- 十一時に起きて食事をし、昨日の朝刊と夕刊、今日の朝刊を読みました。そして、私の部屋の大掃除をしました。六畳とトイレ、風呂場。台所は明日まわしです。しかし、朝の、世間では昼近い時の今日の空はまっさおで、すっからかんに青く晴れわたっていて、なんてきれいだったんでしょう。私は「幸福の青い空」と唱えます。ああいう空の下だと朝会社に行くときなども、たったか走りたくなります。身体の重さも疲れも感じません。昨夜、布団の中で眠れず、このまま心臓がぱんとかいって終わるんかなどと感じていたのが夢の如しです。布団の中では反省していました。一昨夜は忘年会、二次会で飲んで歌って帰り着けば深夜でした。次の日、身体からアルコールが抜け切らずふらふらしていたのに、忘年会の集金係で金勘定したり、そのあと大張り切りで脚立にのぼって螢光灯ふいたりバイトの女の子たちにさしずしたりラップだペンキだとはねまわって、これだけのことの後では当然三十過ぎのおじさんなのですからぐったりして丸太のように部屋で転がっているべきでしたのに、帰り着いてほどもなく原稿を始めて連続十時間書きっぱなし。若くはないんだよ、死んでも知らんぜ、と我ながら悲しくなりました。
- そういえば、忘年会、思いだしたことがあります。二次会はカラオケスナックでした。私は幼稚園生の頃、毎日歌うことが生きがいみたいな子供でしたのに、小学生のいつか悲劇的な自己発見をしたらしくて以後今日まであわれなほどの音痴で調子っぱずれです。だからカラオケは嫌いといっていいぐらいです。お酒も、若い頃の力まかせの飲み方みたいのをやめてからは習慣も抜けて、たまに少しぐらいならおいしいかと思う程度です。ならなんでくっついていって夜中までげらげら笑っているんでしょう。会社でも必要以上に騒がしい時や、たいした用でもないのにもったいぶって人に話しかけたりをします。逆に催眠状態にあるようにほとんど他人を無視して仕事に没している時もあります。でもこれも、意地悪く解釈すれば、他人を無視しているという私を、その他人に見せたいだけなのかもしれません。こういうことはみんな、淋しいからでしょう。人恋しくてしようがないんだと思います。だけれどもこれはあたり前で、恥ずかしいことなんかないんだと、私は私に言います。思い出したというのはこういうことではありませんでした。それは、二次会で誰かが歌っている時です。すでにだいぶ時刻もいっていて、いわゆるたけなわ、アルコール、音曲、人声とこなれぐあいも上々の中で、そしてそれが少し疲れてきた頃合、私は今だろうと思って隣にすわっている係長に頭を近づけぼつりと質問しました。いったいどうするんですか。年末だし、少なからぬ因縁があったからおたずねするんですが、佐久間さんをいったいどうするんですか。係長は答えました。しょうがないだろうが。何をやらせても嫌だ嫌だで。冷たいだろうが、これ以上は俺は知らない。だってどうしようもないでしょう、本人がやらないんだもんさ。私は言います。でもあんな子は本当にもういませんよ。見捨ててしまうのはあまりにもったいないです。係長は、わかるけどという仕草をして、でも居眠りじゃな。あんなんじゃ、ほかに推薦することもできやしない。うちの仕事じゃ嫌だったって、居眠りじゃな。係長はなんて、冷たいんですか。若いからそういうことがわからないんですよ。まあな。とにかく三月まではって言ってあるけど。お、俺の歌だ。−−という会話がありました。酔っぱらい同士が無責任にあなたを批評していると思いますか。
- 昨日の続きです。私は、あなたというすばらしい人に関わるというしあわせが、何を残してくれるのかわかりませんでした。あなたが私の恋人になる、せめて女友達になるということを楽しく想像しました。でもこれは今でも笑ってしまうような空想だし、あれはこうして、これはこうではなくてと、現実の条件をかなり設定しなおしてかろうじて物語に説得性が生ずるという空想です。現実では、あれをこうすることもこれをこうではなくすることも全く不可能か、相当な努力や幸運がなければ無理だろうと思われました。私は楽天家ですから顔を手でおおって悲嘆に沈み結局はあきらめるなんてことはしませんが、現実は現実、手持ちの材料でどうにかしようと心をくだきました。
