柳田國男
松岡家家系図
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柳田國男(やなぎたくにお)1875年(明治8年)7月31日、
兵庫県神東郡田原村辻川(現;神崎郡福崎町辻川)に
松岡操、たけの六男(男ばかりの八人兄弟)として出生。
父操は旧幕時代、姫路藩の儒学者角田心蔵の娘婿
田島家の弟として一時籍に入り、田島賢治という名で仁寿山黌(じんじゅさんこう)なり、姫路の熊川舎(ゆうせんしゃ)という町学校の舎主として1863年(文久3年)に赴任した。明治初年まで相応な暮らしをしたが、維新の大変革の時には、実に予期せざる家の変動もあり相当な困窮を極めた生活であったようである。

幼少期より非凡な記憶力を持ち、11歳の時に地元辻川の旧家大庄屋の三木家に預けられ、その莫大な蔵書を読破し、13歳の時に長男の鼎(かなえ)に引き取られ茨城県と千葉県の境である下総の利根川べりの布川(現;利根町)に在住。生地と異なった風物に強い印象を受ける。この際も隣の小川家の蔵書も読破した。
16歳の時に東京に住んでいた兄井上通泰と同居、19歳にして府立第一高等中学校に進学、後に東京帝国大学(現;国立東京大学)農学部に学ぶ。
通泰の紹介により森鴎外と親交を持ち、「しがらみ草子」に作品を投稿、また通泰の世話で桂園派の歌人・松浦辰男に入門。
第一高等中学校在学中には「文学界」「国民之友」「帝国文学」等に投稿し、詩人としての才能を開花させた。
後に飯田藩出身の飯田家に養子入りし、恋と文学を極め、官界に進んだその後も国木田独歩・島崎藤村などの文学者と交流が続き、官界に入ってから地方公演などを重ねていくうちに、地方の実情を知って次第に民族学的な物への関心を深めてゆく。
当時日本で起こった「怪談ブーム」の最中、佐々木喜善と知り合い岩手県遠野の佐々木を訪問して「遠野物語」を書き。宮崎県椎葉等への旅の後、郷土会をはじめ、雑誌「郷土研究」を創刊。
後に民族学が独自の領域であると主張を持った。

柳田國男
1875年(明治8年)7月31日
兵庫県神東郡田原村辻川     (現福崎町辻川)に生まれる。1962年8月8日没
リンク
椎葉村柳田國男ゆかりの地
成城大学・民族学研究所・柳田國男について
柳田國男記念公苑(茨城県利根町)
柳田國男の世界
飯田市美術館ー柳田國男館
柳田文庫(慶応義塾大学言語文化研究所)
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