何となく
ただ、何となくではあったが、結露した窓を見つめていたら、サーカスに行きたくなった。
部屋の片隅に、溜まった埃と一緒にうずくまる、きらびやかな紙片。
紫や金や黄緑で彩色された葉書は、郵便受けを覗き込んだ私を惹きつけた。
あまりの可愛らしさに、くずかごに放り込む気になれなかった極彩色の葉書。
もう何度見ただろう。とうに、文面は頭の中に仕舞い込まれている。
坂下サーカス公演のお知らせ
貴方の美しい鼻が赤くなり
長々しい夜の続く衣更着
如何お過ごしでしょうか?
ひび割れた硝子に突き刺さる蝸牛
猛々しい蝙蝠傘と黒き海老
そして、軟弱な水羊羹を
是非、見にいらしてください。
入場料 この葉書を御持参下さい
場所 ○○市中央公民館脇の市民公園
日時 2月10日 18:00受付 18:30開演
備考 入り口で簡単なアンケートにお答えいただきます
後援 ○○市環境委員会
大層変な文面であったが、暇が潰せるだけでもありがたい。私は壁の時計を横目で見て、バイト先に電話を入れた。
「今日は休ませてください」返事を待たずに携帯の電源を切った。
フリーターということになっている、現在の私の身分は。まあ、ようするに無職だ。
就職する気がなかったわけではない。現に就職活動は熱心にやった方だ。しかし、面接の回数を重ねるごとに、妙な気持ちが浮かんでくる。
本当にこの仕事がやりたいのか。
本当にこの会社でいいのだろうか。
そうして、結局、どこへも入る気がしなくなった。ぼんやりと考えているうちに大学を卒業していた。勿論、親には反対された。いや、正確にいうなら見捨てられた。就職しないのなら、出て行ってくれ、と。目障りだから、出て行け、と。親が薄情なのではなく、私の無気力がいけないのだろう。
今、一人暮らしをしているのもその所為だ。
将来に対する不安は始終おそってくる。
それと同時に、自分の弱さにも嫌気がさす。
恐かったんだろう。自分がつまらない人間であると知ることが。
全力で何かに挑めば、その結果が知らされる。受験勉強、そして模試、成績という名の結果が常につきまとっていた。
私は何になりたかったのだろうか。
そんなことは、考えもしなかった。
何か特別なことがしたかったわけでもなく。ただ、自分の能力を過信し、素晴らしい才能が埋もれていることを夢想した。現実に向き合えば、いつも重苦しい後悔の念におそわれる。もっと、努力しておけばよかった。何でもいいから努力しておけばよかった。夢想だけが私を慰めてくれた。
だからバイトがない日は、一日中布団の中でぼーっとしている。心が軽くなる。
私は、勉強をしさえすれば東大にも合格出来たし、野球をしさえすればプロにもなれた。法律を学びさえすれば弁護士にもなれた。マラソンをすればオリンピックにも出られるだろうし、アメリカに行けば大統領にもなれるだろう。
私は、努力しさえすれば、何にでもなれるのだと、布団の中でにやにやしているのだ。
薄ぼんやりとした日差しに照らされた雪がてかてかと反射した。その光が天井に波間を作り出す。
どうも雪は苦手で、堅苦しいコンクリートや古ぼけた土を這いつくばる蛞蝓の群れを想像して、塩を撒いてしまうことがある。熱できちんと清めた塩であれば、まるで本物のようにしわしわと縮んでいくのであった。
十戒のモーゼのように、私は拓かれた道を進むのだ。
私には、まだ接することの出来る世界が存在しているのだと、ふと、思うのだ。
私の呼びかけに答えてくれる世界が、まだ残されているのだと、思えるのだ。
ぽっぽー
ぽっぽー
ぽっぽー
ぽっぽー
ぽっぽー
唐突に壁にかけられた鳩時計が、ぽっぽーと五回繰り返した。
私は天井を見上げ、そろそろ支度をしなければと立ち上がった。
部屋の壁にぶら下がる、黒を主体とした洋服を適当に選び、今度は幾分慎重に乱れているかのように着こなした。意図的に乱した服装が最近の好みで、それを私は最良の着こなしであると何の根拠も無しに確信していた。
また外出の際に羽織るのは黒いインバネスのコートという、懐古趣味というか大正浪漫に満ち満ちた物を愛用していた。これは、今でも小説の探偵どもが嬉々として愛用している物であって、なんとも大仰な代物である。
そしてこれまた愛用の甘ったるくピンク色をした腕時計の時間を睨みつけて、黒ずんでいる玄関の扉を押し開いた。