- 最終的に、ほかのものがどうしてもだめなら、私には思い出が残れば良しとしよう、と思いました。そのかわり、あなたに私の大事なものを残してしまえ、それなら私は満足できるだろう、と考えました。あなたと私の関わりにおいて、あなたの中に残してしまえる私の大事なものとは、二人でしていたあの製版という仕事です。私がするかもしれなかった、ということは、生きるかもしれなかった何年間かをあなたが替わりに生きるという発想です。私が今以上に心血を注ぐなら質量ともに一人前として通用する仕事をあなたはできるようになるでしょう。私のもっているものを、かなり難解で神経の疲れるものだと私は思うのですけれど、優秀なあなたは拍子抜けするぐらい楽々吸収してしまう、思いもしなかった新しい視点でもっと明解にしたり、高精度にしたりということもあなたならできると思いました。私は真剣に私の大好きな仕事を、大好きなあなたに指導します。そうすればするほど、私の大好きな仕事は大好きなあなたのものになっていきます。それはつまり、しだいに私の存在はうすまり、私の大好きな二つが少しずつ私の手を離れていくということでしょう。いずれポジション争いがあります。言っておきますが、私は始めからリングに上がらないなどというつもりはありませんでした。堂々と戦うつもりでした。それが尊敬するあなたと私だけのものだった仕事に対する礼儀でしょう。勝負ですから、どうなるかわかりません。あなたが本当に真剣なら負けてもいいと思っていました。あの会社ではもうあの製版という仕事以外する気がありませんから、私は辞めます。しばらくこちら側に戻って貯金を食いつぶすのもいいし、別の世界で新しい労働の経験を積むのも悪くありません。私は、勝つことになってもいいと思っていました。でもこの場合は、勝ってもやや淋しかったと思います。(しかし、これらは、結局はあきらめる、ということでしょうか。しかしながら)これらは、一つの理想の未来でした。
- 理想でした。だけれども、多くの大きな嘘がすでに含まれていました。なぜなら、述べたような理想が言葉になってちゃんとした骨組を持ったのは夏の盛りも過ぎようとしていた頃だったからです。短い夏休みのあと、どうしてなのか、あなたは変わりました。なぜなのか、あなたは前のあなたではなくなった。新入社員の何も知らなかった、見ること聞くことすべて緊張だったそれが、夏休み帰省しているあいだに夢から醒めてしまったように、あなたは前へなのか後ろへなのか一つ育ってしまいました。本当の理由は私にはわかりません。どんなに推測しても今もってこれだろうということすら思い定められません。もしかしたら、あなた自身にもわからなかったのじゃないかと疑ってまでいます。あなたは、はっきりと意欲を落とし始めていました。居眠りも始めました。注意しても、すいません、とあなたはいわない。
- 「わたしは病気になりたい」
- あなたは、長いまつげのためではなく暗い眼をして、言いました。私のかわいがっている機械を爪先でけるよう扱いながら。
- 「病気になれば会社を休めるから。仕事をしなくてすむから。こんな係なんか、この世からなくなっちゃえばいい」
- 私はその時も言いましたが、繰り返します。そういう不吉な言葉を言ってはいけないのです。病気で休んで何がうれしいんですか。健康で仕事ができて、健康で休日を楽しんで、だからこそしあわせなんでしょう。有休をとればいいでしょう。望んでも健康を得られない人が聞いたら、なんと思うと思いますか。どんなにかなしく感じるだろうとは想えませんか。みんなが一生懸命働いて自分と家族の生活の糧を得ている職場が、なくなるというのがどういうことか、あなたにはわかりますか。私は母親に教えられました。母親の妹の叔母にも教えられました。父親も言ってました。人は何を望んでもいい。心の中でなら。心の中でなら、一旦望んでもまだ取り消すことができるから。願いは必ずかなえられる。それを言葉にして声にして願うなら。そのかわり、一旦発した言葉は取り消すことができない。だから不吉なこと、呪いを、決して口にしてはいけないよ、と。私は迷信だろうぐらいに思っていましたが、どうやら本当です。その時はそれでもいいと思っても、後になってそうなっては困る時になって初めて、不吉な願いはかなうものらしいのです。そういう言葉を、たとえ甘えのためであれ口にしてしまうあなたの素質に、私は黒い点を感じました。
