛医科大学校),津本周作(東京医科歯科大学),大隅 昇(統計数理研究所),三中信宏(農業環境技術研究所)の諸氏に深くお礼申しあげます.


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