地面は斑に這いつくばる蛞蝓で一杯だったが、器用に避けながら市民公園を目指すことにした。
市民公園を街灯に例えるなら、あの塊は虫と言う事になる。
寒さに蠢き、また蠢く。
大量の虫が涌いていて始末に終えない。
私は、何処が列の最後尾か分からず、ぼーっと見渡していたが、赤と白を基調としたピエロが笑っているのを見つけた。聖火のように誇らしげに掲げられた白い看板には鮮明な赤で、最後尾は此方です、と印されていたので、勿論私は灯りに惹かれる羽虫のようにふらふらと歩み寄った。
冷気の集団がふっと私を撫ぜた。身震いをして白くなってしまった手を擦り合わせながら、手袋をするのを忘れた自分を罵った。辺りを見渡せばちらちらと振り出した雪が映るばかりで、人々は灰色のガラスの向こう側に居るかのように静まりかえっていた。故にぼーっと手を擦り続けている音だけが辺りを満たし、私は赤みを取り戻した手を逃すまいと休むことはなかった。
気付けば受付が見える位置にいた。趣味をお教えください、という声がやけにハッキリと聞こえたので、アンケートというのは趣味のことなのだなと思い「はい、ぼーっとすることです」と予行演習をしてみた。耳を澄ますと、他の人々は、料理を作ることです、とか、走ることです、とか、食べることです、とか言っていて、私はみんな大したことはないのだなと少しばかり安堵した。自分の中の努力しなければ、という声が塩をかけられたかのように萎んでいった。
また、それと同時に葉書を回収しているようで、私も懐から取り出し「はい、ぼーっとすることです」と言いながら、葉書を手渡す動作を繰り返した。
だんだんと列が短くなり、受付が近付いてきた。受付の先には10の列があって、趣味を答えた後に分類されていた。何か法則性があるのでは無いかと観察を続けてみたがよく分からない、ただ、昼寝、と答えた人は3の列に並ばされていることだけが分かった。
とうとう順番が回って来たらしい。私の前には青と白を基調としたピエロがにこにこと笑っている。そして、言葉が白い息と共に吐き出された。
「趣味をお教えください」
私は少しも慌てず、予行演習の通りに答えた。
「はい、ぼーっとすることです」同時に葉書を手渡す。
青と白を基調とするピエロは葉書を受け取り、その裏に、ぼーっとすること、と書き加えた。続いて、手元の書類をめくって、私に3番通路に並ぶように告げた。なんだ、怠け者は3番なのかな、とも思ったが相変わらず擦っていた手がまた白くなり始めたので、温かいであろうテントの中を想像しながら3番の列の最後尾についた。
私の前には赤いフリースをきっちりと着こなした青年がちろちろと携帯電話で時間を確認していたので、なってないなあ、そんなにきっちり着たら台無しじゃないかと呟きながら、腕にまとわりつくピンク色の塊を見つめた。現在の時刻は18:21分、そろそろだ。
またしてもぼーっとしていた私の肩を、ととん、ととん、と叩く奴がいた。振り向くと極彩色の塊が目にしみた。赤青黄が大胆にあしらわれたコートが真っ赤な口を開き、これまた真っ赤な指先の爪で前方を指差した。
「前が空いているじゃないの進みなさいよ青い寒団が来ちゃうじゃないのまったく黒い輩には油断が出来ないわ貴方はあれなんでしょう連れてくるのね青かったり黄色かったり赤かったりするあれを原色が混じり合った彼方より到来するあの真ったき黒を」
言っていることがよく分からなかったが、前に進め、ということだけは指先から伝わってきた。私は何時の間にか積もった雪を憎しみを込めて大股で踏み進んだ。
余りにも大股過ぎたのであろうか、前の赤フリースにぶつかってしまった。失礼、そう呟いて頭を下げた、下には毛虫のような吸殻が散らかっていて嫌悪感が浮かび上がって来た。
赤フリースは、こんなに寒くては寝られんじゃないか、と愚痴りながら煙草の封を切り、火をつけて一口吸い込むと足元に放り投げ踏みつけて消した、また直ぐにつけ踏み消しつけ踏み消しつけ踏み消しつけ踏み消しつけ踏み消しつけ踏み消しつけ踏み消しつけ踏み消しつけ踏み消しつけ踏み消しつけ踏み消し、箱を握りつぶした。そしてまた封を切った。
私は頭を下げた拍子にコートから雪が落ちてくるのを感じたので、まとわりつく蛞蝓を払い落とした。もう薄暗くなった周囲を見渡し急に怖気づき家に帰ろうかと思案したところ、黄と白を基調としたピエロが登場し口上を述べ始めた。