- 以前にも居眠りをしたことは、あなたはあります。顔をあからめているあなたに、若いからいろいろ遊びたいんだろうけど、夜はちゃんと寝なきゃだめだよ、と私は言いました。あなたはうなずいたようでした。しなきゃいけないことがたくさんあるから、とあなたはいいましたっけ。
- でもその夏の頃は、そういうことではありませんでした。そうでしょう。たとえ寝不足でも、昼間の半分も船をこいでいるというのは異常です。私が席を離れて新しいコピーの機械の講習を皆と受けていた時、肩をさわられました。その人が指さす先をたどると、あなたが眠っていました。しょうがないなあと思って、またしばらくして見ても眠っていました。何度目かにしょうがないなあと思ってから、私は受講を切り上げ席に戻り、あなたを起こしました。眠ってばっかりいるんじゃないよ、と叱りました。私は席で仕事を始めました。居眠りしても仕事に誤りがなければいいとあなたは思っていましたか。仕事が遅れても私が尻ぬぐいをするから誰に迷惑もかけないとあなたは思っていましたか。ちなみに、その時の新しいコピーの機械を、だから私は以後使いたくなくなりました。(今思い出すと、この日あなたは、二つあるうちの大きい方の製版機を担当していました。夏休みの前まであなたは小さい方を担当していて、ほぼ十分に使いこなしていました。私は大小二つの機械が使えなければ、製版担当者として十分ではないと思っていました。休みが明けてからもあなたはしばらく小さい方でしたけれど、そして私が大きい方でしたけれど、あなたの意欲が急に落ちて来たような気がして、あなたの意欲がまだあるうちに大きい方を教えてしまいたいと思いました。意欲が落ちたように見えるのは、同じ機械ばかりでマンネリになったからじゃないのか、また新しい機械に取り組めば始めの頃のようにあなたははりきりだすんじゃないか、そんな風に考えました。あなたは担当を交替することを嫌がりました。大きい方は難しそうだし時々キーキー音がするから、などと言いました。先生としてはそういう不安などおかまいなしです。最初は皆そうです。難しいのもキーキー音がするのも本当でしたが、私にできることがどうしてあなたにできないことがありましょうか。その交替した初日の午前中、あなたは半分眠って半分起きているような状態でした。本当に寝不足なのか。あなたの意に反して強引に交替させたことへの抗議の意味なのか。私はどちらにしろ頭に来ました。早退するか、と私は言いました。そんなことじゃ、しょうがないでしょう。それに今してもらっているのは割と急ぎのものなんだよ。比較的簡単だけど、眠っていちゃできる訳がないんだ。あなたは、早退しない、と言いました。私は今日だけと言って、再び二人を交替させ、その日あなたがするはずだった方の割と急ぎを片付けてしまいました。私は、ちょっときつい言い方をしたから、あなたなら反省できるはずだと思いました。休みボケもこれで醒めるかな、と希望的観測もしました。次の日から、改めて、あなたは大きい方の製版機を担当して、私が想定した通りの課題に悪戦苦闘することになりました。が、私の観測は甘かったらしいです。きめ細かい誤りの少ない、一度言われたことは決して忘れないあなたの特性は残っていても、居眠りはほとんど病気のようになってあなたを去りませんでした)
- 新しいコピー機の講習のあった日、私がかなりきつくあなたを叱った日の終わり間際、私はあなたにたずねました。佐久間さん。一つ訊いてもいいかな。あなたは無言でした。機械の硝子などふいて後片付けをしています。うなずいた風に見えたので続けました。
