平成11年10月24日(日)〜

昼休み
 
 
 

 M君は急いでいた。
 会社から銀行まで十五分、往復三十分だから。
 そのあと社員食堂なので、ぎりちょん。
 途中、交通事故の地蔵さんの横で、中年の女の人がうずくまっていた。おなかのあたりを押さえている。
 M君は初めびっくりし、一秒の半分で状況を理解し、眺めながら早足のまま通りすぎた。たばこを出して、火をつけて、吸いつつしゃっしゃっと歩いた。
 横道から、よっ、と声がする。
 あ、こんちわ、と手を振って、これも通りすぎようとした。けれど、親しく話しかけてくるから、挨拶程度は交わさなければならなかった。
 O氏だった。同じ会社の人。前は同じフロアにいた。
 O氏は東大出だけれど、ドイツ語の原本が読めるそうだけれど、ほとんど高卒の人しかいないフロアで、人間シュレッダーと陰口されていた。または「鋏をもった人」という。朝から晩まで、要らなくなった書類やそれほど機密を必要としないゴミまで、ぱちぱち切り刻んでいた。黙々とそれだけ。一年中。
 M君のフロアから別に移される少し前、応接セットで机をどがんどがん叩いて金切り声で、課長に抗議していた。フロアの皆は課長はきっと殺されるとまで思った。
 だから、昼休みだからここら辺を散歩しているのではないんだ。今は、いつ散歩してもよくなったはず。

 宝くじを買っての帰り道、地蔵さんの横では女の人がまだ苦しんでいた。
 少し行くと、O氏が公衆電話に怒鳴っていた。
 M君はちょっとお辞儀をして、時計を見て、横断歩道の青に走った。一度振り返った。

 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
作品記録:
 平成4年6月28日(1992年) 初稿。
 1999-02-14 小説工房談話室 #1135 に、「哀憐笑話(二)」として発表。多少推敲あり。二稿。
 1999-10-24 本頁に掲載。二稿のまま。