「貴方の美しい鼻が赤く色づく衣更着、皆様のお加減は如何でしょうか? さて三日月が天より見つめる刻となりました。欠けたのは果して月ではなく私達の瞳なのかもしれません。赤茶けた薬缶は磨かれ既に赤銅色に輝いております。蒸気もふんだんに御用意いたしました。しかし、残念ながら爪は桃色ではありません。接吻する唇も存在いたしません。もう、永遠に失われてしまったのです」
そこで黄と白のピエロはがっくりと肩を落とした。しかし、次の瞬間、帽子のてっぺんに付いている黄の丸くていじましいぼんぼんを激しく振りながら起き上がり、
「百八つの懐中時計と共に喇叭を吹き鳴らそうではありませんか」と甲高くこだまするような雄叫びをあげた。
その言葉と共に赤と白を基調とするピエロ達が鈍く光る喇叭を甲高く鳴らした。公園の周囲に配置された赤と白のピエロが吹く喇叭は、まるで羊飼いの忠実な犬のようで、飼い馴らされた羊である私達はテントの中に進んでいった。
足がすくみ、立ち止まってしまった。
真っ暗な、そう、都会では見かけなくなってしまった本当の闇が私を包んでいた。
閉ざされた視界に呼応するように恐怖が忍び寄ってきたが、仕切られた空間にぬるい風が息巻いていて、不思議と安堵する気持ちがささやいた。気が付けば、足元には仄かな蛍光が点在していて、前の人の靴を見つめながら進んでいった。
先導のピエロは甲高い声で導いている。
いち、にい、さん、しい、ごお、ろく、しち、はち、きゅう、じゅう、じゅういち、じゅうに、じゅうさん、じゅうし、じゅうご、じゅうろく、じゅうしち、じゅうはち、じゅうく、にじゅう。
はい、貴方からは此方です。羊の群れは鳴き声一つあげずに羊飼いの杖に従った。私は、じゅうし、と数えられ、少しギイギイという音を奏でる鉄パイプが組み合わさった椅子に座った。
そして目を閉じ、静かなざわめきに浸る。人の息遣いを聞きながら心地よくまどろむ。どれくらい昔のことであろうか、両親の声を聞きながら寝入ったあの感覚がよみがえってくるようだ。
「ようこそ、今宵、皆様の御案内役を務めさせていただく、哀れな、哀れなピエロで御座います。まずは、当サーカス、百八つの懐中時計の由来でもお話しましょうか」
薄目を開けると、赤と黒を基調としたピエロが舞台の上で両腕を広げていた。
「百八つは、除夜の鐘に。懐中時計は、時間に。それぞれ関係しております。つまり、煩悩の数と、秘められた人生を示しているのです。さらに分かりやすく言いますと、人の一生、のことなのです」
ピエロの前には円形のテーブルがあり、その上には四角い箱が置かれていた。口上と同時に、大きく広げた手が箱の左右を抑え、頭上に持ち上げた。
生首があった。
箱の中には、髪の長い女の首、があった。
途端に、ハッと皆がざわめき出した。
「例えば、そう、この女は未練を残しています」
ピエロは生首の髪をつかむと、突然、前方に投げた。
スイカを地面に叩きつけたような、内側から赤い汁が流れ出すような音が聞こえた。
「正しく、この女の生涯はこのようなものでした。あっけなく潰れ、それを憶えている人もいない。両親はとうにこの世には存在せず、唯一の肉親である妹もこの女のことなど憶えていないでしょう」
ゆがんだ生首を持ち上げ元の場所に戻した。そして、ピエロはにんまりと笑い、手についた赤い液体を振り払った。
「しかし、今宵おいでのお客様方は、是非この女のことを憶えていてあげてください。それが、せめてもの供養となるに違いありません」
そうして、再び、生首は箱に覆われた。
「では皆様、これより開幕いたします。どうぞ、御存分にお楽しみ下さいますよう。心より願っております」
深々と頭を下げたピエロは、正体を無くしたかのように、床に崩れ落ちた。そのまま、誰かに足を引っ張られ、消え失せる。あたかもマリオネットのように。
静かなピアノがリズムを刻んでいる。微かに聞こえる音に耳を澄ましていると、足音が聞こえてきた。
暗闇を照らすライトは太陽の化身のように私を眩ます。舞台の右端にスポットライトがあたっていた。
「さあ、お待ちかね、当サーカス一の美貌を誇る加佐音のナイフ投げで御座います」
ゴルゴダのひそみに習い、貼り付けられた女が登場した。十字架を運んでいるのは、黒と赤のピエロ。
「何の因果で御座いましょうか。十字に縛り付けられた美女は一体何の罪を犯したのでしょうか?