- 「どうして、眠ってばかりいるの」
- 実の所、その時間になるまで、私は何度もあなたとのその時の会話を頭の中で想定して、こう言ったらいいんじゃないかとかこれはどうだろうか、こう答えてくれたら、こういう答えのくる質問はよくないだろうなどなど、混乱ぎみに組み上げては崩していました。案を練っていたというよりは迷っていました。あなたのことがわからなくなって来ていたのです。答えないあなたに少し近づくと、あなたは身体の位置を変え遠のきながら、返事をしました。
- 「眠いからです」
- これは答えにはなっていないんです。私はしばらく言葉を詰まらせ、くちびるを噛んでから言いました。
- 「それはどういうこと。つまり、仕事をする意欲がないの」
- あなたは、はっきりうなずきました。
- 私は丸椅子に腰を落としました。立っていられないような感じでした。
- 結果として、最低の質問をし、最悪の答えを得たのです。だけれども、私はたずねたい核心を、あなたは答えたい真実を表わしたのですから、いたしかたないとも言えます。問題は、ならばどうするかでしょう。あなたは、あなたの真情を確かに表わしたでしょうけれど、その後の行動も対策も、無知のためなのか、自分のためのそういう意欲まで減衰させてしまっていたのか、それからの数日数週間、数ヶ月にわたって思い返してみてもあまり有効なものはつくれなかったし結局できなかったように見受けます。(たぶん努力はしたのでしょうから、少しひどい言い方かもしれません)。あなたを救い上げるというような形のことに関しては、私も同様、何もめぼしいことはできませんでしたけれど。しかし、あなたを救うのは、私の仕事ではなくてあくまでもあなたの仕事ですよ。(そういえば、あなたが風邪ぎみでお腹も痛いと言っていた日がありました。病気なら無理することないと思って、風邪をひいてしまうとかお腹が痛いとか、ほかの人にはどうすることもできないことなんだよ。佐久間さんが自分で気をつけなきゃ。と言いました。もっと自分をいたわれと言いたかったのですが、あなたにはおそろしく冷酷にひびいたでしょうか)(もう一つ思い出しましたけれど、この夏の頃からあなたは私の身体が物理的に近づくのを怖れ避けるようになりましたね。隣の席で仕事をしているのですから、そこまではしょうがないとして、何か説明する時に私が身を寄せると椅子をずらしたりややのけぞるようにしました。手を伸ばせば、あなたは手を引っこめます。単純な恥じらいと思っていた私は馬鹿でしょうか。指先どうしが触れてしまった時、あなたはすばやくそれを引っこめて、なんだかその指を見ていませんでしたか。その後、気がつくとあなたは席をはずしていました。私は指を洗いに行ったのだと直感し、おそろしいほどの侮辱を感じました。本当に洗いに行ったのですか。それとも、そんな程度ではなく、吐き気がしたのでしょうか。なんにしろ、この傾向はだんだんひどくなって、九月か十月ころ、すでにあなたが製版を離れてしまって遠い席にいる頃も、掃除の時間などに、あなたは決して私のそばを通ろうとしませんでした。私がモップなどかけていれば遠まわりをして道具を取りに行ったりします。朝も帰りも、たとえ私が挨拶を声にしても答えません。あるいは、ちょっと首が動くだけです。仕事のことであなたの所まで行って、一ヶ月ぶりぐらいに声をかけた時など、跳ね上がるようにとびのいて、椅子から落ちそうでしたね。そしていつも口から鼻のあたりを手で隠してこちらを見る風でした。私よりあといくらかぐらいだけ神経の細い男だったら、十分に心の病気になっていたでしょう。幸い、冬になる頃には、あなたのそれはあまり目立たなくなりましたけれど)
- あなたが仕事をする意欲がないとうなずいた日の話には、付け足しがあります。でも、もうすぐ朝の四時なので、あとは明日です。
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