窃盗? いえいえ違います。
淫行? いえいえ、清純な女で御座います。
殺人? さあ、私の口からはなんとも……」
黒を基調としたピエロが大きく手を広げ、自らを抱きしめる。そうして、しばし黙り込んだ。
想像を掻き立てるかのような静寂に、私は頭を抱えた。誰を、何で殺したのだろうかと、考えてみる。
……カタン。
物音だ。
……カタン。
規則正しく鳴らされるピアノの音と、カタンという音が重なっていた。
……私です、カタン。
きょろきょろしてみたが、一向に何の音だか分からなず、ただ、十字にかけられた美女の横顔を見つめていた。
……私が殺されたんです。壇上の、あの哀れな生首、そのケースが震えていた。カタン、カタン、と。
「殺されたんです。皆さんは御存知ですか? この日本に合法的な殺人があるということを。この女は、人を殺していながらも罪を問われていないのです。いいえ、うまく隠しとおせたわけではありません。しかし、無実なのです。信じられますか? これでは全くの殺され損ではないですか。せめて、殺された、死んだという事実を憶えていてくれるのなら、辛いことですが納得もできるでしょう。しかし、誰も私のことなど知らない。あなた方は、そんな人生をどう思います? 誰かには憶えていて欲しい。せめて家族や愛する人には……そう思うのは変なことではないですよね?」
そーーっと箱に近寄り、赤を基調としたピエロは箱を、
箱を持ち上げた。
先ほどと寸分違わぬ生首がそこにはあった。ただ、キッと目を見開いて、口を動かしてはいたが。
「私は殺されたのです。ねえ、それがどんなことだか分かりますか。どんな気持ちだか考えたことがありますか。全ての道は閉ざされるのです。不幸になることすら許されないのです。ただ、死の瞬間の記憶を延々と再現しながらじっとしていることしかできないのです」
ふと見ると、十字架に貼り付けられた美女は、微かに震えているようだ、あのピアノのリズムに合わせるように。
舞台は静まり返る。そして、だんだんとピアノの音が大きくなっていった。
だんだん、だんだん、まるで何かの登場を待ちわびるかのように、執拗な旋律が満ちていった。
だんだん、だんだん、だんだんだん、だんだんだん、だんだんだんだん、だんだんだんだん、だんだんだんだんだん、だんだんだんだんだん、だんだんだんだんだんだん、だんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんだんっ!
唐突に、音が止んだ。
ライトが消え、舞台は私の目の前から消えてしまった。
「忘れているんでしょう、貴方は」
声が聞こえた。
「貴方は、私にしたことを忘れているんでしょう。ふふ、思い出させてあげましょうか。ねえ、本当に忘れてしまったの? 私はこんなになっても憶えているのに。ああ、私に手足があれば、貴方に思い出させることができるのに。ああ、手足さえあれば!」
照明が
ライトが眩しくひかり、気付けば、生首に両手と片足がついていた。
女が、片足の女が舞台の中央に立っていた。あの生首に手足がついていた。
「……あははは、そうよ、これが欲しかった。片足など無くても、私は貴方に復讐することができる。思い出させることができる、ふふふ、あはははは……ねえ、どうして忘れていることができるの。私はこんなにも……こんなにもこんなにもこんなにもこんなにもこんなにも」
ふう、と女は息を吐き出した。そうして、いつの間にか用意されていたのだろう、舞台の左隅の台に載っているナイフを手に取った。片足の女がピョンピョンと跳ねながら、ナイフに辿り着き、それを手に取った。
「アイシテイルノニ……私はこんなにも貴方を愛しているのに!」
女の右手首が鞭のようにしなり、ナイフが一直線に舞台を飛び、加佐音に届いた。
べきっ、とベニヤ板を蹴破ったような音が聞こえ、加佐音の頭スレスレに光るナイフが刺さっていた。スローモーションのように、落ちる髪の毛がその危険な行為を証明していた。
「さ、さあ、皆さん。果たして、美女、加佐音は、復讐者のナイフから逃げ延びることができるのでしょうか」両手を大きく広げながら、中央に赤と黒を基調とするピエロが登場した。
「人の世というのはなんとも不思議なものであります。そして、人の感情というものも……」
べきっ。
また、女の手首がしなり、ナイフが刺さっていた。
大きな身振りで、人の口上をのべていたピエロの顔のすぐそばを通過し、加佐音の右の脇の下に、ナイフは刺さっていた。
ピエロは女の方を向き、また正面を向いて「そして、人の感情というものも、不思議な……」
股の下に、刺さる、ナイフ。
「ねえ、邪魔しないでよ。せっかく私の望みが叶うのに」
一閃、そして左の脇の下に。
ピエロはあたふたと後ずさり、お約束のように転んだ。
「ふふふ、何かしゃべったらどう? 加佐音母さん」
べきっ、左足首の側に。
「貴方の水子なんです。とでも言ったらいいのかしら、私のことは。ふふ、非現実的で驚いた? でも、貴方が3年前の11月21日に堕胎したのは事実でしょう? 私の可能性の全てを貴方は奪った。それは許されることなのかしらね」
左の耳を掠めて刺さるナイフ。
生首はにんまりと口を歪ませ、
「ふふふふ、嘘。そんなことあるわけないでしょう」
手首をひるがえす。
右の耳を掠めて、ナイフが刺さった。僅かに血が滴たり落ちた、そんな気がしたのは錯覚であろうか。
「私、あそこにいたの。貴方の次に堕胎した。ううん、違う、堕胎しなければいけなかった。だって、子供は、私の赤ちゃんは死んでいたんですもの。交通事故というものがあるでしょう。右足も、それで失った」
そして、肩で大きく息をした。私の体は緊張に固まり、鳥肌が浮かぶのを感じた。
「青年だった。私に突っ込んできたのは、バイク。道路に飛び出した子供を避けて、私に突っ込んで、私の赤ちゃんを堕胎させて、そして、壁にぶつかって潰れた」
ばきっ、と刺さったのは右の脇腹の側。
「ねえ、私は貴方が羨ましかった。ふふふ、思い出した? あはは、あの時、目が合ったじゃない。あれは、お気の毒さまってことなんでしょう?」
どすっ、と音がして、十字架にかけられた加佐音の右足に、ナイフが、刺さっていた。
「哀れみなんて、ふふ、いらないのよ」
どすっ、と再び右足に刺さり、加佐音の体が海老のように跳ねた。
「返してよ、私の赤ちゃん」
黒を基調としたピエロが、女を後ろから押さえ込んだ。片足でバランスのとれない女は、たまらず転び、奥に引きづられていった。
「ふふふ、ねえ!」
そうして、女は満面の笑みを浮かべ、
「聞いているの?」と囁いた。
十字架は、赤と白を基調としたピエロに引きずられ、舞台の袖に消えた。美女はただ、ぐったりとぶら下がっていた。
「さ、さあ、続きましては、怪力自慢の登場です。さあ、脅威の怪力兄弟!!」
騒然とした舞台で、ピエロが叫んでいた。まさしく、道化としかいいようがなく、私はぼーっとしていた。
ナイフ投げが心に残っていた。
あれが演技であるか、芝居であるかどうかなど、関係ない。
ただ、その迫力に圧倒されたのは確かだ。
私は、あれほど真剣に、何かをしたことがあっただろうか。
その答えは、思いつきもしなかった、考えても出てきそうになかった。
舞台では、小さな、と言っては失礼にあたるのであろうが、小さな二人組みが登場し、鉄球のキャッチボールや、重量挙げを披露していた。いや、もしかすると単に子供なのかもしれない。しかし、小さい大人なのかもしれない。
フリークショウという言葉を聞いたことがある。自身の障害を見世物とするのだ。聞いたときはおぞましいとしか思わなかった。しかし、自分の弱い部分を見せる、そのことには驚いた。敬意すら抱いた。
今、それを目の前にして、私は、
私は、後悔していた。
私は自分の弱いところを隠しながら生きてきた。
勉強が出来なかったのは、教師の教え方が悪いからだ。家では、親がうるさく、勉強に集中することなど出来なかった。漫画を読んでからやろう、音楽を聴ききながらやろう、おっ、そういえば面白いテレビがやるんだっけか、ラジオも聞き逃したら損だ。
勉強だけじゃない。なんでも人の所為にして生きてきたような気がする。
人はどうして生きているのだろう。
いや、そんな大げさなことではない。
私は、何をしてきたのだろう。
私は、これから何をしたいのだろう。
怪力芸が終わり、舞台にはロープが張られていた。
遠目にも情けない中年の男が、ぽたぽたした腹をさすりながら、よたよたとロープを伝っていく。
不快、
不快だ。
私は鏡が嫌いだ。現実の姿を通り越して、本当の自分を見せつけられているような気がする。あのにやけた唇と、ぼてぼてとみっともなく肉のついた肢体、全てが私の癇に障る。あのロープを伝っている男は、私なのかもしれない。みっともない、そして泣きたいくらい情けなかった。
「さあ、果して、無事に渡り終えることが出来るのでしょうか!」
赤と黒を基調としたピエロが叫んでいた。
私は、心の中で、落ちてしまえ、落ちてしまえ、みっともない自分など、
落ちてしまえ!
と唱え続けていた。
私など、落ちてしまえ!
その言葉が届いたのであろうか、男はあまりにもみっともなく、床に転落した。
クスクスと会場からは笑いが漏れた。クスクスとどことなく湿った笑いが広がる。ただ、私は同じように笑ってはいたものの、みっともない中年と共に、自分のことをも笑っていた。
どうして私は生きているんだろう。言葉が頭を過ぎる。
ヨタヨタと起き上がる中年の男は、ヨタヨタと梯子を登り、また綱渡りをしはじめた。
ふらつき、よろけ、両手をあたふたと振り回し、必死にバランスをとり、結局、また落ちた。少なくとも2mの高さはあろう綱からポテンと転がり落ちた。失敗するなどとは考えていないのだろう、下にはマットさえ敷かれていない。そこに中年男は落ちた。
今度は誰も笑わなかった。ただ、ただ中年男を凝視していた。
男は三度、綱渡りを試みた。汗をかいているのであろうか、梯子を登り終えると、両手で顔をぬぐった。そうして、両手で頬を張った。
世の中には三度目の正直という言葉がある。この息苦しさから逃れるために、私は気休めとは思いつつも、祈った。
成功してくれ、と祈った。
しかし、あっけなく中年男は落ちた。たった数歩で落ちた。今度は打ち所が悪かったのか中々立ち上がらない。
そうこうするうちに赤と黒を基調とするピエロがあらわれ、こう言った。
「現実というものは、なんとも過酷で辛辣であります。皆様、これが、人生なのかもしれません。怠惰の報いを、安寧としたぬるま湯に浸り過ごした日々の、結末なのです」
がくっと肩を落とし、頭を垂れた。帽子のてっぺんに付いている赤く尖ったぼんぼんが、ぷらんぷらんと揺れていた。
その動きに呼応したかのように中年男の体もぷるぷると震え、ようやく、起き上がり、またしても梯子を登った。
もう十分だよ、そう声をかけたくなった。代われるものなら換わりたかった、いや、あれこそが、私、なのだ。みっともなくとも、目をそらしたくとも、見なければならなかった。
一歩踏み出し、よろけた。
いつの間にか握り締めていた手の平が汗ばんでいた。
わたわたと腕を振り回しながら、また1歩進む。
やりとげてくれ、そう声をかけたくなった。頼むからやりとげてくれ。
今度は慎重に半歩。
頑張れ、頑張れ、人に何度その言葉を投げかけただろう。言うことは簡単だ。しかし、自分は何もしなかった。焦りつつも、無為に日々を過ごしていた。
一気に3歩進み、よろけた。
いつからか、自分を慰めていた。馬鹿だからしょうがない。努力することも才能なんだ。第一、何をしたいのかわからない。それを見つけるために遊んでいるんだ。いや、遊んでいるんじゃなくて人生勉強なんだ。
振り子のように左右に揺れる。徐々に揺れが小さくなり、また1歩。
嫉みもした。成功している奴を嫉み、そんなことがなんだ。自分もやれば出来るんだ。そう繰り返した。
2歩進む。
そう、スタート地点は同じだったのだ。ただ、努力を怠った。それも十年、二十年という単位で。だから、私は……私は諦めた。私は天才じゃない、そう言い聞かせた。特別じゃないんだ、そう言い聞かせた。
中年男はコツを掴んだのであろうか、今度は一気に5歩進んだ。あと少し、あと少しで渡り終える。
私はみっともないことが嫌いだ。駄目なのに、足掻いてどうにかしようとするのが嫌いだ。出来るかもしれないことも、駄目だと決め付けて諦めた。いや、嫌いだった、諦めていた。
かっこいいじゃないか、そう自然と思えた。
足掻いてみよう、そう不思議と思った。
ついに渡り終えた。会場からは拍手が沸き、中年男は謙虚に頭を下げた。
この中年男を見ていたら、そう思えた。
足掻くことは、かっこいいのではないか。
そう思えたのだ。
次に控えていたのは、ジャグリングと空中ブランコであった。この二つは、別段変わったところもなく、純粋なショーが続き、私もただ楽しんだ。
物事を純粋に楽しんだのは、何年ぶりだろうか。
そうして、最後に襲いくる空中ブランコにピエロが連れ去られ
「皆様、そろそろ終演のお時間となりました。また、機会がありましたら、お会いいたしましょう。皆様の百八つの懐中時計は消え失せたのですから……では、ごきげんよう」
上空から降ってくる声、そうしてライトが点いた。
私は立ち上がり、もう蛞蝓ではない、ただの雪を踏みしめて家に向かった。
鮮明、だった。
公園から家までの道のり。通りなれた風景。何の変哲もないはずなのに、鮮明だった。
何より、明るかった。そう、夜のはずなのに明るかったのだ。
黄色く点滅する信号がそう思わせたのかもしれない。相変わらず、ぼーっと見つめ、携帯電話のリダイヤルボタンを押した。バイト先にだ。
「退職の手続きをお願いしたいのですが」
明日から、職探しをして、両親に会いに行こう。
そう、思った。
* *
季節が移り、街灯に群がる虫がいなくなったかのように、公園は閑散としていた。
テントは既に解体されつつあり、大型トラックに運び込まれていた。
「なあ、あれは考え直した方がよくないか?」
一人の男が作業を中断して話しかけた。それを聞き、皆も手を休める。
「なにを」綱渡りの中年男が受けた。雪が降っているにもかかわらず、半袖のシャツを着ている。
「ナイフ投げで御座います。わざわざ片足にする必要はないのでは」そう返して両手を広げた。ピエロの仕草だ。
その台詞に呼応して、女が歩み寄る。ナイフを投げていた、生首の女だ。
「そう、足ね、縛られてると痛いの。それに、ライトやなんかで隠しているとしても、ばれる可能性もあるし」
隣で加佐音が頷いた。
「後は、怪力芸も見直さなければなりますまい。お客様の中には、あれが特注の鎖やバーベルであることに気付かれた方もいらっしゃるのではないでしょうか」わざとらしい敬語を使い、またしても両手を広げた。
「そんなことを言うがなあ、金が無いんだよ。先立つものが、な。だから、二つの家族が力を合わせて生きていくしかないだろう。それに、そうしていりゃあ、子供達も大人になる、そしたら変わるさ」
中年男は皆を見渡した。
「さっ、作業再開だ」
率先して、テントの解体作業を再開する。舞い落ちる雪にまみれながら作業は続き、ふと、誰かが、
「我々のような一般人にとっては住みにくい、過ごしにくい時代になりましたなあ」と両手を広げた。
雪は、時間と共にますます強くなり、辺りに降り注ぎ、そうして、一面、いや全てが輝かしい白さに、
全てが、雪に、
覆われたのだ。